第五話 呼び戻された男
会社に着いたのは、二十二時を少し回った頃だった。
タクシーを降りる。
見慣れた建物。
毎日通っている会社。
なのに。
金曜のこの時間に見ると、妙によそよそしく感じた。
「……本当に戻ってきちゃったよ」
誰に言うでもなく呟く。
自動ドアを抜ける。
当然だが、人はほとんどいない。
昼間なら嫌でも誰かとすれ違うエントランスも、今は静まり返っている。
警備員に社員証を見せ、そのままエレベーターへ向かった。
スマートフォンを取り出す。
『着きました』
上司へ送る。
一分もしないうちに返信が来た。
『そのまま上がってきて』
指定された階を見る。
自分の職場がある階ではなかった。
「…………」
嫌な予感しかしない。
エレベーターに乗る。
ボタンを押す。
扉が閉まった。
鏡に映った自分を見る。
スーツではない。
ネクタイもしていない。
おまけに酒まで入っている。
どう考えても、偉い人に会う格好ではない。
まあ。
飲んでいると言った俺に、
『タクシーで来い』
と言ったのは向こうだ。
今さら服装を気にしても仕方ない。
それより。
なんで、この階なんだ。
目的の階に到着する。
扉が開いた。
廊下の照明は半分ほど落とされている。
その奥。
会議室の前に、上司が立っていた。
「すみません。遅くなりました」
「いや。こっちこそ悪かったな」
意外だった。
少なくとも、怒っているようには見えない。
「酒、どのくらい飲んだ?」
「ビール二杯です」
「話は普通にできるな?」
「できますけど……」
少し間を置く。
「何なんですか?」
「中で話す」
「誰かいるんですか?」
「いる」
嫌な答えだった。
上司が扉を開ける。
「失礼します」
後に続く。
会議室に入る。
そして。
すぐに後悔した。
帰りたい。
一人は知っている。
物性分析班の主任。
何度か仕事で話したことがある。
感情をあまり表に出さない人で、今も無表情のまま資料を見ている。
そこまではいい。
問題は、その隣。
「…………」
直接話したことはない。
だが、この会社で技術職をやっていて、この人を知らない人間はほとんどいない。
技術顧問。
この会社の技術系では、事実上一番上にいる人間。
技術畑を歩いてきた人物でありながら、一時期は中央省庁にもいたという少し変わった経歴を持つ。
国が関係する大きな開発案件では、必ずと言っていいほど名前が出てくる。
なぜ。
この人がいる。
上司を見る。
目が合った。
何も言わない。
先に言えよ。
俺は心の中でだけ文句を言った。
「座って」
技術顧問が言った。
「はい」
促されるまま椅子に座る。
上司が隣。
正面に主任。
その隣に技術顧問。
机の上には何枚もの資料が置かれていた。
見覚えのあるものがある。
俺が朝、上司へ渡したデータ。
分析スペクトル。
温度記録。
サンプルの写真。
そして。
見覚えのないグラフや数字。
俺が帰った後に取ったのだろう。
誰も雑談をしない。
上司すら何も言わない。
さっきまで残っていた酒が、一気に抜けていくような感覚がした。
技術顧問が資料を一枚めくった。
「夜遅くに申し訳ない」
「いえ」
「飲酒後ということも聞いている」
「……はい」
「それ自体を問題にするつもりはない。ただ、これからいくつか確認させてもらう」
「分かりました」
「覚えていないことは?」
「覚えていないと答えます」
顧問が頷く。
「それでいい。推測で答えないでくれ」
「はい」
視線が資料へ落ちる。
「この資料のサンプルを作製したのは君だね」
「はい」
「最初に確認する」
顧問が顔を上げた。
「成膜時間を、規定の約三倍に設定した」
「はい」
「意図的ではない?」
「ミスです」
「どういうミスだ」
思っていた質問と違った。
「どういう……?」
「間違えました、では何も分からない。入力値を間違えたのか。他条件と取り違えたのか。レシピを選び間違えたのか」
