第十六話「時間」
木曜日の朝。
田中はブースに座って、モニターを起動した。
昨日の対応ログが、画面の隅に表示されていた。
「対応件数 / 十八件」
「平均対応時間 / 十二分」
田中はその数字を、少しの間見ていた。
先月までの田中は、一件平均、二十分前後だった。
その前の月は、二十五分。
田中はそのことを知っていた。
でも、意識はしていなかった。
意識しないまま、時間が短くなっていた。
モニターの隅に、「月間ランキング」という内部指標の小さな表示があった。
フロア内、八人中、対応時間の速い順に並ぶ。
田中は今まで、あまり見ていなかった。
今朝、ふと目が止まった。
一位。
田中の名前だった。
田中は一瞬、画面を見つめた。
月曜日、火曜日、水曜日と、三日連続で一位だった。
その前の週は三位。
さらに前の週は六位。
そのさらに前は、七位か八位だったはずだった。
田中はモニターを閉じた。
ヘッドセットをつけた。
応答ランプが点滅した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
朝一番は複雑案件だった。
法人契約の解約に伴う、十七件の個別サービスの停止手続き。
一件ずつ、確認が必要だった。
顧客は中堅企業の総務部担当者だった。
落ち着いた声の女性。
「契約番号、こちらです」
「ありがとうございます」
田中はモニターに入力した。
契約情報が表示された。
十七件のサービスが並んでいた。
「それぞれ、停止日時、ご確認いただけますか」
「はい、順番にお願いします」
田中は一件ずつ確認を取った。
途中、いくつか解約手数料が発生するサービス、あった。
顧客は「事前に免除交渉済み」と言った。
田中はモニターの履歴を確認した。
確かに、先月、免除合意の記録があった。
田中は免除適用の手続きをした。
通話は四十分で終わった。
複雑案件としては短いほうだった。
先月の田中なら、一時間はかかっていたと思う。
何が違うのか。
田中は少し考えた。
(慣れたというより、迷わなくなったかな)
マニュアル通りに処理しよう、と焦らなくなった。
顧客の状況を先に聞いて、判断する順番になっていた。
その順番でやると、時間が短くなるらしい。
でも、田中は意図的にその順番を変えた覚えはなかった。
いつの間にか、そうなっていた。
田中はふと思った。
(変わり方には、意図的な変わり方と、意図しない変わり方がある)
思って、少し驚いた。
自分の考えの中に、そういう言葉が出てきたのは珍しかった。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
あの男がいた。
缶コーヒーのボタンを押していた。
「君さ」
「はい」
「時間、どのくらい空いてる?」
田中は少し黙った。
「……え?」
「電話の合間の時間」
「……あまり、ないです」
「昨日までは?」
田中は考えた。
「昨日も、あまりないです」
「でも、対応時間、短くなってるだろ」
「……はい」
「どこに、その時間、行ったと思う?」
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田中は少し驚いた。
対応時間が短くなった、ということは、空き時間が増えているはずだった。
でも、感覚としては増えていなかった。
じゃあ、どこに消えたのか。
男は缶を口に運んだ。
一口飲んだ。
「時間が短くなっても、別の電話が入って埋まるシステムだろ」
「……はい」
「だから、時間は生まれないんだよ」
「……」
「時間を作りたかったら、件数減らすか、本当に必要な案件だけ受けるか、のどっちか」
男はそれ以上、言わなかった。
スマホにまた目を落とした。
「まあ、気になっただけ」
そう言い残して、男は缶を持ったまま去っていった。
田中は自販機の前に、少しの間立っていた。
(時間は、生まれない)
(件数、減らすか、本当に必要な案件だけ受けるか)
どちらも田中には、すぐにできることではなかった。
件数はAIが振ってくる。
必要な案件だけ選ぶこともできない。
でも、マニュアルを書き換えたら、件数は減る。
田中は気づいた。
(あ)
田中の頭の中で、何かが繋がった気がした。
繋がったのは小さな線だった。
でも、繋がった、という感覚はあった。
ブースに戻った。
午後の電話を取った。
取りながら、田中は頭の隅で考え続けた。
(マニュアルを書き換えれば、件数は減る)
(件数が減れば、時間は空く)
(時間が空けば、もっと書き換えられる)
螺旋のような考えだった。
でも、螺旋はいつか終わるはずだった。
終わるまでに、どのくらいかかるかはわからない。
わからないが、方向は決まった。
夕方、退勤。
田中は通路を歩いた。
業務管理部のドアの前を通った。
今日はドアが少しだけ開いていた。
中から話し声が聞こえた。
田中は一瞬、立ち止まりかけた。
止まらずに通り過ぎた。
通り過ぎて、監査部のプレートの前で、ふと振り返った。
業務管理部のドアはまだ、少しだけ開いていた。
田中はそのまま通路を抜けた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
昨日書いた「業務管理部 / マニュアル総括」の下に、今日、
「時間は、生まれない。/ 作るしか、ない」
と書いた。
書いたあとで、少し見ていた。
「作る」という言葉を、田中は久しぶりに書いた気がした。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中は考えた。
(対応時間、短くなっていたのは、たぶん意図しない変わり方だった)
(でも、これからやることは、意図的にやらないと進まない)
意図的に、という言葉を田中は頭の中で、少し繰り返した。
繰り返すと、その言葉は少しずつ、自分のものになっていった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
閉じないで、開いたまま置いた。
今日も缶ビールは買ってこなかった。
夜、田中はノートに追加で書いた。
「マニュアル書き換え → 件数減 → 時間確保 → さらに書き換え」
矢印を四本、使った。
使ったのは珍しかった。
普段、田中は言葉だけで書いていた。
今夜は図に近いものを書いた。
図にすると、頭の中が少し整理された気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、気がしただけでも、田中には十分だった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(どこから、始める?)
答えはまだ出なかった。
でも、「どこから?」と問えるようになったこと自体が、違いだった。
明日も電話を取る。
取りながら、考える。
考えるのは最近、少しだけ楽しくなってきていた。
楽しく、という言葉も田中はあまり使わなかった。
使わなかったが、その感覚は確かにあった。
眠った。
眠りは少しだけ深かった。
深さは測れなかった。
測れなかったが、朝、目が覚めたときに、少しだけ違うかもしれない。
明日が違うかもしれない、と思えることが、田中のいちばんの変化だった。




