第十三話「やる必要、ある?」
週が変わった。
田中は月曜日の朝、いつもより少しだけ早く、フロアに着いた。
カバンの内側にメモを挟み直した日から、ちょうど一週間が経っていた。
この一週間、田中はときどきメモを見直していた。
見直しても、内容は変わっていなかった。
書き換えた方がいい、と思っていた。
でも、誰にどう伝えるか、わからなかった。
考えてもわからないまま、一週間、電話を取り続けていた。
電車の中で、田中はノートを一度開いた。
先週の金曜日の夜、書いた一行を見た。
「書き換えたい、と思ってるのは、僕」
その下に空白がある。
空白を見ながら、田中は考えた。
(書き換えたいと思っているから、動く)
(動く先は、どこだろう)
考えかけて、田中はノートを閉じた。
電車のアナウンスが、駅名を読み上げていた。
降りる駅だった。
八時四十分。
田中は部長のデスクの方向を見た。
部長はいなかった。
朝から会議らしかった。
デスクのモニターだけがぽつんと、起動していた。
デスクには紙の書類が、山積みになっていた。
付箋がたくさん、貼ってあった。
田中は自分のブースに戻った。
午前中、電話を取り続けた。
バッテリーの件は、今週も三件来た。
田中は同じ説明をした。
マニュアル通りに。
それから、ケーブル抜き差しを案内した。
どちらの方法を先に案内するかは、もう迷わなかった。
ケーブル抜き差しから始めたほうが、早く終わると田中は知っていた。
でも、マニュアル通りの順番で案内しなければならなかった。
マニュアル外のケーブル抜き差しを先に案内すると、監査の記録で指摘される可能性があった。
田中は最近、そのことを少し意識するようになっていた。
二件目の電話は、返品対応だった。
顧客は若い女性だった。
話しながら、ときどき、子どもの泣き声が混じった。
子どもをあやしながら、電話をしていた。
「すみません、ちょっと、うちの子が」
「いえ、大丈夫です」
田中は答えた。
答えながら、この「大丈夫です」は呪いではないな、と思った。
本当に大丈夫、だと思ったから言った。
通話が終わった。
モニターのログに、「平均対応時間、十二分」と表示されていた。
早く終わるほうだった。
田中の対応は、最近、少しずつ早くなっていた。
一件あたり三分か五分、短くなっていた。
自覚はなかったが、ログには残っていた。
十一時五十分。
田中は部長のデスクに、もう一度行った。
部長はまだ戻っていなかった。
会議は昼まで続いているらしい。
田中はメモをカバンの内側から出した。
「マニュアル書き換えると、問い合わせ減るかもです」
書いてある一行の意味は、読み返すともっと広い意味があるように思えた。
書き換えるのはマニュアルだけじゃない。
もしかしたら、自分の「はい」の出方も、書き換えられるのかもしれない。
思って、田中は自分の考えの先走りに少し驚いた。
驚いたが、悪い驚きではなかった。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
あの男がいた。
缶コーヒーのボタンを押していた。
よれたパーカー。ジーンズ。片手にノートPC。片手にスマホ。
いつもと同じ格好だった。
「君さ」
「はい」
田中は答えた。
いつもの「はい」だった。
呪いではなかった。
でも、呪いじゃないとも言い切れなかった。
呪いの「はい」と、呪いじゃない「はい」の境界は、まだはっきりしていなかった。
田中は少し間を置いて、
「あの」
「ん?」
「マニュアルの件、部長に見せようと思ってます」
「ふーん」
男は缶を受け取った。
缶を軽く振った。
缶の中の液体が、小さく揺れる音がした。
「やる必要、ある?」
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田中は一瞬、何を言われたかわからなかった。
「え?」
「書き換えることじゃなくて、部長に見せることが」
男は缶を口に運んだ。
一口飲んだ。
「部長って、君のこと、知ってる?」
田中は少し黙った。
「……たぶん、知らないです」
「じゃ、見せてもしょうがないよね」
「……」
「知らない人に書類見せても、読まれないから」
男はそれ以上、言わなかった。
スマホにまた目を落とした。
何かメモを打った。
「まあ、気になっただけ」
そう言い残して、男は缶を持ったまま去っていった。
通路の監査部のほうへ。
田中は立ったまま、缶を持っていた。
冷たい。
指が濡れた。
濡れた指を、田中は自分の膝の上で軽く拭いた。
(やる必要、ある?)
