第十話「きこえる」
木曜日。
朝、九時。
田中はブースに座った。
前日の疲れはまだ、肩に乗っていた。
ヘッドセットをつけた。
耳の後ろの跡が、少し痛かった。
痛かったが、もう慣れていた。
慣れていたつもりだった。
朝、二件、クレームを取った。
どちらも淡々と処理した。
一件目、配送の伝票ミス。
二件目、返金手続きの確認。
どちらも十五分以内で終わった。
終わって、田中は少しだけ、身体が軽くなった気がした。
気のせいかもしれない。
十時半、三件目の電話を取った。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
「……ああ、はい」
女性の声だった。
三十代くらい。
落ち着いた声。
でも、息を吐きながら喋っていた。
疲れている人だ、と田中はなんとなく聞いた。
「あの、注文のキャンセル、したいんですけど」
「はい。ご注文番号をお伺いしてもよろしいでしょうか」
女性は番号を読み上げた。
田中はモニターに入力した。
高額の商品だった。
出産準備のベビーカー。
注文は三日前。
まだ発送前だった。
「キャンセル、承りました。返金の手続きを——」
「あの、」
女性が少し、田中の言葉を遮った。
「あの、理由、書かないとだめですか」
「いえ。キャンセル理由は任意です」
「……そうですか」
息を吸う音が聞こえた。
吸った息が震えていた。
怒っている息ではない。
泣きそうな息だった。
田中にはそれが、なんとなく聞こえた。
田中は少し間を置いた。
本当は、そのまま事務的に処理すれば、通話は終わった。
キャンセル処理はシステム上、完了していた。
返金は三営業日以内に振り込まれる。
それ以上、田中がやることはなかった。
でも、田中の口が勝手に動いた。
「お怪我は、されませんでしたか」
言ったあとで、田中は少し驚いた。
この前と同じ言葉だった。
最初の日にクレーマーの女性にかけた、あの言葉。
なぜ今、出たのか、わからなかった。
電話の向こうで、女性が数秒黙った。
田中も黙っていた。
二人の沈黙だった。
ヘッドセットの向こうで、女性が何か言いかけて、やめて、もう一度、息を吸った。
それから、小さな声で、
「……なんで、わかるんですか」
と言った。
田中は答えなかった。
答えられなかった。
なんで、わかったのかも、わからなかった。
ただ、息の調子が違っていた。
怒ってはいなかった。
泣いてもいなかった。
でも、泣く手前だった。
女性は少し笑った。
笑って、息を吐いた。
「大丈夫です。今、病院、帰りなんで」
「……」
「三ヶ月だったんですけど、ダメで」
「……」
「で、商品、キャンセルしないと、と思って、電話しました」
「はい」
「機械の電話でもよかったんですけど、AIだと、なんかうまく言えなくて」
「はい」
「ごめんなさい、長々と」
「いえ」
田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。
ヘッドセット越しの声が、温かかった。
「キャンセル、責任をもって処理いたします」
「ありがとうございます」
「……また、必要でしたらお電話、いただけますか」
田中がそう言ったとき、女性はしばらく黙っていた。
何も言わなかった。
沈黙の向こうで、女性が何かを考えていた。
それから、
「ありがとう」
と言った。
通話が終わった。
田中は通話を終えた。
ヘッドセットを外した。
耳の後ろが少し痛かった。
でも、その痛みが今日は少しだけ違う感じがした。
痛みは同じはずだった。
同じはずなのに、感じ方が違った。
モニターに次の応答ランプが点滅している。
田中はすぐには取らなかった。
一分ほど、目を閉じていた。
閉じた目の裏に、さっきの女性の声が残っていた。
「なんで、わかるんですか」
その声は、田中の中にしばらく残っていた。
田中は目を開けた。
ヘッドセットをつけた。
応答ランプを押した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
次の電話を取った。
午後、田中はまた電話を取り続けた。