「入力値です」
「設定直後には気づかなかった」
「はい」
「いつ気づいた」
「処理中です」
「なぜ?」
「残り時間を見て、長いなと思って。それで設定を確認して」
「そのとき何をした」
「……画面を確認しました」
「それだけ?」
少し考える。
「一度、操作はしたと思います」
主任が顔を上げた。
顧問の視線は動かない。
「何の操作」
「そこまでは……」
「昨日のことだ」
低い声だった。
怒鳴られたわけではない。
それでも、背中に汗がにじむ。
「思い出してくれ」
頭の中で昨日の光景を辿る。
装置。
画面。
表示された残り時間。
嫌な汗。
設定値。
「……すみません。正確には覚えてません」
顧問は数秒、俺を見た。
「分かった」
それ以上は追及されなかった。
ただ、ペンで何かを書き込む。
「思い出したら報告してくれ」
「はい」
「どんな些細なことでもだ」
「分かりました」
質問は続いた。
使用した基板。
材料。
ロット。
前処理。
装置番号。
作製時刻。
処理前に何をしたか。
取り出した後に何をしたか。
普段と違う操作。
装置の異常。
警報。
作業中に気づいたこと。
一つ一つ答える。
難しい質問ではない。
なのに疲れる。
主任が口を開く。
「翌朝、再現確認をしていますね」
「はい」
「三回?」
「三回です」
「三回とも同じ結果だった」
「はい」
「どの程度をもって、同じと判断しました?」
「外観と温度変化です。三つとも同じような虹色になって、水を落としたら発熱しました」
「分析は?」
「最初のものほど詳しくはしてません」
「つまり、同一物質だったかどうかは確認していない」
一瞬、言葉に詰まる。
「……そこまでは」
「分かりました」
主任が何かを書き込む。
俺は技術顧問を見る。
それでも表情は動かない。
「再現確認では何を合わせた」
顧問が聞いた。
「最初のサンプルと同じ基板、同じ材料、同じ装置。それと成膜時間です」
「約三倍」
「はい」
「それ以外は?」
「通常条件です」
「最初のサンプルでは、途中で条件間違いに気づいた」
「はい」
「翌朝の三回では最初から三倍に設定した」
「そうです」
「つまり」
顧問がペンを置いた。
「最初の一枚と、翌朝の三枚では、厳密には作製工程が同じではない」
「…………」
言われてみれば。
そうなる。
「はい」
「それでも同じような現象が出た」
「出ました」
顧問が主任を見る。
主任も小さく頷く。
何なんだ。
何を確認している。
さっぱり分からない。
俺はとうとう聞いた。
「あの」
顧問が俺を見る。
「何かな」
「今回の評価って……そんなに重要だったんですか?」
一瞬。
空気が止まったような気がした。
上司が小さく息を吐く。
「それは俺から話す」
俺は隣を見る。
「お前には言ってなかったけど」
少し言いにくそうだった。
「今回の評価、国の支援が入ってる開発案件の一部なんだ」
「…………」
何を言われたか、一瞬理解できなかった。
「国?」
「正式な提出データじゃない。今回の結果だけで何か決まるわけでもない。ただ、今後の開発方針を判断する上では重要な評価だった」
「…………」
そこで。
朝の光景を思い出した。
『どのくらい?』
『約三倍』
上司の顔が固まった。
てっきり単純に条件を間違えたから怒っていたのだと思っていた。
違った。
「だったら……」
思わず言った。
「先に言ってくださいよ」
しかし。
「それは今の本題ではない」
顧問の声が入った。
空気が一瞬で戻る。
「評価自体は再試作できる。遅れは出るが取り返せる」
「はい」
「我々が今問題にしているのは、そちらではない」
資料を指す。
虹色のサンプル。
俺が捨てようとしたもの。
「君が作った、こちらだ」
主任が一枚の資料を俺の前へ置いた。
「本日、追加確認を行いました」
「分析ですか?」
「それも含めてです」
グラフを見る。
