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第十話 確立してしまった技術


技術顧問という肩書は、便利ではない。

少なくとも。

俺はそう思っている。

技術的に判断が難しい案件。

複数の部門にまたがる案件。

国への説明が必要になる案件。

誰も簡単には結論を出せないものほど、最後には俺のところへ上がってくる。

だから。

この部屋に持ち込まれる報告の多くは、順調なものではない。

今回も。

始まりは、ただの失敗報告だった。

国の支援を受けて開発された合成Si。

その特性を確認するための、初期段階の成膜評価。

担当者が設定条件を間違えた。

規定の約三倍。

最初にそれを聞いた時。

正直に言えば、呆れた。

よりによって。

あの評価で。

何をしてくれているんだ。

ただ。

それだけだった。

*

合成Siの開発計画が持ち上がったのは、俺がまだ省庁側にいた頃だ。

国内で使用されるSiのすべてを、国内だけで安定的に確保する。

現実には、それほど単純な話ではない。

原料があればいいわけではない。

製造設備。

精製技術。

生産コスト。

品質。

供給網。

どれか一つ欠けても、産業としては成立しない。

特に問題になったのがコストだった。

作れても、高ければ使われない。

性能が良くても、従来材料の数倍するのであれば置き換えは進まない。

だから国が支援していたのは、特別な性能を持つ夢の材料ではない。

安く。

安定して。

国内で生産できるSi。

それだけだった。

ただ、その「それだけ」を実現するのが難しい。

いくつもの研究機関。

複数の企業。

多額の予算。

長い年月。

この会社へ移ってからも、俺は技術側の責任者として計画に関わり続けた。

ようやく試作段階まで来た材料だった。

それを。

成膜時間三倍。

報告を聞いた時に思ったのは、今後への影響だけだ。

再試作に何日かかる。

装置の空きは確保できるのか。

材料の残量は。

プロジェクトの予定に、どの程度影響する。

その程度の話だった。

「再試作させてください」

担当の上司は、そう報告した。

「数日は遅れますが、評価自体はやり直せます」

「分かった」

それで終わるはずだった。

条件を間違えた担当者には注意する。

再発防止を考える。

新しいサンプルを作る。

評価を再開する。

よくある話だ。

少なくとも。

その時までは。

「それとは別に、確認いただきたいものがあります」

担当の上司が机の上へ置いた資料。

それが。

すべての始まりだった。

*

「水を加えると発熱する?」

最初に説明を聞いた時。

意味が分からなかった。

物性分析班の主任が答える。

「はい」

「どの程度だ」

「室温付近から、六十度前後まで上昇しています」

「水の量は」

「初回は管理されていません。その後、定量した純水でも同様の現象を確認しました」

「反応物は」

「特定できていません」

「ガスは」

「目立った発生は確認されていません」

「質量変化は」

「測定限界に近い範囲です」

分からないことばかりだった。

俺は資料を見た。

虹色に変色したサンプル。

温度変化。

正常品との比較。

分析スペクトル。

未知のピーク。

そして。

同条件として作られた三枚でも、同じような現象が確認されている。

その時点で。

俺はまだ、特別な発見だとは思っていなかった。

測定異常。

材料の汚染。

装置内の残留物。

あるいは、分析者が知らないだけの既知反応。

候補はいくらでもある。

むしろ。

そのどれかである可能性の方が高い。

新しい現象かもしれない。

そんな結論を急ぐ人間ほど、技術判断には向かない。

大抵の場合。

説明できないことには、まだ確認できていないだけの理由がある。

問題は。

作製した本人が、その理由を知っているかどうかだった。

「担当者本人は?」

「帰宅しています」

「帰したのか」

思わず聞き返した。

報告した上司は、少し困った顔をした。

「通常業務もありましたし、本人はこの件の重要性を理解していません」

当然だ。

理解できるはずがない。

俺たちだって。

何も理解していない。

それでも。

実際に装置を操作した人間にしか分からないことがある。

技術資料には、すべてが記録されているわけではない。

手順書には書かれていない確認。

習慣になっている操作。

装置の微妙な挙動。

材料を扱った時の感覚。

数値にならない違和感。

そういうものが。

後から原因になることは珍しくない。

「呼び戻せ」

「今からですか?」

「今からだ」

金曜の夜。

すでに酒を飲んでいた担当者を会社へ呼び戻した。

無理を言っていることは分かっていた。

だが。

