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第十一話「マニュアル」

金曜日の朝、田中はメモをカバンから出して、カバーの内側に挟み直した。


昨日の夜、書いた一行。


「書き換えたい、と思ってるのは、僕」


誰にも見られないように挟んだ。


見られて困るわけではない。


でも、誰かに見られる前に、田中自身がもう一度、読む必要があった。


朝、八時五十分。


田中は自分のブースで、ノートを開いていた。


昨日の夜、書いた「今日、聞こえた」という一行。


一晩経って見ると、少し違う感じに見えた。


文字は同じなのに、意味が少しだけ違って見えた。


田中は別のページを開いた。


この三週間の業務ログを、思い出しながら書いていった。


商品Xのバッテリー件。


朝、一件。昼、一件。夕方、一件。


毎日、似たような配分で来ていた。


田中は朝から、同じ商品Xのバッテリーの問い合わせを、二件取った。


相変わらず、内容は同じだった。


充電がもたない。


田中はマニュアル通りに答えた。


充電器の角度。バッテリーの温度。湿度。


それから、マニュアルに書いていない「ケーブル抜き差し」を案内した。


どちらの顧客も、「ケーブル抜き差し」で解決した。


答えながら、ぼんやり思った。


(これ、マニュアル書き換えたら、終わるんじゃないかな)


思って、手が止まった。


キーボードのEnterキーの上で、指が浮いていた。


田中はモニターを見ていた。


マニュアルにはこう書いてあった。


「充電器の角度、バッテリーの温度、湿度を確認してください」


でも、どの問い合わせでも、それでは解決していなかった。


解決しなかったから、田中に電話が回ってきていた。


田中はそのつど、別の方法を説明していた。


「充電ケーブルを、一度抜いて差し直してください」


それでほぼ解決した。


この方法はマニュアルに書いていなかった。


田中が何回か試しているうちに、たまたまうまくいった方法だった。


田中は自分のメモを開いた。


この三週間で、自分が答えてきた内容が並んでいた。


「ケーブル抜き差し」で解決した件数。


十八件。


失敗したのは、一件だけ。


その一件はバッテリー本体の劣化が原因だった。


マニュアル通りの方法で解決したのは、二件だけ。


二十件中、二件。


成功率、十パーセント。


田中はメモをじっと見ていた。


数字を見ていた。


十八件のケーブル抜き差しの脇に、電話の長さも書いてあった。


全部、十五分以内で終わっていた。


一方、マニュアル通りの二十件は、平均四十分ほどだった。


顧客が納得しなかったから。


結局、最後は返品、交換の手続きになっていた。


田中は自分のメモの最後の行を見た。


「マニュアル書き換えれば、通話時間、四分の一になるかも」


書いたのは昨日の夜。


風呂から出たあと。


今朝、見返すまで、書いたことを忘れていた。


昼休み。


田中は自販機の前で、カフェオレを受け取った。


振り返ると、あの男がいた。


缶コーヒーのボタンを押していた。


「君さ」


男が先に言った。


「はい」


田中は答えた。


「なんか、いいこと、あった?」


田中は少し驚いた。


「え?」


「顔が少し違うから」


男は缶を受け取った。


田中は自分の顔に手を当てた。


わからなかった。


自分の顔を鏡で見なかったから。


朝、歯を磨いたときに、鏡は見たはずだった。


でも、自分の顔の違いには気づかなかった。


男は缶を口に運んだ。


一口飲んだ。


「なに、あったの」


田中は少しだけ黙った。


言ってもいいのか、わからなかった。


言って、何になるのかも、わからなかった。


でも、口がまた勝手に動いた。


「あの」


「なに」


「マニュアル、書き換えたら、たぶんバッテリーの問い合わせ、三分の一になるんですけど」


男は缶を軽く振った。


「ふーん」


「……」


「それ、誰に言うの?」


田中は少し考えた。


「……わかりません」


男は少し笑った。


笑ったというか、息を短く吐いた。


「まあ、気になっただけ」


「……はい」


男は缶を持ったまま、去ろうとした。


去り際に少しだけ振り返って、


「書き換えたい、って思う人に言うといいよ」


とだけ言った。


そのまま通路を歩いて、消えた。


田中は立ったまま、缶を持っていた。


(書き換えたい、って思う人)


