第四十七話「まあ、それでいいか」
水曜日の昼休み。
田中は自販機の前に立っていた。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
来栖がいた。
缶コーヒーのボタンを押していた。
「君さ」
「はい」
田中は答えた。
「時間、ある?」
「はい」
「少し、階段行こう」
「階段?」
「うん」
二人は階段室に入った。
三階の踊り場まで歩いた。
以前、来栖が「昔、コンサル、やってた頃に」と言った場所だった。
来栖は階段の壁に寄り掛かった。
缶を軽く振った。
田中も反対側の壁に寄り掛かった。
「田所さんと話したあと、少し考えた」
「はい」
「田中くんにも話しておこう、と思って」
「はい」
来栖は缶を口に運んだ。
一口飲んだ。
「俺、コンサル時代、『変える』仕事してた」
「はい」
「クライアントを変える、業務を変える、組織を変える」
「はい」
「全部、『変える』って動詞だった」
「はい」
「田所さんが壊れたあと、俺、しばらく考えた」
「はい」
「『変える』が正しい動詞なのか、って」
来栖は缶をもう一口飲んだ。
「結局」
「はい」
「人は、他人からは変えられない」
「……」
「自分で変わるしかない」
「はい」
「それ、十年かけてわかった」
「はい」
来栖は少しの間黙った。
田中も黙っていた。
階段室は静かだった。
誰も上がってこなかった。
誰も降りてこなかった。
「俺、監査部で『観察』だけしてる」
「はい」
「『変える』はもう、しない」
「はい」
「できるのは、『ヒントを置く』くらい」
「……」
「問いを一つ置いて、去る」
「はい」
「置いた問いを拾うかどうかは、相手次第」
「はい」
「拾ったら、相手が自分で動く」
「はい」
「拾わなくても、俺は困らない」
「……」
「そういうスタンスで、やってきた」
来栖は缶を飲み干した。
空の缶を少し軽く振った。
「で、最近思うことが一つ」
「はい」
「『これで、いいや』」
「……」
「昔の俺は、『もっとできるはず』『もっとやらなきゃ』だった」
「はい」
「今は、『これで、いいや』」
「はい」
「『まあ、それでいいか』」
「はい」
来栖は少し笑った。
「それ、俺の人生の今の結論」
「はい」
「田所さんに会って、改めてそう思った」
「……」
「田所さんも、『もう気にしてないわよ』って言ってくれた」
「はい」
「それで、『もういいかな』って」
「……」
「責め続けても、田所さんも俺も戻らない」
「はい」
「進んだ方がいい」
「はい」
「『進む』って、『大きく変える』じゃなくて」
「はい」
「『まあ、それでいいか』って受け入れて、次行く」
「はい」
「それで十分」
田中は少しの間動かなかった。
動けなかった。
来栖の言葉は重かった。
でも、重いが軽くもあった。
「……来栖さん」
「ん?」
「その話、聞けて良かったです」
「そう?」
「はい」
「僕も、『変える』って言葉、少し怖かったです」
「うん」
「『変わる』の方がいい気がしてます」
「うん。それ、正解かもしれない」
来栖は少し頷いた。
田中は少し息を吸った。
「来栖さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「うん」
来栖の「うん」は、いつもより柔らかかった。
「まあ、気になっただけ」ではなかった。
「気になっただけ」でごまかす答えは、今日は出なかった。
「うん」だけだった。
短い一音だったが、田中には十分だった。
来栖の人生の核心の話を聞いて、「ありがとうございます」と答えた。
来栖は「うん」と受け止めた。
それだけで、二人の間に流れていた何かが少し変わった。
「さて、戻るか」
来栖は言った。
「はい」
「俺、午後、別のフロア行く」
「はい」
「田中くん、頑張って」
「はい」
来栖は空の缶を持って、階段を降り始めた。
田中は踊り場に少しの間立っていた。
来栖の足音が、階段の下の方から聞こえた。
遠くなって消えた。
田中もようやく動いた。
階段を自分のフロアに戻る方向に上がった。
ブースに戻った。
応答ランプが点滅していた。
田中はヘッドセットをつけた。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
感情ケア案件だった。
顧客は少し泣いていた。
返品の理由を聞かれるのが辛い、と言った。
田中は「理由、お聞きしなくて大丈夫です」と答えた。
顧客は少し楽になった声で、「ありがとうございます」と言った。
通話は十分で終わった。
田中は通話を終えた。
今日の田中の「ありがとうございます」と、通話先の顧客の「ありがとうございます」が重なっていた。
「ありがとうございます」は、ヒントを受け取った時の応答だった。
田中は来栖からヒントをもらった。
顧客は田中からヒントをもらった。
その連鎖だった。
連鎖がフロア全体に広がっていった。
夕方、退勤。
田中は通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室は空いていた。
来栖は別のフロアに行ったらしかった。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎながら、田中は少し思った。
(来栖さんの話、忘れないでおこう)
「結局、人は他人から変えられない」
「自分で変わるしかない」
「ヒントを置くくらいしかできない」
「まあ、それでいいか」
四つのフレーズ。
田中の中で、今日ずっと回っていた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「来栖さん、人生哲学」
「一. 人は、他人から変えられない」
「二. 自分で変わるしかない」
「三. ヒントを置くくらいしかできない」
「四. まあ、それでいいか」
「僕、『ありがとうございます』」
「来栖さん、『うん』」
書いて、少しの間見ていた。
見ているうちに、田中は少し笑った。
笑ったというか、口の端が動いた。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中はずっと来栖の言葉を頭の中で反芻した。
(まあ、それでいいか)
それは諦めではなかった。
受容だった。
受容は動きを止めるものではなかった。
動きながら受容する。
受容しながら動く。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
今日の苦さは深かった。
でも、悪くなかった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに田中は一つだけ考えた。
(来栖さんの仮面、少しだけ落ちた)
「まあ、気になっただけ」の仮面。
今日、その仮面は「うん」に置き換わった。
「うん」は田中への直接の応答だった。
それだけで、田中には十分だった。
十分だったが、田中は少し寂しくもあった。
来栖と田中の距離は、今日で少し縮まった。
縮まったということは、別れが近づくことでもあった。
(最終日がいつか来る)
田中は思った。
それがいつかはわからない。
でも、来るのは確かだった。
来た時、田中はどう答えるだろう。
眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は来栖の「うん」をもう一度聞いた気がした。
「うん」は静かで、短く、柔らかかった。
田中の中にずっと残った。




