第四十六話「ヒント」
火曜日の朝。
田所と来栖の再会から、五日経っていた。
田中はフロアに入った。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に来栖がいた。
今日は少し違った顔をしていた。
顔は似ていた。
でも、何かが違っていた。
肩の力が少し抜けていたかもしれない。
あるいは、姿勢が少し楽になっていたかもしれない。
田中はそのまま通り過ぎた。
来栖は田中を見なかった。
田中も声をかけなかった。
ブースに座って、田中は朝の電話を取った。
朝一番、強い怒り案件だった。
「お前ら、何回同じミスするんだよ!」
男性の声。
息を吸いながら喋っていた。
田中は落ち着いて対応した。
粘った。
粘って状況を聞いた。
顧客は配送の遅延で怒っていた。
三回目の電話らしかった。
田中は履歴を確認した。
AIの対応記録を見た。
AIは最初の二回、「ご迷惑をおかけしました」だけ返していた。
追加の対応は何もしていなかった。
「お客様、過去二回のご連絡の内容、確認しました」
「はい」
「誠に申し訳ございません」
「……で?」
「本日以降の配送スケジュールをお伝えします」
「はい」
「さらに、過去二回の遅延のご迷惑として、次回送料無料で対応させていただきます」
「……おう」
「誠に申し訳ございませんでした」
顧客の怒りは少し引いた。
田中は丁寧に配送の進捗を説明した。
通話、二十分。
通話終了後、田中はヘッドセットを押さえ直した。
ヘッドセットを外した。
耳の後ろが少し痛かった。
田中はモニターを見た。
今日の案件ログを開いた。
「強い怒り案件」の欄に、自分が対応した件数が並んでいた。
今月、十二件。
先月は十八件だった。
(減ってる)
AIの判定ロジックが変わった効果だった。
田中に集中していた件数が、フロア全体に平均化されていた。
十時、田中はふと立ち上がった。
給湯室に水を飲みに行った。
戻る途中、監査部の前を通った。
来栖が会議室から出てきた。
目が合った。
「君さ」
「はい」
田中は答えた。
「今、時間あるかな」
「……少しなら」
「三分くらい」
「はい」
二人は自販機の前に移動した。
来栖は缶コーヒーを買った。
田中はいつものカフェオレ。
「先日、田所さんに会った」
「はい」
「ありがとう、田中くん、繋いでくれて」
「いえ」
「『あの時、あなたも怖かったでしょう?』って言われた」
「……はい」
「二十年気づかなかったことだった」
「はい」
「俺、『田所さんを壊した』とずっと思っていた」
「はい」
「でも、本当は『自分が怖かったから動いた』」
「……」
「怖さが原動力だった」
「はい」
「怖さが人を壊す動きに繋がっていた」
来栖は缶を軽く振った。
「でも、それに気づいたからって、全部解決じゃない」
「はい」
「ただ、少し見え方が変わった」
「はい」
「田中くんにも一つ、問いを置いていく」
「はい」
「君の『呪い』も、本当は何かの『怖さ』かもしれない」
田中は少し黙った。
「呪いの下に、別のものある?」
田中は考えた。
「……わかりません」
「今わかる必要ない」
「はい」
「気が向いた時、考えて」
「はい」
「まあ、気になっただけ」
来栖はそう言い残して去っていった。
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田中はブースに戻った。
午後、電話を取り続けた。
取りながら、頭の隅で来栖の問いを反芻した。
(呪いの下に別のもの)
田中は自分の中を少し覗いてみた。
「断れない」の下に何かがあるか。
一瞬、田中は父親の顔を思い出した。
厳しい父親だった。
いや、厳しかったかどうかは、よく覚えていない。
ただ、父親に「嫌だ」と言えなかった記憶があった。
(あれ、怖さだったのかな)
父親はもう亡くなっていた。
十年前くらいに。
田中は父親の葬式で泣かなかった。
泣けなかった。
それは「悲しくない」からではなかった。
「悲しい」と感じる余裕がなかったからだった。
(怖かったのかな、子供の頃)
田中は考えた。
考えたが、はっきりはしなかった。
でも、少し思い当たる節はあった。
思い当たる節があったこと自体が、田中の「呪い」の起源に一歩近づく動きだった。
でも、完全に解き明かす必要はなかった。
「呪いの下に怖さがあるかもしれない」。
その視点を持つことだけで、田中は少し楽になった。
五時半。
田中は帰り支度をしていた。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に来栖はいなかった。
早めに退勤したらしかった。
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駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「呪いの下に別のもの」
「来栖さん、『自分が怖かったから動いた』」
「僕、父親」
書いて、少し見ていた。
「僕、父親」の下に何も書かなかった。
続きはまだ言語化できなかった。
でも、少し思ったことの記録は残した。
電車が来た。
田中は乗った。
揺られながら、田中は思った。
(呪いに起源がある)
(起源を知ることは、解くこととは違う)
(知っても解けないかもしれない)
(でも、知ることは呪いと共に生きるヒントになる)
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家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
苦さは今日は深かった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに田中は一つだけ考えた。
(父親の顔、久しぶりに思い出した)
顔ははっきりしなかった。
でも、少しだけ覚えていた。
眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は子供の頃の自分を夢で見た気がした。
小さい田中が、誰かに「はい」と言っていた。
相手は父親のようにも見えた。
よくはわからなかった。
朝、目が覚めた時、その夢はもう、ほぼ消えていた。
でも、少しだけ残っていた。
残ったまま、田中は次の週を始めた。