月曜日まで待っていいと判断できる材料もなかった。

*

会議室へ入ってきた担当者は、明らかに緊張していた。

当然だろう。

金曜の夜。

突然会社へ呼び戻され。

会議室へ入ったら、直属の上司だけではなく、物性分析班の主任と技術顧問が座っている。

条件ミスを叱責されると思っていたのかもしれない。

だが。

俺が確認したかったのは、ミスの責任ではない。

何を間違えたのか。

なぜ間違えたのか。

途中で気づいた時に、何をしたのか。

装置を操作したのか。

設定を変更したのか。

通常とは違う動作がなかったか。

一つずつ聞いた。

しかし。

返ってくる答えには、何度も同じ言葉が混じった。

たぶん。

思います。

普通です。

技術者が無責任に答えているわけではない。

普段の作業だったから覚えていない。

それだけだ。

人間の記憶とは、そういうものだ。

重要だと認識していないものを、すべて正確に覚えている人間はいない。

だからこそ。

推測で答えさせるわけにはいかなかった。

「分からないことは、分からないと答えてくれ」

そう伝えた。

曖昧な記憶から作られた説明は、後になって事実として固定される。

一度固定された間違った前提を崩すのは難しい。

本人が覚えていないのなら。

装置ログと記録と現物から追う。

その方がいい。

聞き取りを終えた段階でも、特別なことは分からなかった。

成膜時間を間違えた。

途中で気づいた。

画面を確認した。

その後、処理を完了させた。

取り出したサンプルの外観が気になった。

失敗品として捨てず、分析した。

その判断がなければ。

あのサンプルは、何も知られないまま廃棄されていた。

今になって思えば。

彼が最初にやった重要なことは、条件を間違えたことではない。

違和感を無視しなかったことだ。

当然。

その時の俺は、そんな評価をしていない。

ただの条件ミス。

そこから生じた異常。

まだ。

その程度だった。

*

週が明けた。

同条件での再現試験。

俺は、再現する可能性の方が高いと思っていた。

担当者はすでに翌朝、三枚の再現確認を行っている。

外観は同じ。

純水による発熱も同じ。

一枚だけなら局所的な欠陥や偶発的な汚染で説明できる。

だが。

最初の一枚を含めて四枚。

何らかの条件が存在する。

そう考えるのが自然だった。

だが。

月曜日。

三回実施して。

一度も再現しなかった。

報告資料を見た時。

落胆より先に。

別の可能性が浮かんだ。

金曜日。

四回成功。

月曜日。

三回失敗。

結果が無秩序にばらついているのではない。

日を境に、きれいに分かれている。

ならば。

何かが変わっている。

材料。

装置。

環境。

工程。

人。

あるいは。

まだ誰も条件として認識していない何か。

会議で担当者へ聞いた。

本当に同じ条件だったのか。

彼は、同じだと答えた。

ログも確認したと。

だが。

ログに残っているものだけが工程ではない。

設定値だけが製造条件ではない。

データに記録されない違いはいくらでもある。

俺は二人へ指示した。

金曜日と月曜日の違いを探せ。

すべてを洗え。

そして。

必ず再現させろ。

強い言い方になったと思う。

だが。

そこで区切る必要があった。

再現できなければ。

どれだけ不思議でも、技術にはならない。

一度だけ現れた異常。

管理できない現象。

狙って作れない物質。

それなら。

会社の中で封じ込め。

調査記録を残し。

安全を確認して終わることもできる。

むしろ。

その方がよかったのかもしれない。

正直に言えば。

俺は心のどこかで。

再現しないことを願っていた。

理由は、うまく説明できなかった。

発熱量の簡易計算。

説明できない物質変化。

国が開発を支援した合成Si。

水との接触。

どれも単独では、世界を変えるような話ではない。

それでも。

長年。

国と技術の境目に立っていると。

事実が大きな意味を持ち始める前の。

独特の気配を感じることがある。

まだ何も確定していない。

誰も価値を説明できない。

それなのに。

扱いを間違えてはいけないと感じる。

そんな案件だ。

俺の勘が外れているなら。

それが一番いい。

再現しない。

原因も見つからない。

最初の四枚を使い切れば終わる。

異常なサンプルが、残るだけ。

そう願う自分がいた。

だが。

俺は同時に。

再現させろと命じた。

技術者として。

見つかった現象を、分からないまま終わらせることはできなかった。

矛盾している。

それでも。

命令を撤回する気はなかった。

*

ノックの音で、意識が現在へ戻った。

「どうぞ」

扉が開く。

物性分析班の主任。

その後ろに、作製担当者。

二人とも疲れた顔をしている。

無理もない。

