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第五話「むかし」

週の半ば。


コールセンターの朝は、どこも似たような顔をしている。


でも、田中の耳は少しずつ、違うものを聞き分けるようになっていた。


今日の田中は、まだそのことに気づいていなかった。


田中は朝から続けて、三件のクレームを取っていた。


どれも同じタイプの怒りだった。


「お前、俺の話、聞いてんのか!?」


四件目の電話の向こうで、男性が怒鳴っていた。


「はい」


田中は答えた。


口が勝手に動く。


「はい、じゃねえよ! 対応しろって言ってんだよ!」


「はい」


「はいって、言うな!」


田中は少し黙った。


膝の上で拳を少しだけ強く握った。


指先が白くなっていた。


「申し訳ございません。状況をお伺いしてもよろしいでしょうか」


「状況? 見りゃわかるだろ!」


「恐れ入りますが、お電話ですので」


「そうか、電話か。忘れてた」


男性は一瞬、黙った。


それから、また怒鳴り始めた。


今度は少しだけ、声が小さかった。


田中は通話を受けていた。


聞きながら、自分の手が震えているのに気づいた。


震えているというほどではない。


ほんの少しだけ動いている、という感じだった。


通話が終わったあと、田中はしばらくヘッドセットをつけたままだった。


モニターの応答ランプは点滅している。


でも、次の電話を取る前に、一秒だけ田中は目を閉じた。


閉じると、さっきの男性の怒鳴り声が、まだ耳の奥に残っていた。


怒鳴っている声、というより、疲れている声のようにも思えた。


怒鳴る余力がまだあったから、怒鳴っていた。


余力がない人は怒鳴らない。


そのことを田中は前にも考えたことがあった。


目を開けた。


モニターの応答ランプは、まだ点滅していた。


田中は通話に応答せずに、そのまま椅子にもたれた。


椅子の背もたれが軽くきしんだ。


むかし、


そういえば、


と田中は思った。


小学校の四年生くらいだっただろうか。


クラスの当番で、日直の仕事を押し付けられたことがあった。


本当はサッカー少年の順番だった。


サッカー少年は放課後の練習を、休みたくないと言った。


「田中、代わってくれるよな?」と言った。


田中は「はい」と答えた。


別に代わりたかったわけではなかった。


でも、「嫌だ」と言えなかった。


「嫌だ」と言うと、喉が詰まった。


そのことを田中は今、数十年ぶりに思い出した。


思い出そうとして思い出したのではない。


ふと思い出した。


思い出して、少しだけ息が詰まった。


詰まった息を、田中は意識的に吐いた。


サッカー少年の顔は、もう思い出せない。


名前も思い出せない。


でも、「田中、代わってくれるよな?」というあの言い方だけは覚えていた。


言い方、というか、そのときの声のトーン。


少し急いでいて、少し自信があって、少し押し付けがましい。


そんなトーンだった。


そのトーンに、田中は負けた。


「はい」と答えた。


その「はい」がいつから癖になったのかは、もうわからなかった。


(あれは、病気じゃないな)


と田中は思った。


(でも、呪い、って言われると、それはそれで、よくわからないな)


---


ふと、視線を感じた。


顔を上げると、フロアの奥、通路の入口に、あの男が立っていた。


ノートPCを開いたまま、何かメモを打っていた。


目は合わなかった。


男は田中のほうを見ていなかった。


応答ランプが点滅している。


田中は次の電話を取った。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


また、クレームだった。


小さな怒り。


息を吸いながら喋っている。


田中にはそれが、なんとなく聞こえた。


対応はマニュアル通りに終わった。


終わったあと、田中は少しだけモニターのログを見た。


「今日、十一回目」と画面に表示されていた。


昼休み。


田中はフロアの端の休憩スペースで、パンを食べた。


窓の外の景色が見えた。


ビルとビルの間に、小さく桜の木が一本植わっていた。


花はもうほとんど散っていた。


花びらがアスファルトの上に散らばっていた。


誰も拾っていなかった。


パンを食べ終えて、田中は自販機に向かった。


いつものカフェオレ。


缶を受け取る。冷たい。


振り返ると、少し離れた場所に、あの男がいた。


缶コーヒーを持ったまま、誰かと話していた。


相手は監査部の社員らしい、背広姿の女性だった。


声は聞こえなかった。


でも、男の口元は少しだけ笑っていた。


女性は真面目な顔で話していた。


男はそれを聞きながら、スマホに時々、目を落としていた。


田中はその光景を、一瞬だけ見た。


それからブースに戻った。


午後、田中はまた電話を取り続けた。


怒鳴る客、泣く客、無言の客。


どれにも田中は対応した。


対応しながら、ときどきサッカー少年のあの声のトーンを思い出した。


思い出しては消えた。


消えては、また思い出した。


夕方、五時半。


田中は帰り支度をしていた。


ブースを立つ前に、一度モニターのログを見た。


「今日、十七回目」と表示されていた。


多くも少なくもなかった。


いつも通りだった。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通る。


会議室は今日は空いていた。


あの男も、監査部の女性もいなかった。


田中はプレートを少しだけ見た。


「監査部」と書いてあった。


それ以上は書いていなかった。


田中は通り過ぎた。


駅のホームで、電車を待った。


電車は遅れていた。


五分ほど待った。


待ちながら、田中は線路を見ていた。


線路の向こうに、沈みかけの太陽が見えた。


太陽の色は春の色だった。


冬の鋭さはもうなかった。


夏の強さもまだなかった。


中間のぬるい色。


電車が来た。


田中は乗った。


車内はいつもより混んでいた。


吊革につかまって揺られた。


窓の外の景色が流れた。


サッカー少年の顔は、もう思い出せなかった。


でも、「はい」と答えた自分の声だけは、なんとなく覚えていた。


その声は今の自分の声と同じ声だった。


年齢は違うはずなのに、声は変わっていないような気がした。


駅で降りた。


家までの道を歩いた。


コンビニの前を通った。


中に入らなかった。


家に着いた。


靴を脱いで、玄関で少し立っていた。


何もしないまま、五秒ほど立っていた。


それからリビングに入った。


テレビをつけた。


ニュースが流れていた。


AIがまた別の仕事を代替した、というニュース。


もう珍しくないニュースだった。


田中はそれを見ていた。


見ていた、というか、画面に視線が向いていただけだった。


「はい」と言ったあの声。


今日、思い出したのは本当に久しぶりだった。


何十年も思い出さずに生きていた。


思い出さずに生きていても、「はい」は出てきていた。


出てきていたから、忘れていた。


忘れていたから、呪いだった。


缶ビールを開けた。


一口飲んだ。


冷たい。


指が少し濡れた。


濡れた指で、テレビのリモコンを触った。


電源を切った。


部屋が少し静かになった。


---


布団を敷いた。


目を閉じた。


眠るまでに少しだけ、時間がかかった。


頭の中でサッカー少年の声が、ときどき小さく聞こえた。


気のせいかもしれない。


気のせいでも、田中には聞こえた。


消えなかった。


消えかけては、戻ってきた。


戻ってきたたびに、田中は目を開けた。


開けた目の先の天井は、やっぱり白かった。


消えなかったが、完全には消えずに、朝まで残った。


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