第十四話「誰に」
火曜日の朝。
田中はいつもの時間に、フロアに着いた。
月曜日の夜、田中はノートに、「部長に見せる必要、ある?」と書いていた。
書いたあとで寝た。
朝、起きてもう一度読んだ。
読んで、田中は思った。
(じゃあ、誰に見せる?)
答えは出なかった。
出なかったが、考え続けたまま、電車に乗った。
朝一番の電話を取った。
臨機応変案件だった。
返品受付時期を過ぎた商品の、特例対応。
マニュアル上は「返品不可」。
でも、顧客の事情を聞くと、出産の直後で、箱を開ける時間もなかったと言う。
田中は少し考えて、特例で受け付けた。
顧客は何度もお礼を言った。
田中は少しだけ頷きながら聞いていた。
九時半。
電話が途切れた。
田中は中村のブースの方向を見た。
中村はモニターを見ながら、キーボードを打っていた。
田中は立ち上がった。
ブースを出て、中村の方向に歩いた。
歩きながら、田中は少しだけ喉が詰まった。
詰まったが、足は止まらなかった。
「中村さん」
「おう、田中、どうした」
中村はキーボードを打つ手を止めた。
田中は少し息を吸った。
「あの、ちょっと相談したくて」
「ん、なに」
田中はノートからメモを出した。
「これ」
中村はメモを受け取った。
読んでいる目の動きがゆっくりだった。
「バッテリーのマニュアル?」
「はい」
「書き換えると、問い合わせ減る、って?」
「はい」
「で、どうしたい?」
田中は少し考えた。
「……誰かに見せたいんですけど」
「誰に」
「それが、わからなくて」
中村は少し笑った。
「田中、そうだろうな」
「え?」
「お前、普段、誰と話してる?」
「……」
田中は答えられなかった。
「あんまり話してないだろ」
「はい」
中村は缶コーヒーを一口飲んだ。
それから、少し考えるような顔をした。
「営業なら、話せる部長、いるかもな」
「営業?」
「うん」
「これ、営業の話じゃないですよね」
中村は少し肩をすくめた。
「でも、誰かに話さなきゃ、動かないだろ」
「……」
「営業部長なら、俺、来月から配属、だから」
「はい」
「話してみて、やってもいいよ」
田中は少し黙った。
営業部長に見せる、というのは、田中には想像できなかった。
「……中村さんにお願いするのは、違う気がします」
「なんで」
「このメモ、僕の問題、なので」
中村は少し驚いた顔をした。
「へえ」
「だから、自分で誰かに見せたいです」
「そっか」
中村は缶を置いた。
「じゃあ、誰ならいい?」
「……まだ、わかりません」
「わかんないのか」
「はい」
中村は少し笑った。
「田中、お前、変わったな」
「え?」
「前は、『はい』って全部、頷いてたから」
「……はい」
田中は頷いた。
頷いたあとで、自分がまた「はい」と言ったのに気づいた。
気づいたが、呪いではなかった。
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「ま、俺はいつでも聞くから」
中村はそう言って、モニターに視線を戻した。
田中はメモを受け取って、自分のブースに戻った。
戻りながら、田中は考えた。
(誰ならいい?)
まだ、わからない。
でも、中村に話したというだけで、少しだけ胸のあたりが軽くなった気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、気がしただけでも、田中には意味があった。
午前中、臨機応変案件を三件取った。
どれもマニュアル外。
田中はそのつど、判断をした。
判断は早くなっていた。
答え方も自然になっていた。
顧客はみんな納得して、電話を切った。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
男はいなかった。
今日はフロアに見かけなかった。
会議室も空いていた。
田中は少しぼんやりした。
(月曜日、見せようと思ってた、という話、昨日したな)
(今日、どう思ってる?)
聞ける人はいなかった。
聞けなくても、田中は自分で答えた。
(今日は、違う道を考えてる)
答えはノートには書かなかった。
頭の中でだけ、置いておいた。
午後、田中はまた電話を取り続けた。
怒鳴る客、泣く客、無言の客。
どれにも田中は対応した。
対応しながら、田中はふと思った。
(見せる先が決まってないのに、書類の質だけ上げても、意味ないかも)
その考えは少し衝撃だった。
田中は今まで、「書類を完璧にする」ことに、時間をかけていた。
でも、見せる先が決まらなければ、その時間はほぼ無駄だった。
見せる先に合わせて、書類の形は変わる。
知らない人に見せる書類と、知っている人に見せる書類は違う。
(書類から考えてた。順番が逆だったかも)
田中は電話を取りながら、頭の中でそう整理した。
整理したあとで、少しだけ笑った。
笑ったというか、口の端がまた一ミリだけ動いた。
五時。
田中はブースで帰り支度をしていた。
隣のブースの鈴木が顔を出した。
「田中くん、なんか、最近、調子いい?」
「……え?」
「モニターのログ、見てたら、対応時間、短くなってるよ」
田中は少し驚いた。
「そうなんですか」
「知らなかったの?」
「はい」
鈴木は少し笑った。
「まあ、慣れたんだろうね」
「……たぶん」
鈴木はそれ以上、言わなかった。
自分のブースに戻った。
田中は立ち上がりながら、鈴木の言葉を反芻した。
(対応時間、短くなってる)
自覚はなかった。
でも、ログに残っているなら事実だった。
なんで、短くなったんだろう。
考えてもわからない。
でも、考えた方がいい気がした。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室にあの男がいた。
ノートPCを見ていた。
田中が通りかかるとき、男は一瞬顔を上げた。
目が合った。
男は何も言わなかった。
田中も何も言わなかった。
でも、田中は通り過ぎるときに、一瞬だけ口を動かした。
「誰に見せればいいですか」
声にはならなかった。
男は気づかなかった。
気づかれないまま、田中は通路を抜けた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「部長に見せる必要、ある?」の下に、
「見せる先が決まらないと、書類の形も決まらない」
と書いた。
書いて、少しの間、見ていた。
書いた言葉は、田中の頭の中ですんなり収まった。
自分で書いたのに、少し驚いた。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
窓の外の景色が流れた。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールは今日も買ってこなかった。
飲みたいと思わなかったから。
思わないこと自体が続いていた。
続いていることに、田中は少し気づいた。
気づいただけで、何もしなかった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は中村の「田中、お前、変わったな」という言葉を思い出した。
変わったのは、「はい」を全部頷いていたのが、少し減ったことらしい。
田中は自分では気づいていなかった。
気づかないうちに変わっていることは、たぶん他にもある。
他にもあるかもしれない。
あるかもしれない、と思えたことが、田中の今日の収穫だった。
眠りに落ちながら、田中は一つだけ考えた。
(見せる先は、誰なんだろう)
考えて、答えは出なかった。
出ないまま、眠った。
眠りは少しだけ深かった。
深かった気はしなかったが、明日は昨日よりも、少しだけ早く来るかもしれない。
眠る前に、田中はもう一度、今日、中村に話した瞬間を思い出した。
喉が詰まりかけて、止まらなかった。
止まらなかったのは、田中が「誰に」という問いを自分で開いたからだった。
閉じたままにしなかったから、話せた。
話せた、という事実だけは確かだった。
確かなことが一つ増えた日だった。




