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第三話 金曜の夜


上司は、その日戻ってこなかった。

正確には、俺が帰るまで一度も席に戻ってこなかった。

朝。

例のサンプルを見せて、

「これ、まだ誰にも言うな」

と言い残したあと、上司はサンプルケースと俺のデータを持ってどこかへ行った。

最初の一時間くらいは、俺も気にしていた。

十一時を過ぎた頃。

トイレから戻ってきても、席は空いたまま。

昼休み。

まだ戻ってこない。

「課長、今日ずっといなくない?」

隣の席の同僚が、昼飯を食べながら言った。

「うん」

「会議?」

「たぶん」

俺は曖昧に答えた。

誰にも言うな。

そう言われている以上、余計なことは言わない方がいい。

それにしても。

長い。

俺は朝のことを思い返した。

条件を間違えた。

変なサンプルができた。

水を垂らしたら熱くなった。

再現した。

報告した。

上司が消えた。

「…………」

いや。

まさかな。

俺のせい?

一瞬、嫌な想像が頭をよぎる。

今回の試作は、それなりに重要な評価だった。

しかもスケジュールには余裕がない。

そこで成膜条件を間違えました。

評価やり直しです。

普通に考えれば怒られる。

俺じゃなくて、上司が上から。

「……やらかしたかな」

「何が?」

「いや、なんでもない」

危ない。

口に出ていたらしい。

同僚は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。

まあいい。

戻ってきたら謝ろう。

そう思って午後の仕事に戻った。

メールを返す。

別件の評価データをまとめる。

来週の試作条件を確認する。

依頼されていた資料を修正する。

打ち合わせに出る。

問い合わせが来る。

回答する。

そしてまたメールが来る。

気づけば、朝の出来事は頭の隅へ追いやられていた。

仕事なんてそんなものだ。

一つ気になることがあっても、次から次へ別の仕事がやってくる。

十七時半。

上司の席を見る。

まだいない。

十八時。

まだ戻ってこない。

さすがに少し気になった。

チャットを開く。

何か送ろうかと思ったが、やめた。

どうせ月曜日には会う。

それに今日は金曜日だ。

俺にも予定がある。

パソコンをシャットダウンする。

机の上を軽く片づけた。

最後にもう一度、上司の席を見る。

誰もいない。

「……まあ、いっか」

俺は会社を出た。

その時にはもう。

朝、自分が作ったサンプルのことなんて、ほとんど忘れていた。

*

「いらっしゃ……って、お前か」

扉を開けるなり、それだった。

「客に向かってその言い方ある?」

「毎週金曜に来る奴を客とは呼ばねえ」

「じゃあ何なんだよ」

「売上」

「一番客じゃねえか」

会社から歩いて十分ほど。

駅前の大通りから一本入ったところに、その店はある。

UNITE。

小さなバーだ。

店長は俺の同級生。

学生時代からの付き合いで、この店を始めてからは週末に顔を出すことが増えた。

理由は単純。

会社から近い。

酒がうまい。

あと、気を使わなくていい。

俺はいつものカウンター席に座った。

「いつもの?」

「ビール」

「いつもじゃん」

「じゃあ聞くなよ」

店長が鼻で笑いながら冷蔵庫を開ける。

その時、奥から声が飛んできた。

「あ、やっぱり来た!」

「何、その反応」

「金曜だから来ると思ってました」

大きな目をさらに丸くして、女の子が笑う。

この店のスタッフ。

とにかくよく喋る。

初対面の客とも、五分後には昔からの知り合いみたいに話している。

本人いわく、

「人と喋るためにバーで働いてるんです」

らしい。

たぶん本当だと思う。

「今日遅かったですね」

「仕事」

「残業?」

「そう」

「かわいそー」

「絶対思ってないだろ」

「思ってますよ。三パーセントくらい」

「ほぼ思ってねえじゃん」

店長がビールを置いた。

「はい、お疲れ」

「ありがと」

グラスを持つ。

一口。

「…………うま」

やっぱり金曜日の一杯目はうまい。

「めっちゃ疲れてるじゃないですか」

「疲れたよ」

「なんかあったんです?」

朝のことが、一瞬頭をよぎった。

虹色のサンプル。

見たことのないピーク。

上がり続ける温度。

それを持ってどこかへ消えた上司。

「いや」

俺はビールをもう一口飲んだ。

「特に何もない」

実際、その程度の認識だった。

「羨ましいです」

後ろから小さな声がした。

振り返る。

もう一人のスタッフがグラスを拭いていた。

腕から首元まで、びっしりと刺青が入っている。

初めてこの店で見た時は、正直かなり警戒した。

今はもうなんとも思わない。

見た目だけなら、この店で一番怖い。

性格は、この店で一番怖くない。

「何が?」

「金曜日に仕事終わって、そのままお酒飲めるの」

「飲めばいいじゃん」

「明日、朝からなんです……」

「仕事?」

「はい……」

露骨に落ち込んだ。

活発な方が笑う。

「昨日休みだったじゃん」

「昨日と明日の休みは別物です」

「意味分かんない」

「分かります」

分からない。

でも本人が妙に真剣なので、それ以上誰も突っ込まなかった。

「そういや」

店長が俺を見る。

「この前お前が言ってたラーメン屋、行ったぞ」

