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第二話「気になる」

翌日の朝、七時五十分。


田中はいつもより少しだけ早く、フロアに着いた。


まだ半分くらいのブースしか、電気がついていない。


自分のブースに荷物を置いた。


椅子を引く。


その音が静かなフロアに、小さく響いた。


電源を入れた。


モニターの起動音がする。


耳の後ろにヘッドセットの跡が、まだうっすら残っていた。


昨日のも、一昨日のも、消えないうちに今日のが、また重なる。


八時半、始業。


田中はヘッドセットをつけて、モニターの応答ランプを待った。


フロアは静かだ。


AIの音声が、隣のブースから漏れている。昨日と同じ声。


昨日、聞いたのと全く同じ調子の、「こちら、24時間対応のAIオペレーターが承ります」。


何十人分が同時に、同じ言葉を話している。


そのうちのどれか一つでも、声の調子が変わったことはない。


ないと田中は思っていた。


田中は昨日の終わりに聞いた、ドアの音をなんとなく覚えていた。


誰かが入ってきた音だった。


振り返らなかった。


誰が入ってきたのかは、わからなかった。


朝になって、その記憶は少しだけ薄くなっていた。


でも、完全には消えていなかった。


消えかけて残っている何かが、喉の奥で軽く引っかかっている感じがした。


気のせいかもしれない。


---


モニターの応答ランプが点滅した。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


朝一番の電話は、配送伝票と商品の不一致だった。


男性の声は苛立ちを抑えていた。


「商品Bを頼んだはずが、Aが届いた」


田中は伝票を確認させた。


「伝票のいちばん下、小さな字で、品番が書いてあります」


「……ああ、Aだな」


「ご注文履歴には、Bが記録されています」


「……じゃあ、俺の記憶違いってこと?」


田中は少し間を置いた。


「いえ。システムのミスです。申し訳ございません」


電話の向こうで、長い息が漏れた。


怒っている息ではなかった。


疲れている息だった。


田中にはそれが、なんとなく聞こえた。


「返品と再送で、手配させていただきます」


「……頼むよ」


通話はそこで終わった。


最後の男性の声は、少し柔らかくなっていた。


田中は通話を終えて、短く息を吐いた。


入力画面を閉じた。


次の案件のランプが、また点滅していた。


まだ八時四十六分だった。


ふと、視線を感じた。


振り返ると、フロアの奥、通路の入口に、誰かが立っていた。


昨日の、自販機の男だった。


よれたパーカー、ジーンズ。


片手にノートPC、片手にスマホ。


社員証は首から提げている。


所属は今日も、よく見えなかった。


目が合ったが、男はすぐに視線を外した。


スマホの画面に、また目を落とす。


そしてゆっくりと、フロアの壁際を歩き始めた。


通路を進み、使われていないブースの前で立ち止まる。


モニターの電源ランプを、じっと見ていた。


電源が落ちているはずのモニターに、かすかに光の粒が動いていた。


待機電力のLEDだろうか。


男はその光を見ていた。


それから、スマホで何かメモを打っている。


打つ指の動きは、ゆっくりだった。


急いではいなかった。


田中は視線を戻した。


関わらないほうがいいと、なぜか思った。


関わっても、田中の仕事が楽になるわけではない。


田中の仕事は、AIが処理できない電話を取ることだ。


それは男がいても、いなくても変わらない。


午前中だけで、七件の電話を取った。


うち四件は、AIが処理できなかったクレームだった。


強い怒り、臨機応変、複雑案件——そういう案件が田中に回ってくる。


AIが三回振り分けを試み、三回とも田中に戻す。


そういう順番だった。


五件目の電話は長引いた。


客は高齢の男性だった。


孫に贈る商品の注文をしたはずが、届かないと言う。


田中は履歴を確認した。


注文は完了していた。


配送先は客の自宅となっていた。


「お客様、配送先はご自宅のご住所でご指定いただいております」


「いや、孫のとこ、って言ったはずなんだ」


「……AIの音声でご注文いただいた、と履歴に」


「うん、AIに言ったよ、孫のとこ、って」


田中は少し間を置いた。


AIは「孫のところ」と言われても、具体的な住所には変換できない。


客はそのことを知らなかった。


知らないままAIに注文して、知らないまま自宅に届いていた。


「……お客様、ご不便をおかけしまして、申し訳ございません」


