表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/17

第十話「きこえる」

木曜日。


朝、九時。


田中はブースに座った。


前日の疲れはまだ、肩に乗っていた。


ヘッドセットをつけた。


耳の後ろの跡が、少し痛かった。


痛かったが、もう慣れていた。


慣れていたつもりだった。


朝、二件、クレームを取った。


どちらも淡々と処理した。


一件目、配送の伝票ミス。


二件目、返金手続きの確認。


どちらも十五分以内で終わった。


終わって、田中は少しだけ、身体が軽くなった気がした。


気のせいかもしれない。


十時半、三件目の電話を取った。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


「……ああ、はい」


女性の声だった。


三十代くらい。


落ち着いた声。


でも、息を吐きながら喋っていた。


疲れている人だ、と田中はなんとなく聞いた。


「あの、注文のキャンセル、したいんですけど」


「はい。ご注文番号をお伺いしてもよろしいでしょうか」


女性は番号を読み上げた。


田中はモニターに入力した。


高額の商品だった。


出産準備のベビーカー。


注文は三日前。


まだ発送前だった。


「キャンセル、承りました。返金の手続きを——」


「あの、」


女性が少し、田中の言葉を遮った。


「あの、理由、書かないとだめですか」


「いえ。キャンセル理由は任意です」


「……そうですか」


息を吸う音が聞こえた。


吸った息が震えていた。


怒っている息ではない。


泣きそうな息だった。


田中にはそれが、なんとなく聞こえた。


田中は少し間を置いた。


本当は、そのまま事務的に処理すれば、通話は終わった。


キャンセル処理はシステム上、完了していた。


返金は三営業日以内に振り込まれる。


それ以上、田中がやることはなかった。


でも、田中の口が勝手に動いた。


「お怪我は、されませんでしたか」


言ったあとで、田中は少し驚いた。


この前と同じ言葉だった。


最初の日にクレーマーの女性にかけた、あの言葉。


なぜ今、出たのか、わからなかった。


電話の向こうで、女性が数秒黙った。


田中も黙っていた。


二人の沈黙だった。


ヘッドセットの向こうで、女性が何か言いかけて、やめて、もう一度、息を吸った。


それから、小さな声で、


「……なんで、わかるんですか」


と言った。


田中は答えなかった。


答えられなかった。


なんで、わかったのかも、わからなかった。


ただ、息の調子が違っていた。


怒ってはいなかった。


泣いてもいなかった。


でも、泣く手前だった。


女性は少し笑った。


笑って、息を吐いた。


「大丈夫です。今、病院、帰りなんで」


「……」


「三ヶ月だったんですけど、ダメで」


「……」


「で、商品、キャンセルしないと、と思って、電話しました」


「はい」


「機械の電話でもよかったんですけど、AIだと、なんかうまく言えなくて」


「はい」


「ごめんなさい、長々と」


「いえ」


田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。


ヘッドセット越しの声が、温かかった。


「キャンセル、責任をもって処理いたします」


「ありがとうございます」


「……また、必要でしたらお電話、いただけますか」


田中がそう言ったとき、女性はしばらく黙っていた。


何も言わなかった。


沈黙の向こうで、女性が何かを考えていた。


それから、


「ありがとう」


と言った。


通話が終わった。


田中は通話を終えた。


ヘッドセットを外した。


耳の後ろが少し痛かった。


でも、その痛みが今日は少しだけ違う感じがした。


痛みは同じはずだった。


同じはずなのに、感じ方が違った。


モニターに次の応答ランプが点滅している。


田中はすぐには取らなかった。


一分ほど、目を閉じていた。


閉じた目の裏に、さっきの女性の声が残っていた。


「なんで、わかるんですか」


その声は、田中の中にしばらく残っていた。


田中は目を開けた。


ヘッドセットをつけた。


応答ランプを押した。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


次の電話を取った。


午後、田中はまた電話を取り続けた。


疲弊はしていた。


でも、昨日のあの底とは、少し違った。


何か一つだけ、田中の中に残っていた。


それが何なのかは、わからない。


でも、ある、と田中にはわかった。


四時前、別の女性からのクレーム。


今度は怒っていた。


商品の傷。


田中はいつも通りに対応した。


交換手配をした。


女性は怒ったまま、電話を切った。


切られたあとで、田中は少し自分の喉を触った。


詰まってはいなかった。


さっきの「お怪我は、されませんでしたか」のときも、詰まっていなかった。


(あれは、呪いじゃなかったな)


