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第四話「お願い」

翌日の朝、八時四十分。


鈴木美咲が田中のブースに顔を出した。


同じフロアの三年先輩。三十一歳、二児の母、時短勤務。


「田中くん、ちょっといい?」


「はい」


口が勝手に動いた。


鈴木は少し申し訳なさそうに、


「これ、お願いできるかな。私、子どもの熱で、午後早退なの」


モニターに案件が表示される。


高齢の女性からのクレーム。


三日連続で同じ話をしている。


「母の遺品の服の件で。返品じゃなくて、話を聞いてあげてほしいって書いてあって」


「はい」


「AIだと、どうしても途中で切れちゃうみたいで」


「はい」


鈴木は一度、田中の顔を見た。


「ありがとう。ほんと、助かる」


それから自分の荷物をまとめて、フロアを出ていった。


鈴木の背中は少し疲れていた。


時短勤務とはいえ、最近、残業することも多かった。


子どもが小学校に上がってから、熱を出す回数が増えたと、前に聞いたことがあった。


田中はその背中を少しの間、見ていた。


自分のモニターに視線を戻す。


---


三日連続、と表示されていた。


AIが処理しなかったのではない。


AIが三回、電話を切ってしまったと記録されていた。


「感情ケア案件」と小さくタグがついていた。


AIの判定コードで、「感情過多、応答不能」と書かれていた。


田中はタグを見ていた。


それから電話をつないだ。


「お待たせいたしました。田中が対応いたします」


「……ああ、また別の方?」


高齢の女性の声だった。


柔らかい声だった。


怒ってはいなかった。


疲れてもいなかった。


ただ、少しゆっくり喋っていた。


「はい。失礼いたします」


「いえ、いいのよ。何度も、ごめんなさいね」


田中はヘッドセットを少しだけ押さえ直した。


「お話、伺ってもよろしいでしょうか」


「ええ。……あのね、母が三月に亡くなって」


「はい」


「遺品を整理してたら、この服が出てきたの」


「はい」


「でも、タグがまだついてて。着てないのよ。一度も」


「はい」


「それで、返品できないかって思ったんだけど」


女性の声が少し揺れた。


「返品したら、なんか、母との最後のつながりがなくなるみたいで」


「……」


「だから、毎日、電話してしゃべってる」


田中は黙っていた。


「変よね」


「いえ」


「変なのよ」


女性は少し笑った。


「だから、AIに三回、切られたの」


「……」


「機械ね、正直でいいわ」


田中は少しだけ間を置いてから、


「……今日も、しゃべっていいですか」


と言った。


電話の向こうで、女性が息を吸う音がした。


それから十五分ほど、話を聞いた。


母親のこと。


服のこと。


部屋の片付けのこと。


母親が好きだった花の色。


父親が先に亡くなって、その後の母親の静かな暮らし。


最期は病院で静かだったこと。


葬式のあとで気が抜けて、三日寝込んだこと。


服は母親が退院したら着せようと、買っておいたものだったこと。


退院は来なかったこと。


「買ったときは、ね、まだ諦めてなかったの」


「はい」


「だから、タグを外さなかったのよ」


「はい」


「でも、外さなかったのは、私がまだ諦めてなかっただけで、母はもう、わかってたのかもしれない」


「……」


「わかってたから、着ないで逝ったのかも」


「……」


「そう考えるとね、なんか悔しくて」


「はい」


「悔しい、というか、申し訳ない、というか」


女性の声は揺れたり、落ち着いたりした。


田中はただ聞いていた。


相槌を打つタイミングだけを図っていた。


図るというより、息の合間に自然に「はい」が出ていた。


この「はい」は呪いではなかった。


呪いじゃない「はい」もある、と田中は少し思った。


最後に女性は、


「聞いてくれて、ありがとうね」


と言った。


田中は少し黙ってから、


「……いえ」


とだけ答えた。


通話はそれで終わった。


田中は通話を終えた。


モニターに次の応答ランプが、もう点滅している。


三件分、溜まっていた。


田中はヘッドセットを一度外した。


耳の後ろが少し痛い。


ブースの天井を見上げた。


蛍光灯のカバーの虫の死骸。


今日もそこにあった。


いつもなら気づかないふりをしていた。


今日は見ていた。


見ていたが、何も思わなかった。


思わないまま、田中はヘッドセットをつけた。


次の電話を取った。


昼休み。


田中は自販機の前に立っていた。


いつものカフェオレ。


缶を受け取る。冷たい。


振り返っても、今日は男はいなかった。


フロアのどこにもいなかった。


田中は少しぼんやりした。


ぼんやりしながら、(いないと気になるな)と思った。


思ってから、(気になる、って、何が?)と思い直した。


考えてもわからない。


午後、田中は電話を六件取った。


うち二件は感情ケア案件だった。


AIが処理できないケース。


田中はただ聞いていた。


聞きながら、自分の「はい」が呪いなのか、そうじゃないのか、ときどきわからなくなった。


わからなくなるたびに、田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。


夕方、五時半。


田中は帰り支度をしていた。


鈴木が来ないことを確認した。


当たり前だった。早退なのだから。


それでも、田中は少しだけ、鈴木のブースを見た。


モニターは暗いままだった。


(明日、来れるかな)


と思った。


明日のことはわからない。


子どもの熱が下がらなければ、鈴木はまた休む。


それも仕方がない。


仕方がないけど、仕事は残る。


残った仕事は誰かが取る。


たぶん田中が取る。


ブースを立った。


通路を歩く。


監査部のプレートの前を通ると、窓の向こうに、あの男がいた。


ノートPCを見ていた。


缶コーヒーがデスクに三本、置いてあった。


全部、空だった。


田中は少し見ていた。


男は気づかなかった。


田中は通路を抜けた。


駅までの道。


春の夕方の風。


田中は今日の高齢の女性の声を、ぼんやり思い出していた。


母との最後のつながり。


タグのついたままの服。


(そういうの、AIにはわからないのかな)


思って、すぐに、


(AIがわかる必要があるのかな)


と思い直した。


わからなくても、別の誰かがわかればいい。


田中がわからなくても、他の誰かがわかればいい。


でも、「他の誰か」はどこにいるんだろう。


家に着いた。


冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出した。


昨日は飲まなかった。


今日は飲んだ。


一口飲んで、テーブルに置いた。


テレビをつけなかった。


窓の向こうで、誰かが自転車で通り過ぎる音がした。


静かになった。


田中は缶を見ていた。


缶の表面に、小さく結露がついていた。


指を当てると、少し冷たかった。


冷たいまま、田中はしばらく動かなかった。


眠る前に、田中はふと思った。


(呪いじゃない「はい」を言ったのは、いつぶりだろう)


数えたことはなかった。


数えても、たぶんわからない。


でも、今日は一回だけ、呪いじゃない「はい」があった。


そのことは覚えていた。


覚えていただけで、田中は少しだけ楽になった。


明日もそれが、あるだろうか。


あるかは、わからなかった。


わからないまま、田中は布団を、少しだけ強く握った。


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