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第三話「呪いだね」

それから三日ほど経った。


男はときどき、フロアに現れた。


監査部の社員と一緒に、何かを観察してメモを取っていた。


田中のブースの近くに、立っていることもあった。


立ってはいるが、何かをするわけではなかった。


ただ見ていた。


田中のモニターのランプの点滅を。


隣のブースのAIの応答を。


フロアの空いている座席の数を。


田中とは目が合ったり、合わなかったりした。


田中は気にならないふりをした。


気にならないふりをするほど、少し気になっていた。


---


その日の午後一番の電話は、強めのクレームだった。


「おたくの製品、壊れてんだよ。どうすんの」


電話の向こうで、男性の声が息を吸いながら喋っていた。


怒っている。


田中にはそれが、なんとなく聞こえた。


「申し訳ございません。製品を確認させていただけますか」


「確認? 見れば、壊れてんのはわかるだろ」


「はい。ただ、型番とシリアルをお聞きしたくて」


「型番? 裏に書いてあるのか」


「はい。底面の小さなシールです」


「……ちょっと待て」


相手が電話の向こうで、動いている音がした。


何かをひっくり返している。


小さく音をたてながら。


その間、田中はモニターにクレーム履歴を表示させた。


三度目の連絡だった。


前の二回はAIが処理していた。


三度目で、人間に振り分けられた。


クレーム履歴のAIの対応記録は、どれも「ご意見として承りました」で終わっていた。


それ以上の記録はなかった。


「おい、書いてあった」


「ありがとうございます。お伝えいただけますか」


型番を読み上げてもらう。


田中はそれを入力した。


検索結果がモニターに表示される。


リコール対象のロットだった。


二ヶ月前にリコールが告知されていた。


でも、クレーム履歴の前の二回では、そのリコール情報は参照されていなかった。


AIは「ご意見として承りました」としか答えていなかった。


田中は少しモニターを見つめた。


それから通話に戻った。


「お客様、こちら、弊社のミスで、リコール対象の製品でございました」


「……は?」


「交換対応、させていただきます。申し訳ございません」


電話の向こうで、息を吐く音が聞こえた。


怒りは少しだけ引いていた。


「……なんで、早く言わないんだよ」


「申し訳ございません」


「AIの電話、三回かけたけど、誰もそんなこと、言わなかったぞ」


「はい」


田中はそれ以上、何も言わなかった。


AIはリコール情報とクレーム内容を、結びつけられていない。


それは田中もわかっていた。


でも、それを電話口でお客様に言う必要はない。


「交換品の手配をいたします」


「……頼むよ」


「はい」


通話は交換手配で終わった。


最後の男性の声は、怒りというよりは疲れた、という感じだった。


田中はそれが少し気になった。


怒れる人はまだ元気だ。


怒る余力がある、ということだ。


疲れ切った人は怒らない。


そのことを田中は最近、少しずつわかってきていた。


田中は通話を終えた。


ヘッドセットを外した。


耳の後ろが少し痛い。


ふと、顔を上げた。


田中のブースの斜め後ろに、あの男が立っていた。


ノートPCを抱えて、スマホを見ている。


田中のモニターの方向をなんとなく眺めているようにも見えた。


本当に見ていたのかは、わからない。


男の目線はスマホの画面に落ちていた。


でも、スマホを持ったまま、フロアのど真ん中に立っているというのは、少し不自然だった。


田中は黙って、ヘッドセットをもう一度つけた。


応答ランプがまた点滅している。


次の電話を取った。


午後三時。


田中は自販機の前に立っていた。


いつものカフェオレ。


缶を受け取って振り返った。


そこに、あの男がいた。


缶コーヒーのボタンを押しているところだった。


「……君さ」


初めて声を聞いた。


低い、淡々とした声だった。


ざらついた感じではなかった。


かといって、よく通る感じでもなかった。


ただ、聞き流せない声だった。


「はい」


田中は答えた。


口が勝手に動いた。


男は缶コーヒーを受け取った。


缶を片手で軽く振った。


「さっきの電話。リコールのやつ」


「はい」


「普通、AIにやらせとけばいい案件じゃない?」


「……」


田中は少し黙った。


答えが出てこなかった。


答えが出てこない、というより、答える必要を感じたことがなかった。


「君、断らないの? ああいうの」


田中は少し考えた。


「断ろうとすると」田中は言った。「喉が詰まるんです」


言ってから、田中は自分の言葉に驚いた。


誰かにそんなことを話したのは、たぶん初めてだった。


男は缶を口に運んだ。


コーヒーを一口飲んだ。


缶を口から離す動作がやけにゆっくりだった。


それから短く言った。


「呪いだね」


田中は男のほうを見た。


「……呪い?」


「そう」


男はそれ以上、説明しなかった。


スマホにまた目を落とした。


何かメモを打っている。


田中は立ったまま、自分の缶を見ていた。


冷たい。


缶の表面の結露が、指を濡らしていた。


「病気だと、医者に行けるけど」


男はスマホを見たまま続けた。


「呪いだと、行けないからさ」


「……」


「まあ、気になっただけ」


男は缶を持ったまま去っていった。


通路の監査部のほうへ。


田中はその背中を見ていた。


背中は少し猫背だった。


姿勢がいいとは言えなかった。


でも、歩き方はゆっくりしていて、急いではいなかった。


男は通路を曲がって、見えなくなった。


田中は缶を持ったまま、少しの間、自販機の前に立っていた。


名前はまだ知らなかった。


ブースに戻った。


応答ランプがまた点滅していた。


田中は通話に応答した。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


また、クレームだった。


対応はマニュアル通りに終わった。


対応しながら、田中の頭の隅に、「呪い」という言葉が残っていた。


夕方、退勤。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通った。


会議室の窓の向こうに、あの男がいた。


ノートPCを見ていた。


田中は一瞬、足を止めかけた。


止めかけて、止めなかった。


そのまま通り過ぎた。


男は田中のほうを見ていなかった。


駅のホーム。


田中は線路を見ながら、電車を待っていた。


「呪い」


口の中で小さく呟いてみた。


声にはならなかった。


電車が来た。


田中は乗った。


車内で吊革につかまりながら、田中は考えた。


呪いだと、医者に行けない。


確かにそうだ。


性格だ、と言われても、自分ではどうにもならない。


でも、呪いだと言われると、少しだけ違う気がした。


病気でも、性格でもない。


何か別のものが自分の中にある、という感じがした。


それが何なのかは、わからない。


わからないが、「呪い」という言葉は、田中の中ですんなり収まった。


家に着いて、田中は久しぶりに鏡で自分の顔を見た。


疲れた顔だった。


「呪い」と呟いてみた。


口の形は動いたが、やはり声にはならなかった。


声にはならなかったが、田中は少しだけ笑った。


笑ったというか、口の端がほんの一ミリだけ動いた。


動いただけで、田中の顔はまた元に戻った。


その夜、田中はいつもより少しだけ長く、天井を見ていた。


虫の死骸のことを考えた。


蛍光灯のカバーの黒い点。


あれは、いつからあったんだろう。


思い出せない。


思い出そうとしても思い出せないのが、田中には少し気になった。


気になったが、考えてもわからない。


考えなければ気にならない。


田中は目を閉じた。


眠るまでに少しだけ時間がかかった。


「呪い」という言葉の形を、田中は暗闇の中で何度か、口の中で確かめた。


声にはならなかった。


ならなかったが、そこにあった。


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