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第十二話 合わない数字


最初は。

計算を間違えたのだと思った。

入力した値。

計算式。

補正係数。

単位。

そのどれか。

だから私は、表示された結果を保存せず、もう一度最初から計算し直した。

サンプルの質量。

基板の質量。

純水の滴下量。

測定容器の熱容量。

反応前後の温度。

室温。

一つずつ確認する。

間違いは見つからない。

計算を実行する。

同じ数字が表示された。

「…………」

今度は式を疑った。

どこかで前提を間違えている。

そう考える方が自然だった。

画面に表示されている数字が正しいと考えるより。

その方が。

はるかに自然だった。

*

今回の測定目的は単純だった。

虹色の特殊構造が、純水との接触によってどれだけの熱を放出するのか。

これまで確認していたのは温度だけ。

室温付近から、六十度前後。

その変化を測っていた。

だが。

温度が高いことと、大きなエネルギーを放出していることは同じではない。

ごく小さな物体なら。

わずかな熱量でも高温になる。

反対に、大量の物質が温度を上げれば、必要な熱量も大きい。

だから今回は。

温度ではなく。

熱量を確認する。

反応前のサンプル。

反応に使用した水。

容器。

周囲への熱損失。

可能な限り管理し、放出された熱を測定する。

技術顧問から指示されたのは。

エネルギー収支を出すこと。

言葉にすれば簡単だ。

実際には、それほど簡単ではない。

特殊構造は薄膜。

基板の上に形成されている。

正確な反応物量を求めるためには、基板自体の質量と熱容量を分けて考えなければならない。

水も全てが反応に関与しているとは限らない。

蒸発。

容器への熱移動。

周囲への放熱。

補正すべき要素はいくつもある。

そのため。

最初の測定結果だけで結論を出すつもりはなかった。

あくまで予備評価。

測定系に問題がないか。

必要な精度が得られるか。

それを確認する。

そのはずだった。

「主任」

後ろから声をかけられた。

振り返る。

作製担当者が、保管容器を持って立っていた。

「サンプル、追加で三枚持ってきました」

「ありがとうございます」

「中央条件です」

「作製記録は?」

「つけてます」

資料を受け取る。

合成Si。

Ti処理。

成膜時間。

作製条件は再現性確認時の中央条件。

外観も問題ない。

三枚とも、油膜のような虹色をしている。

「これで足ります?」

「まずは」

「また作るなら早めに言ってください」

「分かりました」

彼は私のモニターを見る。

「今、何してるんです?」

「一回目の結果を確認しています」

「どうでした?」

「まだです」

「もう出てるんじゃないですか?」

画面を覗き込もうとする。

私は表示を閉じた。

「近いです」

「すみません」

一歩下がる。

「何か問題ありました?」

「確認中です」

「そうですか」

少し不満そうだった。

だが。

まだ見せられる結果ではない。

正確には。

私自身が、結果として認めていない。

「次の測定をします」

「手伝います?」

「お願いします」

彼は素直に頷いた。

*

二回目。

先ほどとは別のサンプル。

質量を測定する。

記録。

測定容器へ入れる。

熱電対の位置を確認。

容器を閉じる。

純水を規定量だけ滴下できるよう準備する。

「始めます」

「はい」

純水を滴下する。

反応開始。

温度が上がる。

それ自体は、何度も見ている。

二十五度。

三十度。

四十度。

五十度。

六十度。

これまでなら、そこで終わっていた。

今回は違う。

経時変化を記録する。

容器内部。

外壁。

周囲温度。

反応終了後も測定を続ける。

作製担当者が画面を眺める。

「いつも通りですね」

「そうですね」

「これだと、前と同じくらいですか?」

「何がです?」

「熱」

「まだ分かりません」

「そうですか」

彼はあっさり引いた。

少しして。

「俺、何してればいいです?」

「そこにいてください」

「いるだけ?」

「何か異常が起きた時のためです」

「俺、安全要員ですか」

「作った本人です」

「便利ですね、それ」

どこかで聞いた言い方だった。

「必要なら、次のサンプルを準備してください」

「分かりました」

彼が作業台へ向かう。

私は画面へ視線を戻した。

測定終了。

データを保存する。

計算する。

結果が表示される。

「…………」

一回目と近い。

測定ばらつきとして考えれば。

ほぼ同じと言ってもいい。

そんなはずはない。

一回目と同じ間違いを、二回目でも繰り返している。

そう考えた。

測定系が間違っている。

補正条件。

計算。

サンプルの質量。

何か。

必ず。

「主任?」

声をかけられた。

「何です?」

「いや」

彼がこちらを見ている。

「さっきから止まってるんで」

「確認しています」

「何か変なんですか?」

「まだ分かりません」

「結果は出たんですよね」

「出ました」

「じゃあ、どうだったんです?」

「もう一度測ります」

「…………」

彼が少し首を傾げる。

「今ので二回目ですよね」

「二回目です」

「二回じゃ足りない?」

「足りません」

「主任って、本当に回数で認めませんよね」

返事はしなかった。

回数が足りないのではない。

二回とも近い値になったことが問題だった。

*

次に確認したのは測定装置だった。

既知の熱量を与える校正用ヒーター。

設定値を変え、複数条件で測定する。

結果。

異常なし。

測定容器。

異常なし。

熱電対。

別のものへ交換。

校正履歴。

問題なし。

空の容器に純水だけを滴下する。

大きな発熱なし。

通常の合成Si膜。

発熱なし。

Ti処理のみ。

発熱なし。

基板のみ。

発熱なし。

「全部普通ですね」

横に立っていた彼が言った。

「はい」

「じゃあ装置は大丈夫?」

「現時点では」

「なら、さっきの結果も合ってるってことですか」

「まだです」

「まだ?」

彼は時計を見る。

すでに昼を大きく過ぎていた。

朝からほとんど、同じ測定室にいる。

「飯、食べません?」

「後で」

「主任、朝から何か食べました?」

「食べました」

嘘ではない。

朝食は取っている。

「俺、先に行ってきていいですか?」

「どうぞ」

「何かいります?」

「結構です」

「分かりました」

扉が閉まる。

静かになった。

私は再びデータを見る。

予備計算。

一回目。

二回目。

近い。

ブランク。

問題なし。

校正。

問題なし。

なら。

結果が正しい?

