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第十一話 いつも通りの場所


休日。

目が覚めたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

カーテンの隙間から入ってくる光がやけに眩しい。

枕元にあるスマートフォンを手に取る。

十二時四十六分。

「……寝たな」

久しぶりだった。

アラームをかけずに寝たのも。

起きる時間を気にしなくてよかったのも。

ここ一週間。

頭の中にあるのは、ほとんど仕事のことだった。

Ti。

合成Si。

成膜時間。

温度。

圧力。

○。

×。

△。

作って。

測って。

条件を変えて。

また作って。

主任とああでもない、こうでもないと話して。

技術顧問に報告して。

最後には。

エネルギー収支を出せ。

そう言われた。

「…………」

思い出したら疲れてきた。

やめよう。

今日は休みだ。

ベッドから起き上がる。

顔を洗って。

適当に飯を食う。

洗濯。

掃除。

動画を見る。

昼寝する。

起きる。

スマートフォンを見る。

まだ十六時。

「休みって長いな……」

ほんの数週間前まで。

当たり前だったはずなのに。

何もしなくていい時間を、少し持て余している自分がいた。

ベッドに寝転がる。

スマートフォンをいじる。

しばらくして。

メッセージが入った。

『今日来る?』

店長だった。

少し考える。

『行く』

返事を送った。

*

「いらっしゃ……」

扉を開ける。

店長と目が合う。

「…………」

「何だよ」

「生きてたんだ」

「勝手に殺すな」

久しぶりのUNITE。

何も変わっていない。

薄暗い照明。

カウンター。

並んだ酒。

聞き慣れない曲。

そして。

いつもの店長。

「二週間くらい来なかったろ」

「そんな空いた?」

「空いた」

「仕事?」

「仕事」

「ふーん」

店長はそれ以上聞かなかった。

俺はいつもの席に座る。

「ビール?」

「うん」

「だから太るんだぞ」

「お前にだけは言われたくない」

「俺は店長だからいいの」

「意味分かんねえよ」

冷えたグラスが置かれる。

ビールが注がれる。

店長が差し出す。

「お疲れ」

「今日休みだけど」

「じゃあ何に疲れてんだよ」

「色々あるんだよ」

グラスを持つ。

一口。

「…………うま」

やっぱり。

ここで飲む一杯目はうまい。

「あっ!」

奥から声がした。

嫌な予感。

「生きてた!」

「お前もかよ」

大きな目をさらに丸くしながら、活発な方が出てくる。

「全然来ないから辞めたのかと思ってました」

「何を?」

「会社」

「なんで俺が店に来ないだけで会社辞めるんだよ」

「じゃあ女?」

「違う」

「即答」

「違うからな」

俺の顔をじっと見る。

近い。

「何?」

「……なんか疲れてません?」

「そう?」

「老けました?」

「喧嘩売ってんのか」

「三歳くらい」

「具体的だな」

店長が笑う。

「俺も思った」

「お前まで言うなよ」

「ちょっと髪も」

「それ以上言ったら帰るぞ」

「まだ何も言ってないじゃん」

「言おうとしただろ」

「被害妄想」

最悪だ。

こいつら。

でも。

なんとなく落ち着く。

「いらっしゃいませ」

小さな声。

もう一人。

全身に刺青が入った彼女が、空いたグラスを持って立っている。

相変わらず。

見た目だけなら、この店で一番怖い。

「久しぶりですね」

「久しぶり」

「もう来ないのかと思いました」

「なんでみんなそうなるんだよ」

「最近、忙しかったんですか?」

「まあね」

「大変ですね……」

本気で心配している。

この店では一番まともかもしれない。

見た目以外。

「仕事どう?」

店長が聞いた。

何気ない質問だった。

いつもなら。

そのまま答えていた。

試作がどうとか。

評価がどうとか。

上司がどうとか。

詳しい内容は言わなくても、愚痴くらいは喋っていた。

でも。

今日は。

一瞬。

言葉が止まった。

頭に浮かぶ。

虹色のサンプル。

技術顧問。

主任。

ホワイトボードに並んだ大量の○と×。

Ti。

合成Si。

そして。

『この件については口外しないこと』

「…………」

店長が俺を見る。

「何?」

「いや」

ビールを一口飲む。

「まあ、普通」

「絶対普通じゃないじゃん」

活発な方が即座に言う。

「なんで」

「今の間」

「間?」

「普通の人は『まあ普通』って言うのに三秒もかけません」

「細けえな」

店長も笑う。

「なんかやらかした?」

一瞬。

成膜時間三倍。

頭に浮かぶ。

「……まあ」

「やったんだ」

「違う違う」

「今の反応完全にやってるじゃないですか」

「仕事の話やめよう」

グラスを上げる。

「今日は休み」

「逃げた」

「逃げてない」

「じゃあ何してるの?」

「なんか作ってる」

三人が俺を見る。

「何それ」

店長が言った。

「知らん」

「自分で作ってんじゃないの?」

「作ってるけど、俺にもよく分からん」

