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第九話「底」

水曜日。


朝から、複雑案件が連続した。


三者間契約の解約手続き。


返金先口座の凍結。


転居先、不明の通知。


配送業者の引き継ぎミス。


そのどれもが、マニュアル外だった。


AIは処理を諦めていた。


三回ずつ諦めていた。


そして、田中に届いた。


一件目は八時五十分に始まった。


三者間契約の解約。夫婦と会社の三者契約。離婚に伴う解約。


AIは「契約者本人の承認が必要」と案内していた。


でも、契約者が行方不明だった。


田中は法務部に内線をかけた。


三十分、待たされた。


法務部の担当者が戻ってきて、書類のテンプレートを送ってくれた。


それから顧客に書類を案内した。


顧客は書類の記入方法を質問し続けた。


田中は一つずつ答えた。


通話、九十分。


二件目は十時二十五分から始まった。


返金先口座の凍結。


顧客の通帳が口座凍結になっていた。


田中は経理に内線をかけた。


経理は「別口座の指定を依頼してください」と言った。


顧客は別口座を持っていなかった。


家族の口座でもいい、という特例対応を、経理と交渉した。


交渉には三十分、かかった。


通話、七十分。


三件目は十一時四十分から始まった。


転居先、不明の通知。


顧客が引っ越したが、新しい住所の登録がまだ、できていなかった。


田中は顧客本人に確認を取り、システムの住所を仮登録した。


通話、百分。


気づいたら、十三時二十分だった。


田中は昼休みを取れなかった。


取れなかったが、お腹も空かなかった。


空腹の信号が、どこかで切れていた。


頭が少しぼんやりしていた。


水も飲んでいなかった。


午後、三時、四件目の通話中、田中の画面にエラーが表示された。


「システム処理、タイムアウト」


「……」


電話の向こうで、男性が待っていた。


配送業者の引き継ぎミスの件。


別会社の配送業者が途中で変わっていて、追跡番号が切れていた。


「もしもし」


「はい、申し訳ございません、ただいまシステムを確認中です」


「さっきから、何回、確認してんの」


「はい」


田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。


握った指が少し震えているのに気づいた。


震え、というほどではない。


ほんの少しだけ、ぴくりと動いている感じだった。


「もしもし、聞いてんの?」


「はい」


「もう、いいよ。自分で調べるから」


「……」


男性は電話を切った。


切る音が耳に残った。


田中は通話を終えた。


切られた通話は、クレーム履歴に「未解決」と記録された。


田中はそれをじっと見た。


未解決、という文字がやけに重く見えた。


ヘッドセットを外した。


そのまま十秒ほど、動かなかった。


モニターの応答ランプは、また点滅している。


次の電話が待っている。


田中はそれを見ていた。


見ていただけで、取らなかった。


(取りたくない)


その気持ちがはっきり、田中の中にあった。


取りたくない、という気持ちを意識したのは、たぶん初めてだった。


意識すると、その気持ちは少し大きくなった。


大きくなったまま、田中の胸のあたりに居座った。


応答ランプは点滅を続けていた。


田中はブースから立ち上がった。


足元が少しふらついた。


水分と糖分が足りていないのかもしれない。


食べてなかった。


飲んでいなかった。


自販機まで歩いた。


歩きながら、田中は自分の足元を見ていた。


床のタイル。


一枚ずつ区切りがある。


区切りの線を、田中は一本ずつ踏みながら歩いた。


意味はなかった。


自販機の前で、カフェオレを押した。


缶が落ちる音。


受け取る。冷たい。


振り返ると、誰もいなかった。


あの男もいなかった。


他のオペレーターもいなかった。


フロアは静かだった。


AIの音声だけが、隣のブースから漏れている。


いつもの声。


田中は缶を持ったまま、監査部のプレートの前で立ち止まった。


窓の向こうに、いつもの会議室が見えた。


人はいなかった。


デスクの上もきれいに片付いていた。


缶コーヒーもなかった。


男は今日はいないのかもしれない。


いない、とわかると、少しだけ安心した。


安心した自分に、田中は驚いた。


(安心?)


(なんで、安心?)


考えてもわからない。


ブースに戻った。


応答ランプはまだ点滅していた。


田中はヘッドセットをつけた。


通話に応答した。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


また、怒鳴り声だった。


田中はその声を聞きながら、ぼんやり思った。


(辞めたいな)


はっきり思った。


(でも、次がないな)


それも思った。


(辞めても、次がないから、辞められない)


(辞められないから、今日もここにいる)


通話は三十分で終わった。


田中は通話を終えた。


もう、応答ランプは点滅していなかった。


珍しく、電話が途切れていた。


田中はその途切れた時間を、一分、二分、ぼんやり見ていた。


モニターの画面が軽く明滅していた。


その間、田中は何も考えなかった。


考えなかったというより、考える気力がなかった。


空っぽだった。


空っぽの頭で、田中はただ画面を見ていた。


見ていたら、応答ランプがまた点滅した。


田中は通話に応答した。


夕方、退勤。


駅のホームで、田中は線路を見ていた。


電車が来るのを待っていた。


ホームの端の自動販売機は、今日も誰にも使われていなかった。


田中は自動販売機の前に、一度立ってみた。


立っただけで、何も買わなかった。


買わずに、そのまま電車を待つ場所に戻った。


電車が来て、田中は乗った。


車内で吊革につかまりながら、窓の外を見た。


窓の向こうで、見知らぬ街が流れていった。


見慣れた街だった。


でも、今日は見知らぬ街に見えた。


田中は自分が今、どこに向かっているのか、一瞬わからなくなった。


いつもの帰り道のはずだった。


家に着いた。


電気をつけないまま、玄関で立っていた。


靴を脱いだ。


リビングに入った。


テーブルの上に、昨日のノートが開いたままだった。


「バッテリー件数」と書いたページ。


田中はそれをじっと見ていた。


見ていただけだった。


何もしなかった。


冷蔵庫を開けた。


缶ビールはもうなかった。


昨日、最後の一本を飲んだ。


買っていなかった。


買いに行く気力もなかった。


冷蔵庫から水を出した。


コップに注いで飲んだ。


冷たい。


喉を通るときに、少し詰まった気がした。


呪いの「はい」を言うときの詰まりとは、少し違った。


でも、似ていた。


その夜、田中は早く眠った。


眠る前に一つだけ考えた。


(呪いって、どうやったら解けるんだろう)


考えて、


答えは出なかった。


目を閉じた。


そのまま眠りに落ちた。


夢は見なかった。


見たかもしれないが、覚えていなかった。


朝、目が覚めたときには、少しだけ頭が軽くなっていた。


でも、疲れは残っていた。


疲れが残ったまま、田中はまたフロアに行った。


行くしかなかった。


行くしかないのか、と田中は一瞬、思った。


思って、答えは出さなかった。


出さないまま、電車に乗った。


電車は今日も、時刻通りに来た。


来なかったら、どうするか、という仮の問いは、田中の頭の中で浮かびもしなかった。


電車はいつも、来るものだった。


来ない日はまだ、来ていなかった。


まだ来ていないだけ、かもしれなかった。


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