「いや、俺も悪いんだけどね」


「いえ」


「AIって、わかるもんだと思ってて」


「はい」


「頭、いいんだろ、あれ」


「はい」


田中はそれ以上、何も言わなかった。


孫の住所を聞き取って、再配送の手配をした。


通話はそれで終わった。


高齢の男性の声は、最後に少しだけ申し訳なさそうだった。


田中にはそれも、なんとなく聞こえた。


昼休み。


田中は自販機の前に立っていた。


百五十円。いつものカフェオレ。


缶を受け取る。冷たい。


指が濡れる。


振り返ると、少し離れた、フロアの別の端に、あの男がいた。


コーヒーの缶を開けているところだった。


目が合ったような、合わなかったような距離で。


男は田中のほうを、少しだけ長く見た。


それから、またスマホの画面に目を落とした。


田中も視線を外した。


ブースに戻る途中、監査部のプレートの横で、男はもういなかった。


プレートだけが蛍光灯の下で、少しだけ光っていた。


田中はプレートのその文字を、一瞬だけ見た。


「監査部」と書いてあった。


それ以上は書いていなかった。


午後。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


また、怒っている人だった。


息を吸いながら喋っている。


田中にはそれが、なんとなく聞こえた。


対応はマニュアル通りに終わった。


次の電話も、次の電話も同じだった。


夕方、五時半。


田中は帰り支度をしていた。


ふと、隣のブースの先輩が顔を出した。


「今日、見かけた? 監査部の人」


「はい」


口が勝手に動いた。


先輩は少し笑って、


「なんか、うちのフロア、マークされてるらしいよ」


「……」


「業務統制の監査だってさ」


「そうですか」


「年に一度くらいで来るみたい」


「はい」


「まあ、うちら、別に怒られる要素もないから、気にしなくていいけど」


「はい」


先輩はそれ以上、何も言わず、自分のブースに戻った。


田中は荷物をまとめた。


パソコンをログオフした。


立ち上がる。


ブースを立った。


通路を歩く途中、監査部のプレートの前を通った。


プレートの横の、窓のある会議室に、あの男がいた。


ノートPCを開いたまま、何か書いている。


机の上には、缶コーヒーが二本置いてあった。


一本は空で、もう一本はまだ開いていなかった。


田中が通りかかるとき、男はちらりと顔を上げた。


目が合った。


「……」


男は何も言わなかった。


田中も何も言わなかった。


男の視線は田中を、一秒見た。


それから、またノートPCに戻った。


田中は通路を抜けた。


---


駅までのいつもの道を歩いた。


春の夕方の風が、まだ少し冷たかった。


日が落ちるのが、ほんの少しずつ遅くなっている季節だった。


(なんで、さっき、じっと見てたんだろう)


田中は少しだけ考えた。


それから、(まあ、いいか)と思った。


考えてもわからない。


考えなければ気にならない。


田中はいつもそうしてきた。


駅のホームで電車を待った。


ホームの端に、自動販売機があった。


いつも誰も使っていない。


田中も使ったことはなかった。


電車が来るまでの五分間、田中はただ線路を見ていた。


線路の向こうに、夕焼けの色が少しだけ残っていた。


電車が来た。


車内はそこそこ混んでいた。


田中は吊革につかまって揺られた。


窓の外の景色が流れていった。


見慣れた駅、見慣れた景色。


毎日、同じ時間に乗って、同じ駅で降りる。


その繰り返しの中に、田中はいた。


家に着くころには、男のことは半分、忘れていた。


半分だけ覚えていた。


風呂に入って出てきたあとに、ふと思い出した。


(あの人、どこの部署の人なんだろう)


と。


監査部、とプレートには書いてあった。


でも、それがあの男の所属なのかはわからない。


会議室にいただけで、監査部の人とは限らない。


考えて、考えてもわからない、と気づいて、田中は布団を敷いた。


横になって、目を閉じた。


耳の後ろの跡が、少し痛かった。


痛いまま、田中は眠った。


眠る少し前に、もう一度、あのドアの音が頭の中で小さく聞こえた気がした。


気がしただけかもしれない。


でも、気がしただけでも、田中の耳には残った。


残ったまま、田中は眠りに落ちた。


夢の中で、もう一度、ドアが開く音がした。


誰が入ってきたのかは、夢の中でもわからなかった。


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