報告を受けてから。

ほとんど通常業務を止めて、この件の確認に入っていた。

主任が資料を机へ置く。

「再現条件について、確認が完了しました」

表紙を見る。

特殊構造形成現象 再現条件確認結果

資料を手に取る。

ページをめくる前に。

右上の記載が目に入った。

設定条件下での再現性を確認。

その一文を見て。

自分の表情が動くのが分かった。

再現した。

させてしまった。

「説明してください」

主任が話し始める。

金曜日品と月曜日品の差。

成功品に存在した微量Ti。

週末のチャンバークリーニング。

金曜日以前のTi系材料の処理履歴。

合成SiへTiを直接添加しても、同じ構造は形成されなかったこと。

装置内へTi由来成分を微量に残した状態で、長時間成膜を行ったこと。

その結果。

虹色の外観。

特徴的な分析ピーク。

純水による発熱。

すべて再現した。

俺は資料をめくる。

「直接添加では形成しなかった?」

「はい」

主任が答える。

「Tiの量だけではなく、存在状態や合成Siへの取り込まれ方が影響している可能性があります」

「形成機構は?」

「まだ分かっていません」

「Tiは反応時に消費される?」

「現時点の分析では、大きく消費されているようには見えません」

ページを送る。

条件マトリクス。

Ti処理量。

成膜時間。

○。

×。

△。

「これは?」

作製担当者が答える。

「成立領域です」

初めて。

彼の方から説明した。

「Tiを少なくすると形成しません。多すぎても駄目です」

ホワイトボードから転記されたらしい図を指す。

「成膜時間も範囲があります。短いと形成しない。長すぎても別の状態になります」

「境界条件は確認した?」

「現時点で確認できる範囲では」

以前の彼なら。

たぶん。

そう言ったかもしれない。

今は違った。

自分たちが確認した範囲と、まだ分からない範囲を分けて答えている。

「中央条件では?」

「連続三回で形成しました。その前にも同一条件で三回確認しています」

「発熱は」

「全て確認しています」

「ばらつきは?」

主任が答える。

「簡易的な温度測定では、同じ傾向です。ただし、正確な熱量としての評価はまだ実施していません」

俺は再び資料へ目を落とした。

合成Si。

ごく微量のTi。

特定の成膜履歴。

決められた範囲内で作れば。

同じ構造が形成される。

水に触れると発熱する。

つまり。

これはもう。

偶然できた不良品ではない。

まだ製造法と呼ぶには粗い。

量産には程遠い。

形成機構も分からない。

正体も分からない。

安全性も分からない。

それでも。

一つだけ。

確かなことがある。

彼らは。

狙って作った。

「君が見つけたのか」

俺は作製担当者に聞いた。

「何をです?」

「週末のクリーニングだ」

「ああ……」

彼は少し気まずそうな顔をした。

「装置の立ち上がりが、金曜より妙に良かったんです」

「良かった?」

「圧力の安定が早くて。規格内だったんですけど、金曜より綺麗に立ち上がってました」

「それでクリーニングを疑った?」

「中を見たら、妙に綺麗だったんで」

いかにも。

現場の技術者らしい答えだった。

数値異常を見つけたわけではない。

警報が出たわけでもない。

正常だった。

ただ。

普段より調子が良かった。

それを違和感として拾った。

「なるほど」

俺は資料へ視線を戻した。

「よく見つけた」

彼が少し驚いた顔をした。

褒められると思っていなかったのだろう。

俺自身。

口に出すつもりはなかった。

だが。

これは評価するべきだった。

条件を間違えたことではない。

偶然できたものを拾い上げたこと。

再現できなくなった原因を探したこと。

そして。

自分たちが条件と呼んでいなかったものを、製造条件に変えたこと。

そこには。

明確な技術者の仕事があった。

「ありがとうございます」

少し遅れて。

彼が答えた。

「ただし」

表情が戻る。

彼の顔も引き締まった。

「これで終わりではない」

「はい」

「むしろ」

資料を閉じる。

「ここからだ」

主任が聞く。

「次の確認は、形成機構でしょうか」

「それも必要だ」

「では」

「ただ、その前に確認したいことがある」

机の上の温度グラフを見る。

室温付近。

純水滴下。

六十度前後まで上昇。

これまでは。

異常現象の確認として十分だった。

発熱した。

再現した。

ただし。

それがどの程度の意味を持つのかは、まだ分からない。

温度が高いことと。

大きなエネルギーを持つことは。

同じではない。

少量の物質が高温になっても、総熱量が小さければ用途は限られる。

一方。

温度上昇が低くても、物質量に対して大きな熱を放出しているなら。

