第一章 第一話 帰還命令
プロローグ完結に伴い、タイトル変更しています。
よろしくお願いします。
三ヶ月後。
スマートフォンが鳴った。
時刻は、午前6時12分。
目を開ける。
滞在先のホテル。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。
枕元へ手を伸ばす。
画面を見る。
日本の番号だった。
一気に眠気が消えた。
現地の関係者ではない。
大使館でもない。
外務本省。
しかも。
この番号から、こんな時間に連絡が来ることは滅多にない。
私は身体を起こし、通話ボタンを押した。
「はい」
『水城京子さんですか』
「はい」
自分の名前を確認された瞬間。
少しだけ姿勢を正した。
一人きりのホテルの部屋で。
誰に見られているわけでもないのに。
『外務本省の者です。朝早くに申し訳ありません』
「構いません」
『お話しできますか』
「内容によります」
電話の向こうが、わずかに黙った。
「できない内容ですか?」
『いえ』
「では、どうぞ」
短い呼吸音。
それから。
『帰国してください』
「…………」
聞き間違えたとは思わなかった。
ただ。
あまりにも前置きがなかった。
「一時帰国ですか?」
『いいえ』
「任期途中ですが」
『承知しています』
「いつまでに?」
『可能な限り早く』
「可能な限り、では分かりません」
少し強く言った。
「今日ですか。明日ですか。それとも今週中ですか」
『最短の便を手配します』
私はベッドを出た。
窓際まで歩く。
カーテンを開ける。
朝の光が、一気に部屋へ差し込んだ。
すでに街は動き始めている。
乾いた空気。
朝日を反射する高層ビル。
道路を流れていく車。
その向こうに広がる砂色の大地。
見慣れた景色だった。
この地域での仕事が始まってから、もう三か月以上になる。
進行中の案件も一つではない。
「理由は?」
『現時点では、電話でお伝えできません』
「帰国後なら?」
『説明します』
「担当変更ですか」
『違います』
「異動?」
『それも違います』
「では、何です?」
再び。
短い沈黙。
『エネルギー関連の案件です』
私は窓の外を見る。
エネルギー。
その一言が指す範囲は広い。
石油。
天然ガス。
水素。
電力。
再生可能エネルギー。
資源安全保障。
輸送網。
備蓄。
価格。
制裁。
どれも。
私がここで扱ってきたものだった。
「どこの国に関係する案件ですか」
『現時点では、お答えできません』
「交渉案件ですか」
『詳細は帰国後に説明します』
「緊急度は?」
『最優先です』
「現在抱えている案件はどうします?」
『引き継いでください』
思わず。
スマートフォンを耳から少し離した。
画面を見る。
番号は変わらない。
通話も切れていない。
もう一度、耳へ戻す。
「全部ですか?」
『全部です』
「本気で言っています?」
『はい』
現地で進めている交渉案件。
来週には政府関係者との会談も予定されている。
それ以外にも。
企業間の調整。
大使館との確認。
本省への報告。
途中で投げ出せる仕事ではない。
「引き継ぎには時間が必要です」
『必要な支援はこちらで手配します』
「誰へ引き継ぐんです?」
『追って連絡します』
「帰国期間は?」
『未定です』
その言葉で。
意味が変わった。
数日間だけの緊急帰国ではない。
案件が終われば戻ってくる。
そういう話でもないらしい。
私は窓の外を見た。
ここへ来てから。
何度も資源を巡る交渉をしてきた。
日本には必要なものがある。
石油。
天然ガス。
その他、いくつもの資源。