その考えを、すぐに否定する。

まだ早い。

測定系が同じなら、同じ系統誤差が出る可能性はある。

別の方法が必要だった。

*

午後。

別方式での測定準備を始めた。

同じ測定原理に依存しない。

反応系を変える。

測定容器も変える。

補正方法も変える。

この方法でも同じ傾向が出るなら。

最初の測定だけが間違っていた可能性は下がる。

「戻りました」

彼が扉を開ける。

手にはコンビニの袋。

「まだやってたんですか」

「やっています」

「主任の分も買ってきました」

机に、小さなパンと飲み物を置く。

「いらないと言ったはずですが」

「食べないと余計怖くなるんで」

「何がです?」

「主任が」

失礼な人だ。

「置いときますね」

そう言って、新しい測定系を見る。

「変えたんですか?」

「別方式でも確認します」

「なんで?」

「一つの測定方法だけでは、系統的な誤差を否定できないからです」

「なるほど」

たぶん。

半分も理解していない。

それでも、彼は次のサンプルを準備した。

作製記録を確認する。

問題なし。

三回目。

測定開始。

温度上昇。

反応時間。

終了。

結果を計算する。

手が止まった。

「…………」

同じだった。

完全に同一ではない。

装置も。

容器も。

補正も違う。

だから数値は多少ずれる。

それでも。

誤差を考慮すれば。

同じ範囲にいる。

「主任」

呼ばれる。

返事をしなかった。

「主任?」

「何です?」

「結果、出ました?」

「出ました」

「どうでした?」

「…………」

答えられなかった。

何と言えばいい。

まだ。

結果を受け入れたくなかった。

「もう一度測ります」

「また?」

彼は驚いた顔をした。

「今ので三回目ですよね」

「方式が違います」

「でも、結果は?」

「確認が必要です」

「同じだったんですか?」

「次のサンプルをお願いします」

少し強い口調になった。

彼は黙る。

数秒後。

「分かりました」

作業台へ向かった。

私は小さく息を吐いた。

普段なら。

もっと冷静に説明できる。

この測定で何を確認しているのか。

なぜ回数が必要なのか。

しかし。

今は。

自分が一番理解できていなかった。

*

四回目。

中央条件。

別サンプル。

同じ傾向。

五回目。

水量を変える。

放出熱量の変化はある。

だが。

特殊構造の単位量に換算すると。

大きくは外れない。

六回目。

形成量を変えたサンプル。

総熱量は変わる。

単位量換算。

また。

同じ範囲。

私は画面を見た。

六つの測定結果。

方法は一つではない。

サンプルも同じではない。

条件も少し変えている。

それでも。

最終的に。

同じところへ戻ってくる。

「主任」

横から声がした。

「何です?」

「今日、何回やりました?」

「六回です」

「六回」

彼が結果一覧を見る。

「全部同じ?」

「完全に同じではありません」

「でも、近い?」

「……はい」

初めて。

認めた。

彼は少し黙った。

「なら、合ってるんじゃないですか?」

簡単に言う。

だから困っている。

「まだ確認が必要です」

「何を?」

「反応後の物質」

「午前中も見てましたよね」

「もう一度確認します」

「質量も?」

「測り直します」

「水の量は?」

「記録しています」

「装置も校正しましたよね」

「しました」

彼は頭を掻いた。

「じゃあ、あと何を疑うんです?」

私は答えなかった。

何を疑う。

測定装置。

疑った。

計算。

やり直した。

補正値。

確認した。

サンプル。

変えた。

測定方法。

変えた。

ブランク。

問題なし。

既知試料。

問題なし。

それでも。

数字が戻ってくる。

なら。

次に疑うべきものは何だ。

自分の常識?