温度変化。
俺が昨日見たものより、はるかに細かく記録されている。
「定量した純水を滴下して、温度変化を確認しました」
「結果は?」
「発熱しました」
「じゃあ、やっぱり何かの化学反応じゃないんですか?」
「その可能性は高いと思っています」
「だったら」
「ただし」
主任がもう一枚資料を置いた。
数字が並んでいる。
「説明がつきません」
「何がです?」
「熱です」
意味が分からない。
「現在確認できている反応前後の変化と、発生した熱量の整合が取れません」
「測定ミスじゃなくて?」
「疑っています」
「装置とか」
「別系統でも確認しました」
「汚染は?」
「否定できません」
「じゃあ、コンタミじゃないんですか」
主任が俺を見る。
「何が混入したのでしょう」
「それは……」
「それを確認しています」
何も言えなくなった。
技術顧問が口を開く。
「君はどう考える」
「俺ですか?」
「君が作ったものだ」
無茶言うな。
そう思ったが、もちろん口には出さない。
「正直……何かが水と反応して熱が出たんだと思ってました」
「何が?」
「……分かりません」
「その何かは、どこから来た」
「分かりません」
「なぜ通常条件では形成されない」
「分かりません」
「なぜ成膜時間を三倍にすると現れる」
「それは……」
言葉が止まる。
そうだった。
それも分からない。
「なぜ翌朝の三回でも同じ現象が出た」
「…………」
「最初の一枚とは、作製中の状況が違うにもかかわらずだ」
質問を重ねられるたび。
自分が何も分かっていなかったことだけが、はっきりしていく。
顧問は俺を責めているわけではない。
むしろ。
確認している。
俺が本当に何か知っているのか。
それとも。
本当に何も知らないのか。
「……分かりません」
正直に答えた。
顧問は小さく頷いた。
「我々も同じだ」
会議室が静かになる。
「現時点では、この現象について分かっていることは極めて少ない」
顧問は資料を閉じた。
「だから調べる」
それだけだった。
大発見。
新物質。
新エネルギー。
そんな言葉は一つも出なかった。
「当面、この件は通常の評価から切り離す」
「はい」
「サンプルは安全管理下に置く」
「はい」
「データへのアクセスも限定する」
「はい」
「そして」
顧問が俺をまっすぐ見た。
「この件について、口外しないこと」
「社内でもですか?」
「必要な人員にはこちらから共有する」
「分かりました」
「友人、家族にも話さないように」
さすがに少し大げさでは。
そう思った。
でも。
誰も笑っていない。
「分かりました」
「最後にもう一つ」
「はい」
「月曜日から、君にもこの件の確認に入ってもらう」
「俺もですか?」
反射的に聞き返してしまった。
顧問の眉がほんの少し動いた。
「何か問題が?」
「いや……通常の業務が」
「こちらで調整する」
即答だった。
「現時点で、実際にこのサンプルを作製したのは君だけだ」
俺は黙った。
「翌朝三回の再現確認をしたのも君だ」
「はい」
「なら、少なくとも作製工程を確認する間は必要だ」
「分かりました」
顧問が資料を閉じる。
「今日は以上だ」
その言葉を聞いて。
ようやく呼吸が少し楽になった。
「ありがとうございました」
立ち上がる。
軽く頭を下げる。
上司と一緒に会議室を出た。
扉が閉まる。
カチャ。
その瞬間。
「…………っはぁぁぁぁぁ」
肺の中の空気を全部吐き出した。
隣で上司が笑った。
「お前、露骨すぎ」
「いやいやいやいや」
思わず声を潜める。
「あの人いるなら先に言ってくださいよ!」
「言ったらもっと酔い醒ましてから来ただろ」
「当たり前でしょ」
「すぐ来いつっただろ」
「限度があるでしょうよ」
歩き始める。
さっきまでとは空気が全然違う。
同じ会社。
同じ廊下。
扉一枚隔てただけなのに。
急にいつもの職場へ戻ってきた感じがする。
