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第十二話「つまらなかった」

月曜日、朝、九時。


田中は鈴木のブースの前に立っていた。


手に、昨夜作ったメモを持っていた。


バッテリーの問い合わせの件数と、「ケーブル抜き差し」の成功率。


一枚の紙にまとめてあった。


鈴木はモニターを見ていた。


指はキーボードの上で、軽く動いていた。


まだ、朝一番の電話は来ていなかった。


「鈴木さん、あの」


「ん?」


鈴木はモニターを見たまま答えた。


「これ、見てもらえますか」


鈴木は顔を上げた。


田中の手の紙を見た。


「なに?」


「マニュアル、書き換えると、問い合わせ減るかもです」


鈴木は紙を受け取って、一瞥した。


紙を読む目の動きがゆっくりだった。


読みながら少し、眉をひそめた。


ひそめたというほどではない。


ほんの少しだけだった。


「ふーん」


男と同じ反応だった。


「でも、これ、マニュアル管理は別の部署だよ」


「はい」


「うちから直接、変えられないよ」


「……そうなんですね」


「まあ、部長に上げるくらいかな」


鈴木は紙を田中に返した。


「部長、忙しいから、時間選んでね」


「はい」


田中はメモを持ったまま、自分のブースに戻った。


戻りながら、田中は少しだけ落ち込んだ。


落ち込んだというほどではない。


ほんの少しだけ、肩が下がった感じだった。


鈴木は「書き換えたい」と思っていなかった。


鈴木にとっては、マニュアル通りに処理することが仕事だった。


マニュアルを変えることは、仕事ではなかった。


でも、田中は紙を破らなかった。


引き出しにしまった。


しまって、ヘッドセットをつけた。


応答ランプが点滅していた。


午前中、クレームがまた連続した。


強い怒り、臨機応変、複雑案件。


田中はそのつど答えた。


断らなかった。


断ろうとも思わなかった。


メモのことが頭の隅にあった。


隅にあったまま、電話を取った。


昼休み前、十一時半。


先輩がまた、田中のブースに顔を出した。


「田中くん、今のクレーム、代わってくれない?」


「……」


田中の口が動きかけた。


「はい」が出そうになった。


でも、田中の舌が少しだけ止まった。


止まった瞬間、田中は自分の身体の中で、何かが動くのを感じた。


息を吸った。


吐いた。


「あの」


「ん?」


「今、手が離せません」


言ったあとで、田中は自分の喉を感じた。


詰まっていなかった。


息が通っていた。


通った息で、田中はもう一度、小さく息を吸った。


吸った息が詰まらずに、肺に入った。


先輩は一瞬、目を丸くした。


丸くした目がしばらく、田中の顔を見ていた。


田中は先輩の目を、少しだけ見返した。


それから、


「そっか。じゃ、ほかの人に頼むわ」


と、あっさり言って去った。


あっさりだった。


田中はあっさりさに、少し驚いた。


(こんなに、あっさりだったのか)


(つまらない、と言ってもいいくらい)


(呪い、というほどのものでもなかったかもしれない)


思って、田中は身体の中でまた、何かが動くのを感じた。


田中はブースで動かないまま、少しの間、天井を見ていた。


蛍光灯のカバーの虫の死骸は、今日もそこにあった。


でも、田中は見ていた。


気づかないふりをしなかった。


見ていて、田中は少し思った。


(これ、いつからあったんだろう)


(あと、何日あるんだろう)


答えは出なかった。


でも、出さなくてもよかった。


見ていることができれば、それでよかった。


昼休み。


田中は自販機の前に立っていた。


いつものカフェオレ。


缶を受け取って振り返った。


あの男がいた。


いつものパーカー、ジーンズ、ノートPC、スマホ。


目が合った。


「君さ」


「はい」


「今の」


男は缶コーヒーのボタンを押した。


「さっきの、『今、手が離せません』」


「……」


「勝手に言った?」


田中は少し黙った。


男は缶を受け取った。


田中は自分の缶を持ち直した。


冷たい。


指が少し濡れた。


「……いえ」


田中は言った。


「勝手じゃなかったです」


男は缶を軽く振った。


「へえ」


「喉が」


田中は続けた。


「詰まりませんでした」


男は缶を口に運んだ。


一口飲んだ。


飲み終わったあとも、缶を口元からすぐには離さなかった。


少しだけ考えているような顔だった。


考えているかどうかは、わからなかった。


顔はほとんど動かなかったから。


それから、男は缶を離した。


「ふーん」


と言った。


それ以上、言わなかった。


スマホにまた目を落とした。


何かメモを打った。


打ち終わって、男はポケットにスマホを戻した。


缶を持ち直して、


「まあ、気になっただけ」


そう言い残して、男は缶を持ったまま去っていった。


田中は自販機の前に、少しの間立っていた。


缶を持ったまま、自分の喉に手を当てた。


詰まっていなかった。


息が通っている。


指の下で、喉仏が軽く動いた。


喉仏が動くということは、唾を飲み込んでいる、ということだった。


飲み込めている。


詰まっていない。


(呪い、解けたのかな)


