第一話「はい」
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
二〇三三年、四月。
コールセンターの電話は、ほとんどAIが取るようになった。
残った少数の、人間オペレーターのうちの一人が、田中だった。
だから、田中の声を聞いた客は、ときどき、少しだけ驚く。
フロアは、静かだ。
AIの音声が、隣のブースから漏れている。
冷たくも温かくもない、ちょうど中くらいの女性の声。
何十人分のAIオペレーターが、いま、同時に喋っている。
人間オペレーターは、広いフロアに五、六人しかいない。
一列並んでいた座席のうち、使われているのは、飛び飛びの五席だけ。
ほかは、モニターが暗いまま、音もなく並んでいる。
田中は、自分のブースで、ヘッドセットをつけたまま背筋を伸ばす。
耳の後ろには、ヘッドセットの跡が、細く残っている。
昨日のも、一昨日のも、消えないうちに、今日のが重なる。
モニターの、応答ランプが点滅する。
クレーム案件。
AIが三回振り分けを試み、三回とも人間に戻した案件だった。
「田中くん、ちょっと今のクレーム、代わってくれない?」
隣のブースから、先輩が顔を出した。
「はい」
口が、勝手に動いた。
毎回、そうだ。
頼まれると、考える前に「はい」と言ってしまう。
言った後に、「あ、また言ってしまった」と気づく。
断ろうとすると、喉の奥が詰まる。
これは病気だろうか、と田中は思ったことがある。
そんなもんか、と思うことにした。
いつから、こうだったんだろう。
それも、もう、思い出せない。
先輩は、田中に電話を回して、席を立っていった。
今日、何回目だろう。
たぶん、七回目。
田中はヘッドセットを押さえ直した。
画面にクレーム履歴が表示される。
商品不良、三度目の連絡、対応時間・平均四十七分。
AIが三回振り分けを試み、三回とも人間に戻した案件だった。
田中以外の人間オペレーターは、もう席を立っていた。
誰かのブースで、冷めたお茶が、そのままになっている。
「お待たせいたしました。田中が対応いたします」
声が、乾いていた。
朝から水を飲む暇がなかった、と今になって気づく。
「……はぁ、また変わったわけ」
相手の声は、疲れていた。
怒ってはいなかった。
田中には、その二つの違いが、なんとなく、聞こえた。
怒っている人は、息を吸いながら喋る。
疲れている人は、吐きながら喋る。
ただ、なんとなく、聞こえる。
「お手元の商品、いま、近くにありますか」
「ありますよ。もう見たくもないけど」
「いま、いちど、お聞きしてもいいでしょうか」
田中が訊ねると、電話の向こうで、長い息が漏れた。
AIが処理しなかった、ということは、マニュアル外だ。
マニュアル外だから、田中に回ってくる。
田中が断らないから、回ってくる。
その順番で正しい、と田中は思っていた。
相手が話し始めた。
商品の話ではなかった。
最初は、確かに商品の話だった。
配送の箱の角が潰れていた。
開けたら、中身にも小さな傷があった。
三度目の連絡だった。
だが、数分経つと、相手の話は少しずつズレていった。
「私さ、この商品、子どものプレゼントに買ったの」
「はい」
「でも、受け取る前に、その子、引っ越しちゃってね」
田中は、黙っていた。
「元の家族のとこに、戻ることになって」
「……」
「私、あの子の親じゃないから。止められなかった」
女性の声が、少し震えた。
田中は、膝の上で、拳を、少しだけ強く握った。
「だから、もう、渡せないの」
「……」
「返品したいって、最初は思ったんだけど。でも、なんか、それも違う気がして」
ヘッドセットの向こうで、女性が、少し笑った。
「私、何を怒ってるんだろうね」
田中は、画面の「クレーム履歴」の文字を見つめた。
マニュアル上は、商品を返品扱いにして、返金処理をすれば終わる案件だった。
でも、田中は、ほかのことを訊いていた。
「……お怪我は、されませんでしたか」
言葉が、勝手に出た。
電話の向こうで、女性が、しばらく黙った。
息を吸う音だけが、かすかに聞こえた。
それから、小さな声で、
「ありがと」
と、言った。
通話が終わった後、田中はしばらく、モニターを見つめていた。
画面には、次の電話の表示が、すでに点滅している。
AIが拾えなかった案件が、また一つ、田中の番号に届いている。
田中は通話を終え、ヘッドセットを外した。
耳の後ろが、少し痛い。
ブースの天井を、ぼんやりと見上げた。
蛍光灯のカバーに、小さな黒い点がある。
たぶん、虫の死骸だ。
ずっと前からある。
気づかないふりをしていたが、今日も、そこにある。
時計を見た。
まだ、午後三時。
今日は、たぶん、あと四時間は電話を取る。
田中はブースから立ち上がり、自販機の前に行った。
フロアの奥、通路の突き当たりにある、古い自販機。
ときどき、釣り銭が詰まる。
でも、誰も直さない。
AIが直しに来るわけでもない。
人間も、わざわざ直さない。
自販機の光だけが、少し浮いて見える。
背中のほうで、自販機が硬貨を飲み込む音がした。
振り返ると、誰かがコーヒーのボタンを押しているところだった。
見たことのない、四十代くらいの男だった。
よれたパーカーに、ジーンズ。
片手にノートPC、片手にスマホ。
社員証は、首から提げている。
所属は、よく見えなかった。
「……」
男は、田中のほうを見ていなかった。
スマホの画面に、目を落としたまま、缶コーヒーを受け取っている。
目が合ったような、合わなかったような距離で、男は缶を受け取った。
去り際、男は、田中のブースの方向を、一度だけ見た。
ような気がした。
田中は、自販機のボタンを押した。
百五十円。いつものカフェオレ。
缶を受け取る。
冷たい。
缶の表面の結露が、指を濡らした。
ブースに戻る途中で、田中は、さっきの男がいた場所をもう一度見た。
誰もいない。
通路の向こうの、監査部のプレートが、蛍光灯の下で、少しだけ光っていた。
ブースに戻る。
モニターには、次の電話の表示が、もう点滅している。
田中は、ヘッドセットをつけた。
耳の後ろの痛みは、もう、気にならなくなっていた。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
今日、八回目。
たぶん、あと十回は、ある。
ヘッドセットの向こうで、別の誰かが、息を吸う音がした。
田中は、その音を、なんとなく、聞いていた。
フロアの奥で、ドアが開く音が、小さく聞こえた。
誰かが、田中のほうを、少しの間、見ていた気がした。
でも、田中は、顔を上げなかった。