「ていうか」
俺は上司を見る。
「めちゃくちゃ詰められたんですけど」
「あの人、技術の話になるとああなるから」
「『なぜ?』『なぜ?』って、子供じゃないんだから」
「その答えが出せないお前も悪い」
「出せたら俺が顧問やってますよ」
上司が吹き出した。
俺もようやく笑った。
本当に。
今日初めてまともに笑った気がした。
エレベーターへ向かう。
「でも」
俺は言った。
「朝、顔固まったのって、今回の評価が大事だったからなんですね」
「ああ」
「俺、あの変なサンプル見て何か気づいたのかと思ってました」
「そんなわけあるか」
即答された。
「俺だって最初はお前が重要な評価で何やってくれてんだ、って思っただけだよ」
「ですよね」
「成膜時間三倍はなかなかだぞ」
「それはもう忘れてください」
「忘れるか」
「主任にも顧問にも言われたんでもう十分です」
エレベーターのボタンを押す。
「でも、なんで重要って言わなかったんです?」
「言ったらお前、変に構えるだろ」
「多少は慎重になりましたよ」
「だろ?」
「少なくとも三倍にはしなかったと思いますけど」
数秒。
上司が笑った。
「それは俺も反省してる」
「でしょうね」
エレベーターが来る。
二人で乗り込んだ。
「しかし」
上司が壁にもたれる。
「本当に三回とも出たんだな?」
「出ましたよ」
「金曜の朝?」
「はい」
「全部同じ装置」
「同じです」
「材料も?」
「同じロットです」
「基板も?」
「同じです」
「時間三倍」
「はい」
「他に条件振ってない?」
「振ってません」
俺は少し呆れた。
「何なんですか。上司まで」
「いや」
上司が天井の階数表示を見る。
「主任が妙にそこ気にしてたから」
「三回やって三回出てるんだから、再現してるでしょ」
「まあな」
「しかも最初のやつと違って、再現確認は最初から三倍で設定してますからね」
「ああ」
これは少し自信があった。
偶然変なものができた。
その翌朝。
条件を合わせて三回作った。
三回とも同じような外観になり。
三回とも水で発熱した。
少なくとも。
成膜時間を長くしたことが何かに影響している。
そう考えるのが自然だと思っていた。
一階に着く。
扉が開いた。
「月曜」
上司が言う。
「同じ条件でもう一度作るぞ」
「分かってます」
「今度は主任も立ち会う」
「緊張するなあ」
「顧問も来るかもな」
足が止まった。
「それは聞いてないです」
「冗談だよ」
「やめてくださいよ!」
上司が笑う。
俺はため息をついた。
エントランスまで歩く。
外を見る。
金曜の夜は、まだ続いていた。
「じゃあ、お疲れ」
「お疲れさまでした」
「タクシー使えよ」
「当然です」
「領収書取っとけ」
「ビール代も経費で」
「なるわけねえだろ」
いつもの上司だった。
朝からずっと席にいなかった人間。
夜になって俺を呼び戻した人間。
会議室ではあんなに険しい顔をしていたのに。
そこだけは何も変わっていない。
少し安心した。
外へ出る。
スマートフォンを見る。
UNITEからメッセージが来ていた。
『生きてる?』
俺は少し考え、
『生きてる。めちゃくちゃ疲れた』
とだけ返した。
もちろん。
詳しいことは書かない。
タクシーを待ちながら、さっきの会議を思い返す。
主任。
技術顧問。
安全管理。
限定管理。
口外禁止。
正直。
大げさだと思った。
原因が分からないから、慎重になっている。
それだけだ。
月曜日。
もう一度作る。
金曜と同じ基板。
同じ材料。
同じ装置。
そして同じ成膜時間。
そこから分析すればいい。
難しいことじゃない。
だって。
一度しかできていないわけじゃない。
最初の一枚。
そして。
翌朝の三枚。
もう四回も、同じ現象を見ている。
だから。
この時の俺は、本気で思っていた。
月曜日も。
同じように作れば。
五枚目ができる。
第5話 終