そんなものを。

簡単に疑えるはずがない。

「主任」

「はい」

「パン、食べないんですか」

机を見る。

彼が買ってきたパン。

そのまま置かれている。

「後で食べます」

「それ、朝から聞いてます」

「昼からです」

「どっちでもいいですよ」

彼が椅子へ座る。

「主任」

「何です?」

「結局、何がそんなに気になるんですか」

私は画面を見る。

六回分の結果。

まだ正式値ではない。

サンプル中の特殊構造量にも推定が含まれる。

反応に寄与する質量を、完全に分離できているわけでもない。

補正の精度も上げる必要がある。

今の段階で。

安易に数字を口にするべきではない。

ただ。

測定誤差で片づけるには。

あまりにも。

結果が揃いすぎている。

「さっきから」

彼が続けた。

「主任、一回も喜ばないですよね」

「何を喜ぶんです?」

「いや、再現した時もそうでしたけど」

「仕事ですから」

「変な反応が見つかって。作り方も分かって。熱量も測れた」

彼は画面を見る。

「普通、面白くないですか?」

面白い。

物性を扱う人間として。

これほど面白い対象は、滅多にない。

既知の反応では説明できない構造。

ごく微量のTi。

合成Si。

水との接触。

特殊な発熱。

正体を知りたい。

形成機構を解明したい。

なぜ。

どこから。

どのように。

確かめたいことはいくらでもある。

それでも。

目の前の数字を見て。

単純に喜ぶことはできなかった。

「面白いかどうかと」

私は言った。

「結果が正しいかどうかは、関係ありません」

「それはそうですけど」

「期待して測定すると、都合のいい結果だけを見ることになります」

「主任、この結果を期待してたんですか?」

「いいえ」

即答した。

むしろ。

逆だ。

低い数字。

既知反応で説明できる結果。

補正漏れ。

測定誤差。

そのどれかであってほしかった。

「では」

彼が画面を指す。

「この結果、都合悪いんですか?」

「…………」

答えに詰まった。

都合が悪い。

そういう問題ではない。

「主任」

「何です?」

「それ」

彼が画面を見る。

「多いんですか?」

私は何も言わなかった。

「熱ですよ」

分かっている。

「普通の発熱反応より多い?」

比較対象による。

反応物による。

質量基準か。

体積基準か。

反応速度か。

利用可能な熱量か。

簡単に多い、少ないと言えるものではない。

だから。

答えるべきではない。

まだ。

「ガソリンと比べたら?」

彼が続けた。

「そういう話ではありません」

少し強く言った。

彼が黙る。

なぜ。

ガソリンという言葉が出てきた。

ただ思いついただけだろう。

比較対象として。

身近な燃料として。

それだけだ。

それなのに。

胸の奥が少し冷えた。

私は表示されている値を見る。

特殊構造の推定質量。

測定された熱量。

単位量換算。

もし。

この数値が。

正しいなら。

「主任?」

彼がもう一度呼ぶ。

私は画面を閉じた。

「今日の測定は、ここまでにします」

「え?」

「反応後分析とデータ整理を行います」

「まだやるんですか」

「今度は測定ではありません」

「俺は?」

「追加サンプルを三条件で作ってください」

「まだ作る?」

「中央条件と、成立領域の上下限付近」

「分かりました」

彼が立ち上がる。

扉へ向かう。

そこで一度振り返った。

「主任」

「何です?」

「結局」

少し言いにくそうにする。

「どのくらいなんです?」

「まだ言えません」

「じゃあ、一つだけ」

彼は画面を見る。

「多いか、少ないか」

私は黙った。

この人には。