「お前、本当に仕事してんの?」

「してるわ」

笑い声。

それで終わった。

もちろん。

俺が作っているものが何なのか。

言えるはずはない。

というより。

今の俺自身。

何なのか説明できない。

ただ。

狙って作れるようにはなった。

それだけだ。

「じゃあさ」

活発な方が身を乗り出す。

「仕事の話なしなら、何の話します?」

「知らんよ」

「恋愛」

「却下」

「早っ」

「店長の体重」

「もっと却下」

店長が言う。

「じゃあこいつの刺青増えた話」

全員が刺青の彼女を見る。

「…………」

本人が固まった。

「増えたの?」

俺が聞く。

「少し……」

「少しってどこ」

「ここ」

袖を少し上げる。

新しいものが増えていた。

「痛くないの?」

「痛いです」

「よくやるな」

「でも好きなので」

「強いねえ」

そう言った瞬間。

彼女の視線が俺の肩越しに向いた。

顔が固まる。

「…………」

「何?」

「後ろ」

「後ろ?」

振り返る。

壁。

棚。

酒。

そして。

小さな蛾。

「虫……」

声が小さい。

「蛾じゃん」

「無理です」

「いやいや」

俺は彼女を見る。

腕。

首元。

刺青。

再び蛾。

「お前、その見た目で蛾無理なの?」

「見た目は関係ないです」

「こんな小さいぞ」

「大きさも関係ないです」

蛾が少し飛ぶ。

「っ!」

彼女が後ろへ下がる。

活発な方が大笑いする。

「ちょ、ほんと弱すぎ!」

「笑わないでください!」

「店長、取ってあげれば?」

「俺も虫嫌い」

「お前もかよ」

結局。

俺がティッシュを持つことになった。

「なんで客が虫取ってんだよ」

「頑張ってください」

「お前が一番他人事だな」

店中を少し逃げ回った後。

なんとか外へ出す。

「はい終了」

「ありがとうございます……」

全身刺青の女が、本気で頭を下げる。

「刺青一個につき虫一匹くらい倒せるようになれよ」

「関係ないです」

「さっきも聞いたよ」

また笑った。

くだらない。

本当に。

何の意味もない時間。

でも。

久しぶりだった。

仕事のことを考えずに。

普通に笑ったのは。

*

二杯目。

三杯目。

店長の最近の失敗談。

活発な方が通販で服を買って、届いたものが全然違った話。

刺青の彼女が新しく買った観葉植物を三日で弱らせた話。

「水あげてる?」

「毎日」

「それ、あげすぎじゃない?」

「え?」

「植物によるけど」

「…………」

顔が青くなる。

「帰ったら確認します」

「そんな深刻な顔する?」

「枯れたらどうしよう……」

「いや、まだ枯れてないだろ」

面白い。

こんなことで。

本気で悩んでいる。

少し前なら。

俺も。

そんなことばかり考えていた気がする。

いや。

今も同じか。

別に。

俺自身が大きく変わったわけじゃない。

仕事で変なものを作った。

少し面倒なことになった。

それだけ。

少なくとも。

俺はそう思っていた。

「そういえば」

店長が言う。

「来週も忙しいの?」

「……たぶん」

言ってから。

自分で気づいた。

技術顧問の顔が浮かぶ。

「たぶん禁止にしようかな」

「何?」

「いや、こっちの話」

「意味分からん」

「俺も」

グラスを傾ける。

仕事の話は。

それ以上しなかった。

*

店を出たのは。

日付が変わる少し前だった。

「じゃあな」

店長が言う。

「おう」

「来週は来いよ」

「暇だったら」

活発な方が手を振る。

「次来るまでに三歳若返ってくださいね」

「無茶言うな」

刺青の彼女も小さく手を振る。

「虫、ありがとうございました」

「次は自分で取れよ」

「努力します」

絶対無理そうだった。

扉が閉まる。

外は少し冷えていた。

歩き出す。

街はいつも通り。

飲み屋。

コンビニ。

タクシー。

信号待ちの車。

笑っている学生。

酔っ払った会社員。

何も変わっていない。

当然だ。

俺の仕事なんて。

この街の誰も知らない。

知らなくていい。

スマートフォンが震えた。

取り出す。

主任からだった。

こんな時間に?

メッセージを開く。

短い。

『来週から熱量測定に入ります。月曜朝、条件確認お願いします』

「…………」

思わず空を見上げる。

月曜日。

また。

あの虹色のやつか。

『了解です』

それだけ返す。

スマートフォンをしまう。

「また月曜からか……」

小さく呟いた。

歩き出す。

熱量測定。

どのくらい熱が出ているか。

ちゃんと測る。

俺の理解は。

まだその程度だった。

さっきまでいた店では。

くだらないことで笑っていた。

虫が怖いとか。

服を買って失敗したとか。

植物に水をやりすぎたとか。

そして。

月曜日になれば。

俺はまた。

あの数センチのサンプルを作る。

ただ。

それだけ。

その測定結果が。

今まで通りの生活と。

少しずつ。

境目を作り始めることになるなんて。

この時の俺は。

まだ知らなかった。


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