だが。
欲しいと言うだけでは手に入らない。
条件。
価格。
供給量。
他国との競争。
政治的な関係。
持っている側には。
選択肢がある。
買う側には。
それほど多くない。
だからこそ。
日本は、この地域に置いた交渉担当を簡単には外さない。
少なくとも。
代わりの担当者すら決まっていない状態で。
突然帰国させることなどない。
「分かりました」
私は言った。
「帰国します」
『ありがとうございます』
「ただし、最低限の引き継ぎは必要です」
『承知しています』
「便が確定したら連絡してください」
『はい』
話は終わった。
そのはずだった。
だが。
一つだけ。
聞いておくべきことがあった。
「それと」
『はい』
「帰国後は、どこへ向かえばいいんです?」
少し間があった。
『到着時に担当者がお迎えします』
「迎え?」
『はい』
「自分で本省へ行けます」
『今回は指示に従ってください』
何かがおかしい。
担当者一人の帰国に。
わざわざ迎えなど必要ない。
荷物が多いわけでもない。
移動が難しいわけでもない。
まして私は。
要人でも何でもない。
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。
『では、手配が整い次第、改めて連絡します』
「お願いします」
通話が切れた。
静かなホテルの部屋。
私はしばらく。
スマートフォンを耳に当てたまま立っていた。
エネルギー関連。
最優先。
全案件を引き継げ。
帰国期間は未定。
空港には迎え。
分からないことばかりだった。
「……何なのよ」
小さく呟く。
当然。
誰も答えなかった。
*
連絡から4時間後。
帰国便が決まった。
出発は、その日の夜。
本当に最短だった。
それからは、ほとんど仕事だった。
上司へ報告。
関係者へ連絡。
進行中案件の整理。
資料の引き継ぎ。
会談予定の調整。
現地側への説明。
帰国理由を何度か聞かれた。
急な人事か。
本省との対立か。
別の地域で何か起きたのか。
私は全てに。
「本省からの指示です」
とだけ答えた。
それしか知らない。
夕方。
一度、ホテルへ戻った。
ベッドの上にスーツケースを広げる。
衣類。
書類。
充電器。
必要なものを放り込む。
期間は未定。
何をどこまで持って帰ればいいのかも分からない。
冷蔵庫を開ける。
飲みかけの水。
食べかけのもの。
そして。
奥にビールが数本。
一瞬。
手が伸びかけた。
やめる。
これから空港へ向かう。
機内でも飲める。
今飲む必要はない。
扉を閉める。
三か月前。
交渉を終えた夜も。
このホテルでビールを飲んだ。
あの日は。
ひどく疲れていた。
今日も疲れている。
ただ。
疲れの種類が違った。
あの時は。
負ける理由が分かっていた。
今回は。
何も分からない。
窓の外を見る。
このホテルへ戻る日が来るのか。
それすら。
教えられていなかった。
*
機内では。
ほとんど眠れなかった。
仕事が気になっているわけではない。
いや。
それもある。
引き継ぎは最低限しかできていない。
現地側との関係も気になる。
だが。
それ以上に。
帰国理由が頭から離れなかった。
エネルギー関連。
その言葉だけ。
資源供給に問題が起きた?
特定国との交渉が必要になった?
制裁?
輸送路?
価格高騰?
新規契約?
可能性はいくらでもある。
だが。
どれも。
私をこの地域から即日帰国させる理由としては弱い。
現地に残した方が使えるはずだ。
それとも。
中東ではなく。
別の地域なのか。
米国。
欧州。
アジア。
複数国との調整が必要になった?