多いと言っても、意味が伝わらないかもしれない。

数字を出しても。

比較対象がなければ理解できない。

逆に。

理解されない方がいい。

正式な確認前に。

不確かな期待や不安を持たせるべきではない。

それでも。

六回測って。

六回とも。

同じ範囲だった。

二つの方法で。

異なるサンプルで。

条件を変えて。

それでも。

同じところへ収束した。

もう。

測定ミスだけで説明することは難しい。

私は一度、息を吐いた。

そして。

答えた。

「多いです」

彼の表情が変わる。

「どのくらい?」

そこまで言うつもりはなかった。

でも。

言葉が勝手に続いた。

「私が」

画面の向こうに並ぶ結果を見る。

「間違いであってほしいと思うくらいには」

彼から言葉が消えた。

しばらく。

測定室の中には。

装置の低い動作音だけが残った。

*

彼が追加サンプルを作りに出たあと。

私は一人で結果を見直した。

一回目。

二回目。

三回目。

四回目。

五回目。

六回目。

補正方法を変える。

最も保守的な条件を選ぶ。

反応した特殊構造量を多めに見積もる。

熱損失を少なめに見積もる。

結果が過大にならない方向へ。

一つずつ。

数字を厳しくする。

それでも。

既知の反応で説明できる範囲には戻らなかった。

私は新しい資料を開く。

表題を入力する。

特殊構造形成品 熱量測定結果

入力したところで、手を止める。

まだ。

結果。

と呼んでいいのか。

確認中。

暫定。

参考値。

そう書くべきではないか。

迷った末。

表題の下に追記した。

暫定評価

その文字を見て。

少しだけ落ち着く。

まだ暫定。

まだ確定ではない。

まだ。

間違っている可能性はある。

画面の右下に時刻が表示されている。

十九時三十八分。

技術顧問へ連絡するべきか。

今日は遅い。

追加分析も終わっていない。

正式報告は、すべてのデータを確認してからでいい。

そう考える。

だが。

技術顧問の言葉が、頭に残っていた。

計算値が合わなければ、測定を疑う。

それでも合わなければ。

その先を。

技術顧問は言わなかった。

今なら。

少しだけ分かる。

言えなかったのだ。

この結果に。

まだ名前がないから。

異常な発熱。

未知の反応。

新しいエネルギー現象。

どれも。

今の段階では正しくない。

私は新規メールを開いた。

宛先。

技術顧問。

件名。

熱量測定の暫定結果について

本文を書こうとして。

手が止まる。

何と書く。

異常値が出ました。

説明できません。

想定を上回りました。

どれも。

軽すぎる。

数秒考え。

短く入力した。

本日の熱量測定において、複数の測定方法およびサンプルで同様の傾向を確認しました。

現時点では、測定誤差のみで説明することが困難です。

明日、詳細をご報告します。

読み直す。

送信。

画面に表示された。

送信しました。

その文字を見て。

初めて。

自分の指先が少し震えていることに気づいた。

私は手を握る。

深く息を吐く。

六回。

六回とも。

同じだった。

何度測っても。

どれだけ疑っても。

数字は。

戻ってくる。

そして。

その数字が正しいのなら。

あの虹色の薄膜は。

ただ熱を出す物質ではない。

これまで私たちが扱ってきたものとは。

まったく違う。

私は消したはずの結果画面を、もう一度開いた。

表示された数値を見る。

しばらく。

目を離すことができなかった。

「……多すぎる」

誰もいない測定室で。

初めて。

声に出した。

第12話 終

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