田中の頭の中で、その言葉が小さく回った。
「部長に見せる」という行動は、田中がいちばん最初に考えた道だった。
でも、それは「やる必要ある」行動だったのか?
ブースに戻った。
モニターの応答ランプが点滅している。
田中は通話に応答した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
また、バッテリーの件だった。
四件目。
田中は同じ説明をした。
でも、説明しながら、頭の隅で「やる必要、ある?」という言葉が回り続けた。
通話が終わった。
田中は自分のメモをもう一度見た。
「マニュアル書き換えると、問い合わせ減るかもです」
メモの下の空白に、田中は鉛筆で書き足した。
「部長に見せる = やる必要、ある?」
書き足して、少し見ていた。
それから、鉛筆で線を引いた。
「部長に見せる」を消した。
消したあとで、空白がまた増えた。
田中はその空白をしばらく見ていた。
午後、田中は電話を取りながら、考えていた。
部長に見せないなら、誰に見せるか。
鈴木は「部長に上げるくらい」と言っていた。
でも、部長は田中のことを知らない。
知らない人に見せても、読まれない。
じゃあ、知っている人に見せる?
田中のことを知っている人は、フロアにいる。
鈴木。
中村(来月、異動)。
先輩。
他のオペレーター。
田中は一人ずつ思い浮かべた。
浮かべながら、電話を処理した。
ふと、別の考えが浮かんだ。
(そもそも、書類にするのが正解なのか)
マニュアルという言葉は、紙の書類を連想させる。
でも、マニュアルは本当は、システムに入っていた。
AIが参照しているデータベース。
それが本体だった。
紙の書類はそのコピーに過ぎなかった。
(データベースを書き換えるのは、誰か)
田中は知らなかった。
知らないが、たぶん、IT部門か業務管理部門の誰かだった。
部長ではない。
電話を取りながら、田中はもう一度、頭の中で、
「やる必要、ある?」
を繰り返した。
繰り返すと、その言葉は少しずつ、意味を変えていった。
「やる必要、ない」ことをやらないために、
「やる必要、ある」ことを見つけなければならなかった。
五時。
夕方の退勤前。
田中はふと、監査部のプレートの方向を見た。
会議室に、あの男がいた。
ノートPCを開いて、何か書いていた。
男は忙しそうに見えた。
いや、忙しそうにしていただけかもしれない。
田中にはわからなかった。
田中は通路を歩いて、通り過ぎた。
通り過ぎるとき、男は顔を上げなかった。
気づいたのか、気づかなかったのか、わからなかった。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
昨日の夜、書いた一行。
「書き換えたい、と思ってるのは、僕」
その下に、今日、田中はもう一行書いた。
「部長に見せる必要、ある?」
書いて、ノートを閉じた。
閉じたあとも、頭の中に「やる必要、ある?」という言葉が残った。
残ったまま、電車が来た。
田中は乗った。
電車の中で、田中は考えた。
自分が今まで「やってきた」ことの中に、「やる必要、ない」ことはいくつあったんだろう。
数えてもわからない。
でも、「はい」と答えてきた回数よりは、少ないはずだった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールは買ってこなかった。
今日は買わなかった。
飲みたいと思わなかった。
思わないということは、少し前まではあまりなかった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は小さく口を動かした。
「やる必要、ある?」
声にはならなかった。
ならなかったが、形だけは動いた。
動いた口は詰まらなかった。
詰まらないまま、田中は眠った。
眠りは少しだけ深かった。
深かった気がしただけかもしれない。
気がしただけでも、田中の明日は、少しだけ違うかもしれない。
違うかもしれない、と思えることが、今日の田中のいちばんの収穫だった。
収穫、という言葉を田中は使わなかった。
使わなかったが、何かを得た感覚はあった。
あったまま、田中は眠り続けた。