疲弊はしていた。
でも、昨日のあの底とは、少し違った。
何か一つだけ、田中の中に残っていた。
それが何なのかは、わからない。
でも、ある、と田中にはわかった。
四時前、別の女性からのクレーム。
今度は怒っていた。
商品の傷。
田中はいつも通りに対応した。
交換手配をした。
女性は怒ったまま、電話を切った。
切られたあとで、田中は少し自分の喉を触った。
詰まってはいなかった。
さっきの「お怪我は、されませんでしたか」のときも、詰まっていなかった。
(あれは、呪いじゃなかったな)
思って、田中は少しだけ首を傾げた。
呪いの「はい」と、呪いじゃない「はい」の違いは、少しずつわかるようになっていた。
でも、「お怪我は、されませんでしたか」のほうは、何だろう。
呪いでも、呪いじゃないでもなかった。
別の何かだった。
夕方、退勤前。
隣のブースの鈴木が顔を出した。
「田中くん、さっきのキャンセル、返金、迅速にしてあげてね」
「はい」
「お客さん、大変そうだったって聞いたから」
「……鈴木さん、ご存じだったんですか」
「AIの履歴、見たよ。三回、途中で切られてた」
「はい」
「よく、聞いてあげられたね」
田中は少し黙った。
何と答えるべきかが、わからなかった。
「……なんとなく、聞こえただけです」
鈴木は一瞬、田中の顔を見た。
見た目は、少し柔らかかった。
「そう」
それ以上、訊かなかった。
自分のブースに戻った。
鈴木のブースに戻る背中を、田中は見ていた。
鈴木は三年先輩で、二児の母。
時短勤務で、最近よく早退する。
田中には聞き取れないものを、聞き取れるのかもしれない。
田中が「なんとなく、聞こえた」と言った意味を、鈴木はわかったのかもしれない。
わからなくても、わかったふりをしてくれた。
それで良かった。
田中はヘッドセットを片付けた。
ブースを立った。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前で、一度止まった。
窓の向こうに、あの男がいた。
ノートPCを見ていた。
田中の視線に気づいたのか、男は少しだけ顔を上げた。
目が合った。
男は何も言わなかった。
田中も何も言わなかった。
でも、田中は通り過ぎるときに、一瞬だけ口を動かした。
言葉は声にならなかった。
(ありがとうございます)
と、口の形だけ動いた。
男は気づかなかった。
気づかなかったが、田中はそれで、よかった。
気づかれるために言ったのではなかった。
自分のために言った。
自分のために、声にならない言葉を、口の形で動かした。
それで良かった。
通路を抜けた。
駅まで歩いた。
春の夕方の空気は、少しずつあたたかくなってきていた。
桜はもう、すっかり散っていた。
散った花びらが、アスファルトに残っていた。
踏んでも汚れていない花びらだった。
駅のホームで、電車を待った。
ホームの端の自動販売機を見た。
今日も誰も使っていなかった。
田中は歩み寄って、ペットボトルの水を一本買った。
買って飲んだ。
冷たい。
喉が通った。
詰まらなかった。
電車が来た。
田中は乗った。
吊革につかまって、窓の外を見た。
窓の向こうで、マンションの明かりが、一つ、また一つ、とついていった。
その一つ一つに、誰かが住んでいる。
住んでいる誰かは、今、何をしているんだろう。
考えても、わからない。
家に着いた。
玄関で靴を脱いだ。
リビングに入った。
テーブルのノートは、まだ開いたままだった。
田中はノートの隣に、今日の日付を書いた。
「今日、聞こえた」
と書いた。
書いただけで、何も書き足さなかった。
書き足さずにノートを閉じた。
閉じて、テーブルに置いた。
置いたまま、田中は風呂に入った。
布団に入って、目を閉じた。
耳の奥に、「なんで、わかるんですか」という声が、まだ少しだけ残っていた。
残ったまま、田中は眠った。
眠りは昨日よりも、少しだけ深かった。
深かった気がしただけかもしれない。
気がしただけでも、耳の奥の声は消えなかった。
消えないまま、田中の身体のどこかに残った。