分からない。
情報がなさすぎる。
機内モニターの地図を見る。
飛行機は。
ゆっくりと日本へ近づいていた。
*
日本へ到着したのは。
翌日の午後だった。
入国手続きを済ませる。
荷物を受け取る。
到着ロビーへ出る。
迎えはすぐに見つかった。
私の名前が書かれた札。
持っているのは。
スーツ姿の男だった。
見覚えはない。
こちらへ気づくと、軽く頭を下げた。
「水城京子さんですね」
「はい」
「お待ちしていました」
名刺を渡される。
所属を見る。
外務本省ではなかった。
「内閣官房?」
「詳しい説明は、移動後に行います」
私は名刺をもう一度見る。
「外務省ではないんですか」
「私は違います」
「では、誰が私を呼び戻したんです?」
男は答えなかった。
「車を用意しています」
答えになっていない。
「荷物をお持ちします」
「結構です」
自分でスーツケースを引く。
男は何も言わなかった。
空港の外へ出る。
黒い車。
後部座席の扉が開かれる。
私は乗り込む前に聞いた。
「どこへ向かうんです?」
「都内です」
「それでは分かりません」
「到着後、ご案内します」
徹底している。
秘密にしているというより。
この男自身も。
必要以上のことを知らされていない。
そんな印象だった。
私は後部座席へ乗り込む。
男も反対側から乗る。
車が動き出す。
*
窓の外に。
久しぶりの日本が流れていく。
道路。
コンビニ。
住宅。
工場。
送電線。
ガソリンスタンド。
どこにでもある光景。
特別なものは何もない。
それでも。
帰国理由を知らされていないせいか。
全てが何かに関係しているように見えた。
「エネルギー関連と聞いています」
私は言った。
「はい」
男は短く答える。
「どの程度、ご存じです?」
「水城さんをお迎えし、指定された場所へお連れするよう指示されています」
「それだけ?」
「はい」
なるほど。
やはり。
この人も知らない。
「では、誰が説明するんです?」
「到着後、担当者から説明があります」
「外務省?」
「複数の関係者が出席します」
複数。
ということは。
外務省だけではない。
「各省庁から?」
男は答えなかった。
否定もしない。
車は高速道路を降りた。
都心へ入る。
行き先の表示を確認する。
外務本省へ向かっているわけではない。
少しして。
車は地下駐車場へ入った。
窓の外が暗くなる。
停車。
扉が開く。
男に促され、車を降りる。
エレベーター。
入館証。
荷物検査。
本人確認。
さらに。
スマートフォンと業務端末の提出を求められた。
「端末も?」
「会議終了後にお返しします」
「連絡手段がなくなります」
「必要な場合は、こちらの設備をご利用ください」
ここまで。
私は相手国との機密交渉にも参加したことがある。
安全保障に関わる説明を受けた経験もある。
それでも。
帰国直後から、ここまで徹底した扱いを受けることは珍しい。
ロッカーへスマートフォンを入れる。
鍵を受け取る。
男の後を歩く。
廊下。
さらに自動扉。
その先で。
別の職員が待っていた。
「長旅のところ申し訳ありません」
「構いません」
「こちらへ」
案内される。
会議室の前。
扉の横に入退室管理端末。
職員が認証を行う。
緑色のランプ。
だが。
扉はまだ開かない。
私は聞いた。
「一つ確認していいですか」
「はい」
「資源案件ですか?」
相手は一瞬。
答えを選ぶように黙った。
「違います」
「では、供給問題?」
「それも違います」
「価格交渉?」
「違います」
「輸送ですか。それとも備蓄?」
「どちらでもありません」
「制裁対応?」
「違います」
既存の選択肢が。
一つずつ消えていく。
資源ではない。
供給でもない。
価格でもない。
輸送でも。
備蓄でも。
制裁でもない。
私は最後に聞いた。
「交渉相手は?」
職員は。
少しだけ間を置いた。
「現時点では」
その答えは。
これまでのどれよりも想定外だった。
「いません」
「……いない?」
「はい」
思わず足が止まった。
交渉相手はいない。
資源確保でもない。
価格交渉でもない。
供給問題でもない。
なのに。
中東にいる私を。
全ての案件から外し。
即日。
日本へ呼び戻した。
「じゃあ」
私は相手を見る。
「何のために私を?」
職員は答えなかった。
会議室の扉へ向き直る。
認証済みの端末へ手を触れた。
ロックが外れる。
乾いた音。
扉がゆっくりと開く。
職員が、中を示した。
「それを」
静かな声だった。
「これから説明します」
第一章 第1話 終