思って、田中は少しだけ首を傾げた。


呪いの「はい」と、呪いじゃない「はい」の違いは、少しずつわかるようになっていた。


でも、「お怪我は、されませんでしたか」のほうは、何だろう。


呪いでも、呪いじゃないでもなかった。


別の何かだった。


夕方、退勤前。


隣のブースの鈴木が顔を出した。


「田中くん、さっきのキャンセル、返金、迅速にしてあげてね」


「はい」


「お客さん、大変そうだったって聞いたから」


「……鈴木さん、ご存じだったんですか」


「AIの履歴、見たよ。三回、途中で切られてた」


「はい」


「よく、聞いてあげられたね」


田中は少し黙った。


何と答えるべきかが、わからなかった。


「……なんとなく、聞こえただけです」


鈴木は一瞬、田中の顔を見た。


見た目は、少し柔らかかった。


「そう」


それ以上、訊かなかった。


自分のブースに戻った。


鈴木のブースに戻る背中を、田中は見ていた。


鈴木は三年先輩で、二児の母。


時短勤務で、最近よく早退する。


田中には聞き取れないものを、聞き取れるのかもしれない。


田中が「なんとなく、聞こえた」と言った意味を、鈴木はわかったのかもしれない。


わからなくても、わかったふりをしてくれた。


それで良かった。


田中はヘッドセットを片付けた。


ブースを立った。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前で、一度止まった。


窓の向こうに、あの男がいた。


ノートPCを見ていた。


田中の視線に気づいたのか、男は少しだけ顔を上げた。


目が合った。


男は何も言わなかった。


田中も何も言わなかった。


でも、田中は通り過ぎるときに、一瞬だけ口を動かした。


言葉は声にならなかった。


(ありがとうございます)


と、口の形だけ動いた。


男は気づかなかった。


気づかなかったが、田中はそれで、よかった。


気づかれるために言ったのではなかった。


自分のために言った。


自分のために、声にならない言葉を、口の形で動かした。


それで良かった。


通路を抜けた。


駅まで歩いた。


春の夕方の空気は、少しずつあたたかくなってきていた。


桜はもう、すっかり散っていた。


散った花びらが、アスファルトに残っていた。


踏んでも汚れていない花びらだった。


駅のホームで、電車を待った。


ホームの端の自動販売機を見た。


今日も誰も使っていなかった。


田中は歩み寄って、ペットボトルの水を一本買った。


買って飲んだ。


冷たい。


喉が通った。


詰まらなかった。


電車が来た。


田中は乗った。


吊革につかまって、窓の外を見た。


窓の向こうで、マンションの明かりが、一つ、また一つ、とついていった。


その一つ一つに、誰かが住んでいる。


住んでいる誰かは、今、何をしているんだろう。


考えても、わからない。


家に着いた。


玄関で靴を脱いだ。


リビングに入った。


テーブルのノートは、まだ開いたままだった。


田中はノートの隣に、今日の日付を書いた。


「今日、聞こえた」


と書いた。


書いただけで、何も書き足さなかった。


書き足さずにノートを閉じた。


閉じて、テーブルに置いた。


置いたまま、田中は風呂に入った。


布団に入って、目を閉じた。


耳の奥に、「なんで、わかるんですか」という声が、まだ少しだけ残っていた。


残ったまま、田中は眠った。


眠りは昨日よりも、少しだけ深かった。


深かった気がしただけかもしれない。


気がしただけでも、耳の奥の声は消えなかった。


消えないまま、田中の身体のどこかに残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