「ああ。どうだった?」

「普通」

「お前、人に勧めてもらってその感想はないだろ」

「普通にうまかった」

「なら最初からそう言え」

活発な方が割って入る。

「え、どこです?」

「あっちの交差点曲がったところ」

「あそこ行きたい!」

「一人で行けば?」

「一人でラーメン屋は無理です」

「なんでだよ」

「なんか恥ずかしいじゃないですか」

刺青の彼女が小さく手を挙げる。

「私も無理です……」

「お前らバーでは知らない客と喋れるのに、なんで一人でラーメン食えないんだよ」

「それとこれとは違います」

「何が違うんだよ」

「気持ちです」

「便利だな、その理論」

どうでもいい話だった。

本当に。

店長が最近少し太ったとか。

活発な方がネット通販で服を買ったら、写真と全然違うものが届いたとか。

刺青の彼女が昨日、部屋に小さな虫が出て眠れなかったとか。

「刺青より虫の方が怖いってどういうことだよ」

「刺青は動かないじゃないですか」

妙に説得力があった。

笑った。

飲んだ。

また笑った。

いつもの金曜日だった。

仕事のことなんて忘れていた。

朝のサンプルなんて、完全に頭から消えていた。

二杯目を飲み始めて、しばらくした頃だった。

テーブルの上でスマートフォンが震えた。

ブーッ。

一度。

画面を見る。

「…………」

会社の上司。

最悪だ。

「どうしたんです?」

活発な方が覗き込もうとする。

「上司」

「出なくていいんじゃないです?」

「無茶言うなよ」

時計を見る。

こんな時間に何の用だ。

一瞬、無視したい衝動に駆られた。

でも、さすがにそういうわけにもいかない。

「ちょっと出てくる」

スマートフォンを持って店の外に出る。

ひんやりした夜風が気持ちいい。

通話ボタンを押した。

「はい、お疲れさまです」

『今どこにいる』

挨拶もなかった。

それだけで、少し違和感を覚えた。

「会社の近くですけど」

『どの辺だ』

「駅の方です」

短い沈黙。

『今から会社に来れるか』

「……え?」

思わず店の方を見る。

ガラス越しに、店長たちが見える。

「今からですか?」

『そうだ』

「いや、俺もう酒飲んでますけど」

『タクシーで来い』

即答だった。

俺は黙った。

何かがおかしい。

金曜日。

この時間。

飲んでいると伝えた。

普通なら月曜日でいいとなる。

というか。

上司が仕事終わりの俺を呼び戻すことなんて、今まで一度もなかった。

「……月曜じゃダメですか?」

数秒。

妙に長く感じた。

『ダメだ』

声の調子がいつもと違う。

怒っている。

いや。

違う。

怒っているなら、むしろ分かる。

条件を間違えた件だ。

説教される。

謝る。

それで終わり。

でも。

電話の向こうの声は、そういう声じゃなかった。

『悪いけど、今すぐ来てくれ』

「……分かりました」

『着いたら連絡してくれ』

電話が切れた。

しばらくスマートフォンを耳に当てたまま立っていた。

そこで。

ようやく思い出した。

朝のサンプル。

誰にも言うな。

そう言った上司。

そのまま一日中空いていた席。

「…………マジかよ」

店内に戻る。

「何でした?」

「仕事」

「えー、この時間から?」

「うん」

店長が俺を見る。

「戻んの?」

「戻れって」

「お前、飲んでんじゃん」

「タクシーで来いって」

店長の手が止まった。

「……金曜のこの時間に?」

「うん」

「何やった、お前」

「いや……」

笑おうとした。

でも、うまく笑えなかった。

俺自身、それを聞きたかった。

何をやった?

条件を間違えただけだ。

不良品を一個作っただけ。

そのはずだった。

俺は財布を取り出した。

「いくら?」

「今日はいいよ」

「いや、払うって」

「いいから。次来た時で」

「……悪い」

ジャケットを着る。

活発な方が心配そうにこちらを見る。

「めちゃくちゃ怒られる感じですか?」

「たぶん」

そう答えてから、少し考えた。

「……いや」

「?」

違う。

今になって思えば。

朝の上司は、怒っていたわけじゃなかった。

俺のミスを責めてもいなかった。

むしろ確認したのは、

何回やった。

再現したのか。

誰かにデータを送ったか。

共有フォルダに入れたか。

そして。

誰にも言うな。

俺はスマートフォンをポケットにしまった。

「分かんない」

店を出る。

さっきまで笑っていた店内の声が、扉が閉まると一気に遠くなった。

駅前には、いつもと変わらない金曜の夜が広がっている。

酔っ払った会社員。

若いカップル。

店先で笑っている学生。

俺も、数分前まではその中の一人だった。

やってきたタクシーを止める。

後部座席に乗り込んだ。

「どちらまで?」

会社の名前を告げる。

車がゆっくりと動き出した。

窓の外を眺める。

急に酔いが覚めた気がした。

上司は今日一日、

どこで、

誰と、

何を話していたんだろう。

そして。

なぜ今になって。

俺を会社へ呼び戻した?

考えても答えは出ない。

ただ一つ。

なんとなく分かったことがある。

どうやら俺は。

思っていたより、ずっと大きなことをやらかしたらしい。

第3話 終

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