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第二話 持たざる国


「その条件では、我々としては受け入れられません」

淡々とした声だった。

怒っているわけでもない。

威圧しているわけでもない。

むしろ、目の前に座る男は穏やかに微笑んでいた。

だからこそ、腹が立つ。

「我が国としても、長期的かつ安定した取引を望んでいます。そのためにも、価格条件については再度ご検討いただきたいと考えています」

私は表情を崩さず、そう返した。

長机の向こう側。

大きな窓から差し込む強い日差しの下で、男は隣に座る担当者と短く言葉を交わした。

そして再びこちらを見る。

「お考えは理解しています」

来た。

この言葉が出たときは、大抵こちらの要求は通らない。

「しかし、ご提示している条件は、現在の市場環境を踏まえれば十分に競争力のあるものです」

「ですが、前回の契約条件と比較すると、日本側の負担は明らかに大きくなります」

「状況が変わりましたので」

「それは理解しています。ただ、日本は長年にわたって安定した取引を続けてきました。その実績についても考慮していただけないでしょうか」

男は柔らかく笑った。

「もちろんです」

だったら少しくらい負けなさいよ。

心の中でそう言いながら、私も笑顔を返した。

「日本との関係は、我々にとって非常に重要です」

嘘ではないだろう。

日本は大口の顧客だ。

長期契約を結び、代金を払い続ける。

取引相手としては優良。

ただし。

優良な顧客であることと、対等であることは違う。

「そのうえで、今回の条件からさらに変更することは難しいと考えています」

やっぱりね。

私は手元の資料に視線を落とした。

想定していた回答だった。

ここから、こちらが用意してきた材料を一つずつ出していく。

市場価格。

輸送。

投資。

長期契約。

技術協力。

相手にとって日本との関係を維持することが、どれだけ有益なのか。

数字を並べる。

論理を組み立てる。

こちらが引く代わりに、相手にも引かせる。

それが交渉だ。

私はこの仕事が嫌いではない。

むしろ得意な方だと思っている。

相手の表情を見る。

言葉の選び方を見る。

誰が発言するかを見る。

昨日まで不可能と言っていたことが、条件を一つ変えただけで突然可能になる。

その瞬間を探す。

けれど。

それでもどうにもならないことがある。

「では、その条件を日本側が受け入れられない場合は?」

少し踏み込んでみた。

男は一瞬だけ黙った。

机の上で両手を組む。

「非常に残念ですが」

その笑顔は変わらない。

「我々には、他にも多くの取引先があります」

右隣に座る日本側の担当者が、わずかに動いた。

私は動かなかった。

表情も変えなかった。

「そうですか」

ただ、それだけ答えた。

分かっている。

最初から。

向こうには売る相手がいる。

では、こちらは?

必要な量の原油を必要な条件で、安定して確保する。

代わりになる相手を探せばいい。

口で言うのは簡単だ。

だが、明日から急に別の国へ切り替えます、なんて真似ができるほどエネルギー調達は単純ではない。

向こうには、

嫌なら買わなくていい

という選択肢がある。

こちらには、

では買わない

と言えるほどの余裕がない。

それだけの話だった。

その後も交渉は続いた。

二時間と少し。

いくつかの条件では譲歩を引き出した。

こちらも譲った。

悪い交渉ではなかったと思う。

少なくとも、持ち帰って説明できる成果はある。

最後は笑顔で握手をした。

記念撮影までした。

「今後とも両国の良好な関係が続くことを願っています」

「もちろんです。我々も同じ考えです」

写真の中の私は、多分完璧に笑っていた。

ホテルに戻った瞬間。

「……っあーーーー」

バッグを椅子に置いた。

ジャケットを脱ぐ。

ネクタイを緩める。

ヒールを脱いだ瞬間、ようやく一日の仕事が終わった気がした。

「疲れた……」

昼間の私を知っている人間には、あまり見せられない姿だと思う。

別にいい。

ここには誰もいない。

私は冷蔵庫を開けた。

ミネラルウォーター。

ジュース。

それからビール。

一秒だけ考えて、ビールを取る。

今日は許す。

プシュッ。

小気味よい音がした。

グラスなんて使わない。

缶のまま口をつける。

「っはぁ……」

誰よ。

最初にビール作った人。

偉すぎるでしょ。

そのままソファーに沈み込んだ。

テーブルの上には、今日の交渉資料。

見たくない。

ただ明日の打ち合わせまでには、今日の内容を整理しなければならない。

「長期的に良好な関係、ねえ……」

もう一口飲む。

何が良好な関係よ。

日本との関係は重要です。

でも値段は下げません。

供給条件も変えません。

嫌なら他に売ります。

「……ムカつく」

口に出したら少し楽になった。

もちろん、相手が悪いわけじゃない。

立場が逆なら、日本だって同じことをする。

外交なんて、善悪で動く世界じゃない。

持っているカードを使って、自国にとって少しでも有利な条件を引き出す。

それが仕事だ。

だからこそ腹が立つ。

「カードがないのよ……」

ソファーの上で天井を見上げる。

技術がある。

製造業がある。

資本もある。

日本にだって交渉材料はいくつもある。

それでも。

エネルギーの話になれば、最後はそこへ戻ってくる。

必要なのだ。

どれほど技術が発達しても。

どれほど効率化しても。

国を動かすには、膨大なエネルギーが要る。

そして日本は、その多くを国外に頼っている。

今日だってそうだ。

私は二時間かけて、ありとあらゆる材料を並べた。

数字を出した。

相手のメリットも説明した。

譲歩も引き出した。

それでも最後の最後。

相手には、たった一言がある。

嫌なら売らない。

それを言われた瞬間、こちらのカードは一気に弱くなる。

私はテーブルから資料を一枚取った。

今日の交渉結果。

赤字でメモした箇所がいくつもある。

予定よりは悪くない。

むしろ、よく粘った方だ。

明日の報告でも、そう評価されるだろう。

でも。

「……勝った気がしない」

ビールを飲む。

もう半分くらいしか残っていなかった。

窓の外には、見慣れない街の夜景が広がっている。

この国を支えてきたのは石油だ。

それは経済だけの話じゃない。

外交の言葉一つ。

会議室の席一つ。

交渉相手の態度一つ。

そんなところにまで影響している。

資源を持っている。

ただ、それだけで。

「ほんっと、ずるい……」

子供みたいな愚痴だった。

我ながら笑えてくる。

でも誰も聞いていない。

今日くらい好きに言わせてほしい。

私はテーブルの資料を眺めながら、空になった缶を置いた。

「日本なんて……」

少し考える。

そして一人で笑った。

「カードを持たずにポーカーやってるようなもんじゃない」

正確には違う。

カードは持っている。

ただ。

相手が最初からエースを何枚も持っている。

そんなゲームだ。

立ち上がって、もう一本取ろうか迷った。

やめた。

明日も朝から仕事だ。

「……帰りたい」

今度は本音だった。

私はヒールを足先で部屋の隅へ押しやった。

そして、もう一度だけ窓の外を見る。

「日本にもさあ……」

誰に言うでもなく。

本当に、ただの愚痴だった。

「石油でも出ないかな」

もちろん、そんなことが起きるはずはない。

日本の地下から突然、巨大油田が湧いてくる。

そんな都合のいい奇跡を期待するほど、私は夢見がちではない。

だから。

その夜の私はまだ知らなかった。

日本に必要だったものは、

石油ではなかった。

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