第七話「断れない」
週末を挟んだ。
土日は短かった。
短くても、月曜日は必ず来た。
来たから、田中はまた電車に乗った。
土曜日の朝、田中はいつもより一時間、遅く起きた。
平日の疲れが、体に少しずつ溜まっていた。
土曜日はいつも、昼までぼんやり過ごす。
今週はバッテリーの件を、ときどき思い出した。
思い出しても、仕事の日ではなかったから、何もしなかった。
日曜日も同じだった。
月曜日の朝、八時半。
田中はブースに座りながら、考えていた。
(次、頼まれたら、一回だけ断ってみるか)
そう思ってみた。
思っただけで、喉が少し詰まった気がした。
まだ、誰にも頼まれていないのに詰まった。
田中は小さく息を吐いた。
吐いて、モニターの応答ランプを待った。
午前中、十一時。
鈴木がまた、田中のブースに顔を出した。
「田中くん、これごめん、お願いできる?」
「……」
田中は一瞬、黙った。
口が動きかけて、止まった。
喉が詰まった。
息を吸った。
吸って、吐いた。
「……はい」
結局、そう言った。
言ったあとで、田中は自分の舌の動きを感じた。
「はい」がなめらかに出てきていた。
考える前に出ていた。
考えたあとで出ていたわけではなかった。
鈴木は少しほっとした顔で、
「ほんと、ごめん。これ、昨日から三回、切れてる案件なの」
「はい」
「私、今日、午前中、会議があって」
「はい」
「また、お願いしちゃうね」
「はい」
鈴木はお礼を言って去った。
田中はその背中を見ていた。
背中は少し疲れていた。
先週と同じ疲れだった。
いや、先週より少し重い疲れだったかもしれない。
田中はモニターに案件を表示した。
また、高齢の女性からのクレームだった。
この前の続きだった。
服の話。母親の話。部屋の片付けの話。
田中は通話に応答した。
「お待たせいたしました、田中が対応いたします」
「あら、またあなた」
「はい」
「よかった」
女性の声は、今日も柔らかかった。
でも、少しだけ前回と違っていた。
疲れているというより、風邪でも引いたような、鼻声が混じっていた。
「大丈夫ですか」
田中は言った。
「え?」
「お風邪、ですか」
「ああ、鼻の調子がね。この季節だから」
「はい」
「そう、気にかけてくれて、ありがと」
「……」
田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。
その日は、服の話の続きを聞いた。
先週よりは少し短かった。
十分ほどで、通話は終わった。
最後に女性は、
「今週も、電話してもいい?」
と訊いた。
「……はい」
田中は答えた。
この「はい」は呪いではなかった。
でも、呪いの「はい」と全く同じように、口から出てきた。
同じように見えただけで、違うものだった。
田中はそう思いたかった。
昼休みに、田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
男はいなかった。
今日は見かけなかった。
田中は少しぼんやりした。
ブースに戻る前に、監査部のプレートの前を通った。
会議室の中にも、男はいなかった。
デスクも今日は、きれいに片付いていた。
缶コーヒーの空き缶もなかった。
誰かが片付けたのか、最初からなかったのか、わからなかった。
わからないまま、田中は通り過ぎた。
通り過ぎてから、少しだけ不在、という事実が気になった。
気になっても、別の誰かに訊くわけにはいかなかった。
訊いても、たぶんわからない。
(さっき、断れなかった)
(断ろうと思ってたのに)
(断ろうと思うと、喉が詰まる)
(呪いだね、って言ってたな)
田中は缶を口に運んだ。
冷たい。
冷たい缶の表面で、指が少し濡れた。
濡れた指で、田中は自分の喉を軽く触った。
痛くはなかった。
痛くないのに、詰まる感じだけはある。
あると、田中は思った。
思っても、それが何なのかは、わからない。
午後、田中はまた電話を取った。
怒鳴っている男性だった。
商品の傷の件。
AIが三回振り分けた案件。
「おい、聞いてんのか」
「はい」
「はい、ばっかり言うな」
