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第十五話「知らない人」

水曜日。


朝、田中は電車の中で一つだけ決めていた。


(今日、誰か、知らない人に会釈してみよう)


決めてから、すぐに喉が少し詰まった。


詰まったが、決めたこと自体は消えなかった。


フロアに着いた。


ヘッドセットをつけて、応答ランプを待った。


朝一番の電話は十分で終わった。


二件目の電話が来た。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


「あの、今日の午前中、どうしても届かないとダメなんです」


女性の声だった。


落ち着いていた。


でも、急いでいた。


息を吐きながら、早口で喋っていた。


「病院で使うもので、父の退院の日が、今日なんです」


田中はすぐに履歴を確認した。


配送番号を入力した。


現在地が表示された。


隣県の集荷センターにある。


通常配送なら、夕方到着。


田中はモニターの別のタブで、配送業者の専用ポータルを開いた。


「お客様、お名前とご住所を、もう一度ご確認いただいてもいいですか」


女性は読み上げた。


田中は入力した。


「少々お待ちください」


田中は配送業者に内線をかけた。


「配送番号〇〇〇、午前中の緊急配送、可能ですか」


「通常配送でご依頼いただいていますね。差額、発生しますが」


「差額は弊社で負担します」


田中は即答した。


答えたあとで、自分の口の動きに少し驚いた。


いつもの「はい」と違う答え方だった。


内線を切って、顧客に戻った。


「お客様、十一時半までに届くように、手配いたしました」


「ほんとですか」


女性の声が少しだけ崩れた。


泣きそうな声だった。


「はい」


「……ありがとうございます」


「お気をつけてお過ごしください」


通話はそこで終わった。


田中は通話を終えた。


ヘッドセットを外した。


耳の後ろが少し痛い。


でも、今日のその痛みは、少し違う感じがした。


田中はモニターの入力画面を見た。


「弊社負担」と書いた履歴が残っていた。


この判断は田中の権限内だった。


マニュアルには書いていないが、臨機応変の判断は許されていた。


許されていたのに、田中は今まで、あまり使わなかった。


使わなかったのは、「判断」が怖かったからかもしれない。


怖い、という言葉を田中は今日、使ってみた。


使ってみると、少しだけ楽になった気がした。


午前中、田中は他にも三件の緊急案件を取った。


どれも判断が速くなっていた。


速くなっていたのに、田中は気づいていなかった。


気づくほど余裕がなかったから。


でも、モニターのログには、「対応時間、七分」「八分」「九分」と表示されていた。


どれも短かった。


昼休み。


田中は自販機の前に立った。


いつものカフェオレ。


缶を受け取って振り返った。


あの男がいた。


缶コーヒーのボタンを押していた。


「君さ」


「はい」


田中は答えた。


「なんか、最近、忙しそうだね」


「……たぶん」


男は缶を受け取った。


缶を軽く振った。


「忙しいのと、時間がないのは、別だからね」


田中は少し黙った。


「……え?」


「忙しそうにしてても、やる必要あることに時間使ってなかったら、時間無いのと同じ」


田中は男の顔を見た。


男は缶に目を落としていた。


田中と目を合わせる気は、ないようだった。


「まあ、気になっただけ」


男は缶を持ったまま去っていった。


田中は自販機の前に、少しの間立っていた。


缶が冷たい。


指が濡れた。


(やる必要あることに、時間使ってるか)


田中は自分に問うた。


答えはすぐには出なかった。


ブースに戻る途中、田中は通路で一人の社員とすれ違った。


背広の男性。


五十代くらい。


顔は見たことがない。


社員証は首から提げている。


「業務管理部」と書いてあった。


田中はすれ違うとき、少しだけ顔を上げた。


会釈をしようとした。


口は動きかけた。


でも、頭が軽く下がっただけだった。


声は出なかった。


男性は田中に気づいた気配もなく、通り過ぎた。


田中はブースに戻った。


座ってモニターを見た。


(今の会釈、できてた?)


自分でも、よくわからなかった。


見られてなかったから、意味なかった、とも思った。


思ったが、自分の頭は動いた。


動いた事実だけは残った。


午後、田中はまた電話を取り続けた。


午後三時過ぎ。


ふと田中は思った。


(さっき、すれ違った人、また通るかな)


通るなら、もう一度、会釈をしてみるつもりだった。


でも、通らなかった。


待っても、来なかった。


四時半。


田中は応答ランプが点滅するのを見ながら、ふとブースを立った。


通路まで歩いた。


業務管理部のプレートを見た。


ドアは閉まっていた。


中の様子は見えなかった。


田中は少しの間、立っていた。


声をかけようとは思わなかった。


ただ、ドアを見た。


ドアを見ただけで、田中の中で少しだけ何かが動いた。


動いたのが何なのかは、わからなかった。


でも、動いた。


田中はそのままブースに戻った。


五時半。


退勤。


通路を歩いた。


業務管理部のドアの前を、もう一度通った。


ドアはまだ閉まっていた。


中から人の話し声が少し漏れていた。


田中は立ち止まらなかった。


でも、ドアのプレートをもう一度見た。


「業務管理部」と書いてあった。


「業務管理部」の下に、「マニュアル総括」と小さく書いてあった。


田中は一瞬、足を止めた。


止めたが、すぐに歩き始めた。


歩きながら、田中は頭の中でその言葉を繰り返した。


「マニュアル総括」


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを開いた。


「見せる先が決まらないと、書類の形も決まらない」の下に、


「業務管理部 / マニュアル総括」


と書いた。


書いて、しばらく見ていた。


見ているうちに、田中は気づいた。


(見せる先が決まったかもしれない)


決まったが、まだ知らない人だった。


知らない人に会釈もできなかった人だった。


知らない人にマニュアルの提案をするのは、まだ遠かった。


でも、遠かったのは、方向が決まったからだった。


方向が決まっていない時は、遠いも近いもなかった。


遠いと感じること自体が、前進だった。


前進、という言葉は田中は使わなかった。


使わなかったが、感覚としてはそうだった。


電車が来た。


田中は乗った。


家に着いた。


ノートをテーブルに置いた。


閉じないで、開いたまま置いた。


見たい、と思ったから。


見たいと思うのは、田中には久しぶりだった。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに、田中は思い出した。


今日、すれ違った業務管理部の男性の顔。


顔はもう、あまり思い出せない。


でも、社員証の「業務管理部」の文字は覚えていた。


覚えていたという事実だけで、明日の自分は、昨日の自分とは少し違うかもしれない。


違うかもしれない、と思えることが、田中には嬉しかった。


嬉しい、という言葉も田中はあまり使わなかった。


使わなかったが、その感覚は確かにあった。


眠りに落ちる直前、田中はもう一度、口を動かした。


「マニュアル総括」


声にはならなかった。


ならなかったが、詰まらなかった。


詰まらないまま、田中は眠った。


眠りの縁で、田中は一つだけ気づいた。


「マニュアル総括」は部署の名前だった。


でも、田中が「書き換えたい」と思った、その気持ちの名前でもあった。


名前があるものは存在する。


存在するものには、届く手段がある。


届けるために、田中はまず、知らない人に会釈をした。


会釈はまだ、つたないものだった。


でも、つたない会釈が存在したこと自体が、今日の収穫だった。


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