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第十七話「加藤さん」

金曜日の朝。


田中はいつもの時間に、フロアに着いた。


ブースに座って、モニターを起動した。


今週ももう、最後の日だった。


朝一番の電話は感情ケア案件だった。


AIが三回切って、人間に振った案件。


「おはようございます、田中が対応いたします」


「……あ、はい」


男性の声だった。


若くはなかった。


年配でもない。


中年と言える声。


ただ、息が吐く感じの喋り方だった。


疲れている人だ、と田中はなんとなく聞いた。


「注文をキャンセルしたいんですけど」


「はい。ご注文番号、お伺いしてもよろしいでしょうか」


男性は番号を読み上げた。


モニターに情報が表示された。


介護用のベッドカバー。


三日前の注文。


まだ発送前だった。


「承りました。キャンセル理由、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「いや、いいです」


「承知いたしました」


田中はすぐに、キャンセル処理をしようとした。


キーボードの上に指を置いた。


置いたまま、指が少し止まった。


何かが引っかかった。


電話の向こうで、男性が小さく咳払いをした。


「あの」


「はい」


田中は答えた。


「……母の使うものだったんですけど」


「はい」


「昨日、亡くなって」


「……」


「だから、もう要らなくて」


「はい」


田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。


ヘッドセット越しの声が、温かかった。


「お悔やみ申し上げます」


「……ありがとうございます」


男性の声は少し崩れた。


「キャンセル、承ります」


「お手数おかけします」


「いえ」


田中は少し間を置いた。


何か言うべきか、迷った。


でも、迷いの時間は短かった。


「……少しお時間、ありますか」


と、田中は言った。


電話の向こうで、男性が黙った。


「……え?」


「いえ。もし少しでも、話したいことがあれば伺います」


「……」


「でも、もう切るのも大丈夫です」


男性はしばらく黙った。


沈黙だった。


ヘッドセットの向こうで、男性が息を吸った。


吸った息が震えていた。


「……母がずっと、ベッドにいて」


「はい」


「最近、少し調子が戻って」


「はい」


「それで、新しいカバーを、って思って、買ったんです」


「はい」


「でも、届く前にダメでした」


「……」


「届いても届かなくても、同じだったかもしれない」


「……」


「でも、届く予定だったベッドカバーが、家に来るのは嫌で」


「はい」


「それで、キャンセルしました」


田中はただ聞いていた。


ヘッドセット越しの声の温かさは、続いていた。


「話を聞いてくれて、ありがとう」


「いえ」


「機械の電話でもよかったんですけど、AIだとすぐに切られて」


「はい」


「三回、切られました」


「申し訳ございません」


「いえ。たぶん、AIが正しいんです」


「……」


「こういう話、聞く仕事じゃないですから」


田中は少し黙った。


「……こういう話、伺うこともあります」


と言った。


言ったあとで、この「あります」は、田中の今までの「はい」とは少し違う答え方だった。


「そうですか」


「はい」


「じゃあ、ありがとう」


通話は終わった。


---


田中は通話を終えた。


ヘッドセットを外した。


しばらくモニターを見ていた。


キャンセル処理の入力画面。


「完了」とボタンが出ている。


田中はそのボタンを押した。


押したあとで、少しの間、動かなかった。


十時、田中はブースを立った。


給湯室まで歩いた。


水道で水を一杯汲んで飲んだ。


冷たい。


喉を通った。


詰まらなかった。


給湯室から出るとき、誰かとぶつかりそうになった。


「ああ、すみません」


年配の男性だった。


五十代後半くらい。


背は低い。


グレーのシャツを着ていた。


社員証には、「加藤 信也」と書いてあった。


オペレーターとして同じフロアにいるのは、田中も知っていた。


でも、あまり話したことはなかった。


「いえ、こちらこそ、申し訳ございません」


田中は軽く会釈をした。


会釈ができたことに、田中は少し驚いた。


先日、業務管理部の前でできなかったことだった。


加藤はちらりと田中を見た。


