第一話 捨てるはずだったサンプル
「……やったな、これ」
モニターに表示された数字を見ながら、俺は思わず独り言を漏らした。
時刻は午後七時十二分。
フロアにはまだ何人か残っているが、昼間の騒がしさはすっかり消えていた。
今日中に終わらせるつもりだった試作評価。
その最後のサンプルで、条件を間違えた。
しかも、よりによって成膜時間だ。
規定条件の約三倍。
途中で気づいたときには、もう処理はほとんど終わっていた。
「最悪だ……」
明日の朝一で評価結果をまとめて、上司に報告する予定だった。
ただでさえスケジュールに余裕がない。
やり直しとなれば、また装置の空きを確認して、サンプルを準備して、条件を設定して。
最低でも数日は飛ぶ。
俺は椅子にもたれた。
「もう廃棄でいいか……」
そう思ってサンプルをケースに戻そうとしたときだった。
照明の光を反射した表面に、妙なものが見えた。
虹色。
油膜みたいな、不規則な色。
本来なら銀色に近いはずの表面が、角度によって青にも紫にも見える。
「……なんだこれ」
失敗品だ。
見る必要なんてない。
そう思った。
でも、こういうときに限って気になる。
俺はサンプルを持ったまま、しばらく考えた。
「……見るだけ見るか」
明日の自分に仕事を増やすだけだと分かっていた。
それでも分析装置にサンプルをセットした。
結果が出たのは、それから二十分後だった。
「は?」
思わず画面に顔を近づけた。
見たことのないピークが立っている。
装置のデータベースを検索する。
該当なし。
もう一度検索する。
やっぱり、ない。
「汚染……?」
最初に疑ったのはコンタミだった。
装置内か、基板か、あるいは前工程で何かが混入した。
珍しい話ではない。
俺は同じロットの正常品を持ってきて測定した。
問題なし。
次に異常サンプルを再測定する。
同じピーク。
「……なんだよ、これ」
気持ち悪い。
俺はサンプルを机に置いた。
明日、詳しい人に聞こう。
そう思って、帰る準備を始めた。
そこで、もう一つの異常に気づいた。
「……熱い?」
サンプルケースが、わずかに温かい。
ほんのりと。
人肌より少し高いくらいだった。
さっきまで分析装置に入れていたからだろう。
最初はそう思った。
だが妙だった。
この装置はサンプルを加熱しない。
俺は非接触温度計を持ってきた。
三十八・七度。
「…………」
室温、二十三度。
どう考えてもおかしい。
五分待った。
三十九・一度。
「上がってんじゃん」
嫌な感じがした。
念のためサンプルを金属トレーの上へ移す。
さらに十分。
四十・二度。
ゆっくりだが、確実に温度が上がっている。
さすがに少し怖くなった。
発煙もない。
変色もない。
ただ、小さな試験片が勝手に熱を出している。
「いやいやいや……」
俺は椅子に座り直した。
何かの化学反応だ。
たぶん。
そういうことにしよう。
空気中の何かと反応しているのかもしれない。
水分。
酸素。
あるいは、表面に付着した有機物。
原因はいくらでも考えられる。
超常現象じゃあるまいし、必ず理由はある。
問題は、その理由が分からないことだけだ。
俺はスマートフォンを取り出した。
上司に連絡するか迷う。
時計を見る。
十九時五十八分。
……明日でいい。
そう思った瞬間だった。
「……え?」
温度計が四十三度を示した。
さすがに上がりすぎだ。
俺は慌ててサンプルを密閉容器に移した。
空気を遮断すれば反応は止まる。
そう考えた。
そして予想通り、
四十三・一度。
四十二・八度。
四十二・三度。
下がり始めた。
「やっぱ酸素か?」
少し安心する。
しかし、念のためもう一度ふたを開ける。
数分後。
また温度が上がり始めた。
再び閉める。
下がる。
開ける。
上がる。
「…………」
どうやら気のせいではない。
空気中の何かと反応している。
それも思っていたより、かなり強い。
俺は少量の純水を用意した。
これで変化を見る。
あくまで簡易確認。
ピペットで一滴だけ落とした。
次の瞬間。
温度計の数字が跳ねた。
「は?」
数秒前まで四十一度だった。
四十五。
四十九。
五十四。
「ちょ、待て待て待て」
俺は反射的に一歩下がった。
煙は出ていない。
沸騰もしていない。
なのに温度だけが上がる。
五十八。
六十二。
そこで上昇が止まった。
さすがに笑えなかった。
翌朝。
俺は普段より一時間早く出社した。
昨日のサンプルは、安全容器に入れたまま保管してある。
もう一度、同じ条件で作る。
もし再現しなければ、昨日のサンプル固有の異常。
それで終わりだ。
そう思っていた。
というより、終わってほしかった。
同じ基板。
同じ材料。
そして昨日間違えたのと、まったく同じ条件。
装置をスタートする。
処理終了。
取り出したサンプルは、昨日と同じ虹色をしていた。
温度を測る。
二十四度。
純水を一滴。
二十六。
三十一。
三十九。
「……嘘だろ」
五十二。
再現した。
結局、その日の午前中に三つ作った。
三つとも同じだった。
そこで俺はようやく、自分だけで抱えるのを諦めた。
サンプルケースを持って上司の席へ向かう。
「ちょっといいですか」
「ん? どうした?」
「昨日の試作なんですけど」
「ああ。結果出た?」
「それなんですが……」
俺は言葉に詰まった。
どう説明すればいい。
そもそも、本来の試作評価とは関係ない。
条件を間違えました。
変なものができました。
水を垂らしたら熱くなりました。
我ながら最悪の報告だ。
「条件、間違えまして」
「……何を?」
「成膜時間です」
「どのくらい?」
「約三倍」
上司の顔が一瞬固まった。
「お前なあ……」
「すみません」
「で?」
「廃棄しようと思ったんですけど、一応分析したら、変な反応が出て」
「変な反応?」
俺は昨日から取っていたデータを見せた。
温度変化。
分析結果。
簡単な再現確認。
上司は最初、明らかに面倒そうな顔をしていた。
だが、ページをめくるたび、少しずつ表情が変わった。
「これ、何回やった?」
「三回です」
「全部?」
「ほぼ同じです」
「測定器は?」
「別の温度計でも見ました」
「材料分析は?」
「今、依頼を出してます」
上司は黙った。
そして、机の上に置いていたサンプルケースを見た。
ほんの数センチ角の、小さな試験片。
昨日までなら、ただの不良品だった。
数秒の沈黙。
やがて上司は、小さな声で言った。
「このデータ」
「はい」
「まだ誰かに送った?」
「いえ」
「共有フォルダは?」
「まだ入れてません」
再び沈黙。
上司はサンプルケースのふたを閉じた。
そして俺を見た。
「これ、まだ誰にも言うな」
「……え?」
その表情を見て、ようやく気づいた。
俺は昨日からずっと、
失敗したサンプルの原因を調べているつもりだった。
でも。
もしかすると。
俺が作ってしまったものは、
失敗品なんかではないのかもしれない。
あの日。
廃棄するはずだった数センチの試験片が、
後に世界から「石油」という言葉を消しかけることになるなんて。
このときの俺は、まだ知らなかった。
第1話 終




