第八話「練習」
火曜日の朝。
田中は目覚ましを止めたあと、三十秒だけ布団の中で、口を動かした。
動かしただけで、声にはならなかった。
何を動かしていたかは、起きてからは忘れていた。
忘れていたが、電車の中でまた思い出した。
田中は朝の電車の中で、口の中で小さく練習していた。
「今、手が離せません」
「ほかの方に、お願いできますか」
「すみません、ちょっと厳しいです」
どれも、言えそうで言えない感じがした。
電車のアナウンスが鳴った。
田中は口を閉じた。
周りの人は誰も、田中の口元を見ていなかった。
当たり前だった。
でも、田中は少し恥ずかしかった。
小さい声でも、口は動いていた。
動いていた口を、田中はマスクの下でまた動かしてみた。
「今、手が離せません」
声にはならなかった。
なっても、ならなくても、喉は詰まった。
詰まったまま、田中は駅に着いた。
フロアに着いた。
「おはよう」
「はい」
中村健太が通りかかった。二十七歳、田中と同期。
田中より少しだけ、仕事が速い。
「田中、昨日のクレーム、どうだった?」
「……はい」
「『はい』じゃ、わかんねーよ」
中村は軽く笑った。
田中も少し笑った。
笑ったが、
(今、断るチャンスだったな)
と思った。
チャンスと言っても、何から断るのかはわからない。
中村はそのまま、自分のブースに行った。
田中は座って、モニターを起動した。
応答ランプがすぐに点滅した。
午前中、臨機応変案件が四件来た。
マニュアルに書いていないケースばかりだった。
田中はそのつど、判断をした。
判断はできた。
判断して対応した。
お客様も納得していた。
田中の判断は間違っていなかった。
一件目、返品先住所の変更。顧客の離婚に伴う送付先の、修正依頼。
AIは「システム上、一度返品処理を完了させてから、再注文してください」と案内していた。
田中は返品処理をしたまま、社内の操作で送付先だけを変更した。
顧客は喜んで電話を切った。
二件目、配送の時間指定変更。工場のシフト勤務で、指定時間帯が変わった、という案件。
AIは「三日前までの変更のみ承れます」と機械的に答えていた。
田中は配送業者に直接連絡して、当日の時間変更を手配した。
顧客は「ありがとう」と言って切った。
三件目、商品の組み合わせ注文。
AIは各商品の個別注文を案内していた。
田中は同梱発送の手続きをした。送料が安くなった。
四件目、……また、バッテリーの件だった。
田中は同じ説明をした。
ケーブル抜き差し。
解決した。
でも、なんで自分がマニュアルに書いていないケースを、毎回、対応しなきゃいけないのか。
その疑問は田中の頭の中に、小さく残った。
昨日は考えなかった。
今日は少し考えた。
考えても、わからなかった。
昼休み、田中は中村と、休憩室でパンを食べた。
休憩室は狭かった。
テーブルが二つあって、電子レンジが一つあった。
窓の外に、隣のビルが見えた。
午前中の太陽が、少しだけ入ってきていた。
「田中さ」
「はい」
「お前、最近、疲れてない?」
「……そんなことは」
「いや、顔に出てる」
中村は缶コーヒーを飲んだ。
「俺、来月、部署異動するから」
「……そうなんですか」
「うん。営業のほうに」
田中は少し黙った。
中村は缶を置いて続けた。
「コールセンター、もう縮小だってさ」
「はい」
「AIでほぼ回せるから」
「はい」
中村はパンの最後の一口を食べた。
咀嚼しながら、少しだけ下を向いた。
それから顔を上げて、
「田中は、どうするの?」
「……」
田中は答えられなかった。
考えたことがなかった。
「辞めたいけど、次がないですね」
口が勝手に動いた。
この「はい」と同じだった。
考える前に出ていた。
「次、ないのか?」
「はい」
「まあ、そうか」
中村はそれ以上、訊かなかった。
缶コーヒーを飲み干した。
「俺もさ、営業、向いてないと思うよ」
「そうですか」
「向いてないけど、異動だから、行く」
「はい」
「選べないんだよ、結局」
田中は中村を見た。
中村は缶をゴミ箱に捨てた。
「まあ、田中は頑張って、あんま、無理すんなよ」
と言って、休憩室を出ていった。
田中はパンの袋をゆっくり畳んで、ブースに戻った。
(選べない)
(中村も、選べない)
(僕も、選べない)
思って、少しだけ肩が落ちた。
落ちた肩を、田中は気づいたそぶりで戻した。
午後、田中はまた、臨機応変案件を取った。
判断して対応した。
同じ流れ。
疲労が肩に乗っていた。
疲労、というより、重さだった。
身体の重さではなく、心の重さ。
でも、心という言葉は、田中は使わなかった。
使わずにただ、「重い」と思った。
夕方、退勤前。
田中はふと、監査部のプレートの方向を見た。
窓の向こうに、あの男がいた。
ノートPCを見ている。
今日は一人だった。
監査部の女性はいなかった。
田中は少し、その背中を見ていた。
男はノートPCの画面を見ながら、ときどき考え込むような顔をした。
顔はほとんど動かなかった。
でも、目だけが少しずつ、違う場所を見ていた。
見ていただけで、何かが起こるわけではなかった。
田中は荷物を持って、フロアを出た。
通路を歩く。
監査部のプレートの前を通った。
男はちらりと顔を上げた。
目が合った。
合ったが、一瞬だった。
男はまた、ノートPCに目を戻した。
田中は通り過ぎた。
駅までの道を歩いた。
(中村、異動か)
(僕は、ここに残るのかな)
(残るしかないのかな)
考えながら歩いた。
考えても、わからない。
わからないが、考えるのをやめなかった。
やめようとしたが、やめられなかった。
駅のホーム。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
窓の外の景色を見た。
マンションの窓に、夕方の灯りがぽつぽつとついていた。
どの窓の向こうにも、誰かが住んでいる。
住んでいる誰かは、今、何をしているんだろう。
考えても、わからない。
(次がない、って、僕は言ったな)
(言ったけど、本当にないのかな)
考えかけて、田中はやめなかった。
今日はやめなかった。
でも、答えは出なかった。
(考えるのが、怖いな)
と思った。
怖い、という言葉を田中はあまり使わなかった。
使ってみて、少しだけ息が楽になった気がした。
気がしただけかもしれない。
気がしただけでも、田中には意味があった。
家に着いた。
玄関で靴を脱いだ。
そのままリビングに入らずに、少しの間、立っていた。
冷蔵庫の音が小さく聞こえた。
それだけだった。
リビングに入って電気をつけた。
ノートを出した。
昨日、「バッテリー件数」と書いたページを開いた。
今日は何も書き足さなかった。
書き足さずに、しばらくページを見ていた。
眠るまでに、田中は中村の「選べない」という言葉を、何度か思い出した。
中村は「選べないから、異動する」と言っていた。
田中は「選べないから、残る」のかもしれない。
選べないのは同じだった。
同じなのに、行き先は違った。
布団に入って、目を閉じた。
目を閉じても、なかなか眠れなかった。
昨日より一時間、早く眠ろうと思っていた。
結局、同じ時間に眠った。
眠る前に、もう一度、口の中で練習した。
「今、手が離せません」
声にはならなかった。
でも、昨日より、詰まりは少しだけ薄かった。
薄いまま、田中は眠った。
明日、声になるかもしれなかった。
選べないのは同じだった。
でも、選べる日がいつか、来るかもしれない。
来るかもしれない、と思うことはできた。