一瞬そう思った。


それから、


(いや、たぶん、そんな簡単にはないだろうな)


と思い直した。


今日は一回、断れた。


昨日は断れなかった。


明日も断れるとは、限らない。


呪いはまだ、あるはずだった。


でも、少しだけゆるんだ気がした。


ゆるんだだけで、消えたわけではない。


消えなくてもいいから、ゆるんだだけで、田中には十分だった。


ブースに戻る途中、監査部のプレートの前で、田中は一度立ち止まった。


窓の向こうに、あの男がいた。


ノートPCを開いている。


画面を見ながら、何かメモを打っている。


田中は少しだけ、その様子を見た。


男はときどき顔を上げた。


田中のほうを見た。


目が合った。


短く合って、すぐに外れた。


田中は通路を抜けた。


午後、田中はまた電話を取った。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


怒っている人だった。


息を吸いながら喋っていた。


田中はヘッドセットを押さえ直した。


対応はいつも通りだった。


でも、ヘッドセットを押さえる手が、今日は少しだけ軽かった気がした。


気がしただけだった。


通話は三十分で終わった。


終わったあと、田中はクレーム履歴を見た。


「解決済み」と表示されていた。


未解決にならなかった。


珍しいことではない。


いつものことだった。


いつものことなのに、今日は少しだけ嬉しかった。


嬉しかった、というより、ほっとした、という感じだった。


今日、十三回目。


でも、今日は少しだけ少なかった気がした。


気がしただけかもしれない。


でも、気がしただけでも、田中には十分だった。


夕方、退勤。


通路を歩いた。


会議室はもう、空いていた。


あの男はいなかった。


ノートPCの閉じられたケースだけが、デスクの上に置いてあった。


田中はそれを、一瞬だけ見た。


ケースの横には、小さな付箋が一枚貼ってあった。


遠目には、何が書いてあるか見えなかった。


田中は近づかなかった。


近づいて読むのは違う気がした。


違う気がしただけだった。


駅までの道を歩いた。


空は春の夕方の色をしていた。


薄い青。


薄いピンク。


薄いオレンジ。


すべてが薄かった。


薄いまま、日が落ちていった。


田中はぼんやり歩きながら、思った。


(書き換えたい、って思う人)


(書き換えたい、って思ってるのは、僕か)


考えかけて、田中はやめた。


やめたが、完全にはやめなかった。


やめないまま、駅のホームに着いた。


ホームの端の自動販売機の前で、一度立ち止まった。


今日は水を買った。


ペットボトルの水。


蓋を開けて一口飲んだ。


冷たい。


喉を通った。


詰まらなかった。


電車が来た。


田中は乗った。


「呪い」という言葉が、頭の中でときどき浮かんだ。


浮かぶたびに、田中は自分の喉を確かめた。


詰まっていなかった。


電車の窓の外で、街が少しずつ、暗くなっていった。


家の明かりが一つずつ、ついていった。


その一つ一つに、誰かが住んでいる。


住んでいる誰かは、今、何をしているんだろう。


考えてもわからない。


わからないが、今日はそれを考えるのが、少しだけ楽しかった。


楽しかったというほどではない。


でも、嫌ではなかった。


家に着いた。


ノートを開いた。


「書き換えたい、と思ってるのは、僕」の下に、


「今日、一回、断れた」


と書いた。


書いて、少しの間、文字を見ていた。


文字は昨日の「聞こえた」と並んでいた。


並ぶと、少しだけ意味が増えた気がした。


気がしただけかもしれない。


詰まっていない喉で、田中は家まで帰った。


帰ったあとの夜は、少しだけ静かだった。


静かでいい夜だった。


布団に入った。


目を閉じた。


眠りに落ちるまでに、田中は一つだけ考えた。


(あの人、今、どこにいるんだろう)


考えて、答えは出さなかった。


出さないまま、眠った。


眠る少し前に、もう一度、自分の喉に手を当てた。


詰まっていなかった。


明日も、詰まらないとは限らない。


でも、今夜だけは、詰まっていないことが確かだった。


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