第六話「なんで毎日」
その週は、同じ問い合わせが何度も来た。
商品Xのバッテリーがすぐに切れる。
朝、別の顧客から。
昼、別の顧客から。
夕方、また別の顧客から。
田中は同じ説明を三回した。
充電器を挿す角度。
バッテリーの温度。
使用環境の湿度。
マニュアルに書いてあるとおり、順番に話した。
話しながら、田中はぼんやり思った。
(なんで、毎日、同じ問い合わせが来るんだろう)
思ったが、考えなかった。
考えてもわからない。
田中はいつもそうしてきた。
火曜日。水曜日。木曜日。
毎日、同じ問い合わせが続いていた。
田中以外の他のオペレーターも、同じ問い合わせを受けていた。
休憩室で中村健太が、缶コーヒーを飲みながら、
「バッテリーの件、また来たよ」
と言っていた。
「うちら、何度同じこと言えばいいんだろうな」
中村は少し笑った。
笑ったが、楽しそうではなかった。
田中は少し頷いた。
頷いただけで、何も言わなかった。
金曜日の午後、二時四十分。
田中はモニターに、今週のクレーム履歴を並べていた。
商品Xのバッテリー件が、今週だけで九件。
九件全部、田中が対応していた。
うち八件は解決していた。
解決の方法はマニュアル通りではなかった。
マニュアルにはこう書いてあった。
「充電器の角度、バッテリーの温度、湿度を確認してください」
でも、どの問い合わせでも、それでは解決していなかった。
解決しなかったから、田中に電話が回ってきていた。
田中はそのつど、別の方法を説明していた。
「充電ケーブルを、一度抜いて差し直してください」
それでほぼ解決した。
この方法はマニュアルに書いていなかった。
田中が何回か試しているうちに、たまたまうまくいった方法だった。
午後、三時。
田中は自販機の前に立っていた。
いつものカフェオレ。
缶を受け取ったところで、声がかかった。
「君さ」
振り返ると、あの男がいた。
缶コーヒーを片手に、ノートPCをもう片手に抱えている。
社員証が首元で、少し揺れていた。
所属の文字は、今日もよく見えなかった。
「はい」
田中は答えた。
口が勝手に動いた。
男は缶を軽く振りながら、
「なんで、毎日、同じ問い合わせが来るの?」
田中は少し黙った。
黙ってから、
「……わかりません」
と答えた。
「だよね」
男は缶を一口飲んだ。
「AIが毎回、同じ答えを返してるからだよ」
「……」
「その答えでは直らないから、また人間に電話が来る」
「はい」
「君たちは同じ説明を、三回ずつする」
「はい」
「効率、悪くない?」
田中は少し考えた。
「……はい」
男はスマホを出した。
画面をこちらに見せたわけではなかった。
ただ、自分で見ながら何かを確認していた。
画面には棒グラフのようなものがあった。
縦軸に数字が並んでいた。
横軸に日付のようなものが並んでいた。
棒はどれも似たような高さだった。
大きな変化はないように見えた。
田中はそれをちらりと見た。
見てから視線を外した。
男はスマホを見たまま、
「AIは、マニュアル通りに答えるからね」
「はい」
「マニュアルが間違ってる可能性は、考えないから」
「……」
男は缶をもう一口飲んだ。
「人間に振るときは、『臨機応変に対応してください』って書いてる」
「はい」
「便利な言葉だよね、臨機応変って」
男は少し笑った。
笑ったというか、息を短く吐いた。
笑い声にはならなかった。
「君たちはそれで、毎回、何とかしてる」
「はい」
「だから、問題が見えにくい」
「……」
「問題が見えにくいと、改善されない」
「はい」
「改善されないから、来年も同じ問い合わせが来る」
田中は少し黙った。
(来年も、同じ問い合わせが来る)
そう思うと、少しだけ疲れた。
疲れたというほどではないが、軽く肩が落ちた気がした。
男はそれには気づかなかった。
スマホを見たまま、
「まあ、気になっただけ」
男は缶を持ったまま去っていった。
通路の監査部のほうへ。
田中はその背中を少しの間、見ていた。
背中は少し猫背だった。
ゆっくり歩いていた。
急いではいなかった。
曲がり角で一度、振り返った気がしたが、確かではなかった。
田中は自分のカフェオレを口に運んだ。
冷たい。
ブースに戻って、田中は次の電話を取った。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
また、バッテリーの件だった。
今週、十件目。
田中は同じ説明をした。
言いながら、田中はさっきの男の言葉を思い出していた。
(マニュアルが間違ってる可能性)
その可能性は田中も考えたことがあった。
でも、考えても田中がマニュアルを変えられるわけではなかった。
だから、考えなかった。
考えないと決めていたわけでもない。
ただ、考えても何も変わらないから、自然に考えなくなった。
考えなくなっていたことに、田中は今、気づいた。
通話が終わった。
応答ランプがまた点滅している。
田中はヘッドセットを押さえ直した。
持ち直しながら、
(変えられないと、考えなくなる)
(変えられたら、考えるのかな)
一瞬そう思って、田中は首を小さく振った。
考えてもわからない。
考えないと決めていたはずのことを、今日は少しだけ考えていた。
変えられるかどうかは、わからない。
でも、少なくとも考えるくらいはできるのかもしれない。
考えるだけなら、誰にも迷惑はかけない。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
今日、十五回目。
たぶん、あと三回はある。
電話を取りながら、田中は頭の隅で、バッテリーの件数を数えていた。
今週、十件。
先週もたぶん同じくらい。
先月はわからない。
数えていなかった。
数えてみよう、と田中は一瞬思った。
思って、すぐに忘れた。
忘れたが、完全には忘れなかった。
夕方、五時半。
田中は帰り支度をしていた。
モニターのログを見た。
「今日、十八回目」と表示されていた。
ブースを立った。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室の中に、あの男はいなかった。
デスクの上に、缶コーヒーが一本置いてあった。
空ではなかった。
まだ手をつけられていなかった。
男はたぶん、どこかに行ったのだろう。
田中は通り過ぎた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中は自分のノートをカバンから出した。
業務用の小さな手帳。
ページをめくった。
メモのページに「バッテリー件数」と書き込んだ。
今週の件数を書いた。
書いただけで、何もしなかった。
何もしないのに、書いただけで、少しだけ頭が軽くなった気がした。
気がしただけかもしれない。
電車が来た。
田中は乗った。
車内でノートをもう一度見た。
「バッテリー件数」と書いた数字を見た。
見ていたら、田中は少しだけ笑った。
笑ったというか、口の端がほんの一ミリだけ動いた。
動いただけで、顔はまた元に戻った。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
置いたまま、しばらく見ていた。
そのページを開いたまま、田中は風呂に入った。
出てきたあとも、ノートはそのまま開いていた。
見たまま、田中は布団に入った。
目を閉じた。
数字が頭の中で、少しの間、浮かんでいた。
浮かんでいる数字が少しずつ、「書き換えたい」という言葉の形に近づいていった。
近づいていったが、まだ届かなかった。
届かないまま、田中は眠った。