「田中くんだね」


「はい」


「最近、対応、速いって聞いてるよ」


田中は少し黙った。


何と答えるべきか、わからなかった。


「……はい」


加藤は少し笑った。


「いや、ごめんね。変な話、振って」


「いえ」


「どうしてるの? なにかコツでも、ある?」


田中は少し考えた。


言ってもいいのか、わからなかった。


でも、加藤の顔は純粋に興味ある顔だった。


悪意はなかった。


「……マニュアル、書き換えたいと思ってます」


言ったあとで、田中は自分の口の動きに驚いた。


いつもの「はい」ではなかった。


自分の考えを先に話した。


「ほう」


加藤は少し目を丸くした。


「それ、IT部門の人間が聞いたら、喜ぶんじゃないか」


「……IT部門の人?」


「うん」


加藤は缶コーヒーを自分用に買った。


「俺、昔、IT部門にいたから」


田中は少し驚いた。


「そうなんですか」


「うん。定年前に再雇用で、オペレーターに来て、五年かな」


「……」


「マニュアル書き換える話、どのくらい進んでる?」


田中は少し黙った。


「……まだ、誰にも見せてないです」


「そっか」


加藤は缶を開けた。


「まあ、ゆっくりやろうね」


とだけ言って、給湯室を出ていった。


田中は少しの間、給湯室に立っていた。


(IT部門の人が、喜ぶ)


(加藤さんは、昔、IT部門)


頭の中で、二つの情報が結びついた。


結びついたが、まだどう動くかは、わからなかった。


わからなかったが、田中は少しだけ安心した。


見せる先が少しだけ、見えた気がしたから。


昼休み、田中は自販機の前に立った。


男はいなかった。


午後、田中はまた電話を取り続けた。


今朝の男性の声が、ときどき田中の頭に残った。


「こういう話、聞く仕事じゃないですから」


田中はその言葉を何度か思い出した。


でも、田中の仕事は、そういう話も聞く仕事だった。


いや、正確には、「そういう話も聞く仕事」に、田中が少しずつ変えてきていたのかもしれない。


五時半。


退勤。


田中は通路を歩いていた。


途中、加藤とまたすれ違った。


加藤は顔を上げた。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


田中は軽く会釈した。


今度は自然にできた。


加藤は少し立ち止まった。


「田中くん、俺、金曜日はいつも、六時まで残業なんだけど」


「はい」


「来週、もし時間あるなら、メモ、見せて」


田中は少し目を丸くした。


「……はい」


「書き換えたい、って言ってたやつ」


「はい」


「来週の月曜日、十二時半、休憩室でも」


「はい」


加藤は少し笑った。


「じゃ、また」


田中はそのままフロアを出た。


駅までの道を歩いた。


ノートを出して、歩きながら開いた。


「業務管理部 / マニュアル総括」の下に、


「加藤さん / 月曜、十二時半、休憩室」


と書いた。


書いて、田中は少し立ち止まった。


書き換えたいと思っていることを、初めて他人と、具体的な時間と場所を約束した。


そのこと自体が、田中の中で大きかった。


大きかった、という感覚は、田中はあまり持ったことがなかった。


持ったのに、それが「大きさ」だとわかるのに、少し時間がかかった。


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを閉じた。


電車が来た。


田中は乗った。


車内で吊革につかまりながら、田中は少しだけ口を動かした。


「月曜、十二時半、休憩室」


声にはならなかった。


ならなかったが、詰まらなかった。


詰まらないまま、口だけ動いた。


動いたことが、田中には嬉しかった。


家に着いた。


ノートをテーブルに置いた。


今日も缶ビールは買ってこなかった。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに、田中は一つだけ考えた。


(加藤さん、何を期待してるんだろう)


考えて、答えは出なかった。


でも、期待されているという感覚は、田中には久しぶりだった。


久しぶりすぎて、少し戸惑った。


戸惑いながら、田中は眠った。


眠りの中で、田中は月曜日の休憩室の風景を、夢見た気がした。


気がしただけかもしれない。


でも、気がしただけで、田中の月曜日は少し早く来るかもしれなかった。


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