鈴木だろうか。


先輩だろうか。


部長だろうか。


でも、部長は田中の顔をほとんど知らない。


田中の顔もたぶん、覚えていない。


覚えていない人にマニュアルの話をしても、聞いてもらえない気がした。


ブースに戻った。


午後の電話を取った。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


また、同じバッテリーの問い合わせだった。


三件目。


田中はマニュアル通りに答えた。


答えたあと、キャンセルではなく、「ケーブル抜き差し」も試すように言った。


解決した。


田中はメモにまた一行加えた。


午後、三時半。


田中はブースでじっと考えていた。


「書き換えたい、って思う人」


誰だろう。


ふと思った。


(書き換えたい、って思ってるのは、僕か)


一瞬そう思った。


思って、田中は息を短く吸った。


吸って吐いた。


(僕が、書き換えたいと思ってる)


(思ってるから、考えてる)


(考えてるから、メモを書いた)


(メモを書いたから、今日、顔が違うのかもしれない)


一人で考えていた。


一人で考えているうちに、少しずつ納得していった。


納得したあとで、田中はモニターを見た。


応答ランプが点滅していた。


田中は通話に応答した。


取ってしまったら、この考えはまた、どこかに消えるかもしれない。


でも、取らないわけにもいかなかった。


取った。


電話を処理した。


処理しながら、頭の隅で「書き換えたい」という言葉は残っていた。


夕方、退勤。


フロアの奥。


田中は先輩のブースの前で、一度立ち止まった。


先輩は電話中だった。


田中は先輩が電話を切るのを待った。


待ったが、先輩は長電話だった。


十分待った。


待ったあとで、先輩はやっと電話を切った。


田中は声をかけようとした。


かけようとした口が、少し動いた。


動いて止まった。


喉が詰まった。


息を吸って吐いた。


もう一度、口を開こうとした。


開かなかった。


先輩は次の電話を取った。


田中はそのまま立ち去った。


ブースを立ち去って、通路を歩いた。


(まあ、月曜日でもいいか)


そう思ってから、


(月曜日って、なんで思ったんだろう)


と少し思った。


「月曜日でもいいか」は、今日、諦めるための言い訳かもしれない。


言い訳でもいい。


月曜日には、もう一度声をかけてみよう。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通った。


会議室にあの男はいなかった。


デスクの上に、ノートPCが閉じた状態で置いてあった。


缶コーヒーの空き缶も置いてあった。


田中は一瞬、そこを見た。


見てから通り過ぎた。


駅までの道。


春の夕方の空気は、柔らかかった。


風が少しだけ、肌に当たった。


家に着いた。


缶ビールを買ってきていた。


今日は帰り道に、コンビニに寄って買った。


昨日は買わなかった。


今日はなぜか、買いたくなった。


テーブルに置いた。


開けた。


一口飲んだ。


苦い。


でも、今日は苦さが少し違う感じに思えた。


昨日までの苦さと似ていたが、違っていた。


ノートを開いた。


「今日、聞こえた」の下に、


「書き換えたい、と思ってるのは、僕」


と書き足した。


書き足しただけで、何もしなかった。


何もしなかったのに、少しだけ頭が軽くなった気がした。


気がしただけかもしれない。


片付けながら、ふと思った。


(今日、「はい」を何回、言ったかな)


数えたことはなかった。


数えても、わからない。


でも、今日は少しだけ少なかった気がした。


数えても、もうわからない。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに、少しだけ時間がかかった。


頭の中で「書き換えたい」という言葉が、ときどき浮かんだ。


浮かぶたびに、田中は少し息が楽になった気がした。


楽になった、ということだけが、今夜の事実だった。


その事実のまま、田中は眠った。


書き換えたい、と思っている、ということが、今、田中の中で一番はっきりしていた。


はっきりしている、という感覚は、田中には久しぶりだった。


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