「はい」
田中は少し目を閉じた。
(これは、呪いだから、仕方ないのかな)
(呪いだと、医者に行けないからさ、って言ってたな)
(じゃあ、どうすればいいんだろう)
考えている間も、男性は怒鳴り続けた。
怒鳴り続けている声を聞きながら、田中はふと思った。
(この人、疲れてないな)
怒れる余力がある。
疲れているのは、自分のほうだった。
通話が終わった。
田中は通話を終えた。
ヘッドセットを外した。
耳の後ろが痛い。
ブースの天井を見上げた。
蛍光灯のカバーに、小さな黒い点があった。
虫の死骸。
ずっと前からある。
田中は今日も気づかないふりをした。
ふりをしながら、見ていた。
夕方、駅のホームで、田中は電車が来るのを待っていた。
ホームの端の自動販売機を、一度見た。
誰も使っていなかった。
(断れなかった)
もう一度思った。
(まあ、いいか)
そう思い直した。
思い直しても、少しだけ残った。
残った何かを、田中はしばらく、線路を見ながら感じていた。
電車が来た。
田中は乗った。
家に着いた。
玄関で靴を脱いだ。
脱いですぐに、冷蔵庫を開けた。
缶ビールが一本、残っていた。
いつもは飲まない。
今日はなんとなく、飲みたくなった。
金曜日以来、二本目の缶だった。
ビールをテーブルに置いた。
開けずにしばらく、見ていた。
缶の表面に結露がついていた。
冷蔵庫から出したての冷たさだった。
指先で缶の表面を、一度触った。
冷たさが指を通って、腕まで上がってきた。
上がってきて、肩のあたりで止まった。
開けた。
プシュ、という音が静かな部屋に、小さく響いた。
その音は耳の奥まで届いた。
一口飲んだ。
冷たい。
苦い。
苦さは喉の奥で、しばらく残った。
呪いの「はい」が詰まる場所と、同じ場所だった。
そんなに美味しくはなかった。
でも、今日は飲みたかった。
飲みたかったのは、たぶん今日の「はい」を流したかったから。
流しても消えない。
消えないけど、流したかった。
飲み終わったあと、田中はぼんやり天井を見ていた。
「呪い」という言葉が、頭の中でときどき浮かんだ。
浮かぶたびに、田中は目を閉じた。
考えてもわからない。
考えなければ気にならない。
田中はいつもそうしてきた。
でも、今夜は少しだけ気になって、眠れなかった。
布団に入っても、目が冴えていた。
天井を見ていた。
天井は白かった。
白いまま見ていた。
窓の外で、風が少しだけ吹いていた。
春の風だった。
冬の鋭さはもう、ない。
でも、夏のぬるさもまだ、ない。
中間の風。
田中の耳には、その風の音が聞こえた。
聞こえながら、田中は頭の中で考えていた。
(断ろうとして、断れなかった)
(断れなかったから、呪い)
(呪いだから、断れない)
(断れないから、呪い)
頭の中で同じ言葉が回っていた。
回っているのがわかっていた。
わかっていても、止まらなかった。
回っているのを、田中はじっと聞いていた。
自分の頭の中の言葉を、他人のように聞いていた。
他人のように聞いていると、少しだけ楽になる気がした。
気がしただけかもしれない。
止まったのは、夜中、一時過ぎだった。
気づいたら眠っていた。
朝、目が覚めたときには、疲れが残っていた。
土曜日、日曜日で取れたはずの疲れが、月曜日の夜にまた戻ってきていた。
火曜日の朝、田中はいつもの時間に家を出た。
電車に乗った。
窓の外の景色を見た。
見ていた、というより、目を向けていただけだった。
頭の中には、昨日の「はい」がまだ残っていた。
残ったまま、田中はフロアに着いた。
ブースに座った。
ヘッドセットをつけた。
応答ランプが点滅した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
朝一番の電話を取った。
取りながら、田中は小さく思った。
(次、頼まれたら、今度こそ断ってみよう)
思っただけで、また喉が軽く詰まった。
詰まったまま、田中は電話を取り続けた。
今日は、断れないかもしれない。
でも、明日はわからない。
わからない、と思えることが、少しだけ新しかった。