話は変わる。

「次は熱だ」

作製担当者が聞き返す。

「熱?」

「これまでのような温度測定ではない」

主任は意味を理解したようだった。

「熱量測定ですか」

「そうだ」

俺は資料から、Ti量と膜厚の記載を探した。

形成した特殊構造の量。

滴下した水の量。

反応前後の質量。

放出された熱量。

投入したエネルギー。

すべてが必要になる。

「反応系を組んでください」

「分かりました」

「可能な限り閉じた系で行うこと。発生物も回収する」

「はい」

「水以外に反応へ寄与しているものがないかも確認する」

主任がメモを取る。

「サンプルの正確な質量が必要です」

「準備してください」

「膜単体での評価は難しいかもしれません」

「必要なら基板ごとの熱容量を補正する」

「設備は?」

「社内になければ、限定した範囲で調整する。ただし、現時点では情報を外へ出すな」

「分かりました」

作製担当者は、話についてきていないようだった。

「つまり」

彼が言う。

「どのくらい熱が出てるか、ちゃんと測るってことですか」

「そうだ」

「それで、何が分かるんです?」

「この反応が」

一度、言葉を止める。

「ただ表面が熱くなっているだけなのか」

簡易計算では。

すでにおかしな数字が出ている。

だが。

簡易計算は簡易計算だ。

前提を間違えれば、いくらでも異常な結果になる。

だからこそ。

正確に測らなければならない。

「それとも」

二人を見る。

「本当に、説明できないエネルギーを放出しているのか」

作製担当者から、表情が消えた。

ようやく。

この次に何を確認しようとしているのか。

理解したらしい。

「主任」

「はい」

「エネルギー収支を出してください」

「分かりました」

「見落としがないよう、複数の方法で確認する」

「はい」

「計算値が合わなければ、測定を疑う」

「はい」

「それでも合わなければ」

言葉が止まった。

そこで何と言うべきか。

俺にも分からなかった。

異常値。

新反応。

未知の構造。

まだ。

呼び方はいくらでもある。

だが。

もし。

正確に測っても。

投入したものと。

消費されたものと。

発生した熱が。

どうしても合わなかったら。

その時は。

この会社だけで考える話ではなくなる。

「……まずは測ってください」

結局。

そう言った。

主任が資料をまとめる。

作製担当者も立ち上がる。

「失礼します」

二人が部屋を出る。

扉が閉まった。

一人になる。

机の上には。

再現条件をまとめた資料。

合成Si。

微量Ti。

特殊な成膜条件。

すべて。

ありふれたものだ。

少なくとも。

一つずつ見れば。

国が開発したとはいえ、目的は低コスト化だった。

Tiも珍しい元素ではない。

成膜装置も既存設備。

水も。

どこにでもある。

それらを組み合わせた結果。

説明のつかない現象が起きている。

俺は表紙をもう一度見る。

設定条件下での再現性を確認。

本来なら。

喜ぶべき結果だ。

命じたことを。

彼らは成し遂げた。

偶然を。

技術へ変えた。

だが。

胸の奥にあったのは。

期待ではなかった。

むしろ。

逆だった。

再現できなければ。

ここで終われた。

偶然の異常。

数枚だけ残ったサンプル。

未解明の現象。

それで済んだ。

だが。

もう違う。

条件を合わせれば。

作れる。

何度でも。

俺は椅子にもたれた。

以前。

国の政策に関わっていた頃。

何度も聞いた言葉がある。

技術は、可能性である。

産業を生み。

国を支え。

人の生活を豊かにする。

確かに。

間違ってはいない。

だが。

技術は。

可能性だけではない。

一度成立してしまえば。

なかったことにはできない。

俺は再び資料を開く。

温度グラフを見る。

六十度を示す線。

たった、それだけ。

今はまだ。

何の意味も持たない数字だ。

次の測定で。

すべてが間違いだったと分かるかもしれない。

既知の化学反応。

分析漏れ。

測定系の誤差。

いくらでも可能性はある。

だから。

まだ何も判断してはいけない。

まだ。

国へ上げる段階ではない。

まだ。

ただの社内評価だ。

そう、自分へ言い聞かせる。

だが。

資料の右上には。

変わらず、その文字がある。

再現性を確認。

少なくとも。

偶然ではなくなった。

そして次は。

その偶然が。

どれだけのエネルギーを持っていたのか。

確かめなければならない。

正直に言えば。

結果を知りたいとは思わなかった。

それでも。

確認しないという選択肢は。

もう残されていなかった。


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