第四十五話「再会」
木曜日の朝。
田中はいつもより少しだけ早く、フロアに着いた。
昨日、田所から預かった言葉を、来栖に伝えるためだった。
監査部の会議室に近づいた。
ドアは閉まっていた。
田中はノックをした。
「はい」
来栖の声。
田中はドアを開けた。
来栖はノートPCを見ていた。
缶コーヒーがデスクに一本。
まだ開いていなかった。
「……田中くん?」
来栖は少し驚いた顔をした。
「はい。朝、すみません」
「何?」
「昨日、業務管理部の会議で、田所美津子さんにお会いしました」
来栖の顔が一瞬止まった。
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止まったまま、数秒動かなかった。
田中は続けた。
「田所さん、『会いたい』と仰っていました」
「……」
「来栖さんに伝えて、と」
来栖は少し目を閉じた。
閉じたまま、しばらく動かなかった。
「……そうか」
「はい」
「田所さん、今どこで」
「業務管理部の相談役として、パートタイムで」
「そう」
「復帰されています」
来栖は少し頷いた。
「元気?」
「……はい、元気そうでした」
「……」
来栖は缶コーヒーを開けた。
一口飲んだ。
飲み終わったあとで、缶を軽く振った。
「会うか」
来栖は小さく言った。
「はい?」
「会う、会いたいと言ってくれてるなら」
「……」
「今更避けるのは違うな」
田中は少し頷いた。
「もしよろしければ、業務管理部経由でお声がけできます」
「いや」
「はい?」
「自分で行く」
「はい」
来栖は少し笑った。
笑ったというか、口の端が少し動いた。
「ありがとう、田中くん」
「いえ」
田中は会議室を出た。
出てから少し息を吐いた。
(伝えた)
田中はノートに書かないと決めた。
このことはノートに残さない。
来栖と田所のことだった。
田中のものではない。
田中はただ届けただけだった。
朝一番の電話は複雑案件だった。
法人顧客のサービスを複数同時に解約。
田中は丁寧に対応した。
通話、五十分。
対応中、田中の頭の隅でときどき、来栖と田所のことが浮かんだ。
浮かんでは消えた。
田中は自分の仕事に戻った。
午後、三時頃。
田中はふと、フロアの入口の方向を見た。
田所が立っていた。
グレーのブラウスに、ベージュのカーディガン。
昨日と同じ服。
田所はゆっくりフロアに入ってきた。
田中の方向を見、会釈した。
田中も少し会釈を返した。
田所はそのまま通路を進み、監査部の方向に歩いていった。
田中は通話に応答している途中だった。
通話中のまま、田所の背中を少し見ていた。
十分後、田中は通話を終えた。
通話を終えたあと、田中は立ち上がった。
給湯室に向かうふりをして、通路を歩いた。
監査部の会議室の前を通った。
ドアは閉まっていた。
中から声が聞こえた。
小さい声だった。
来栖と田所の声だった。
田中は立ち止まらなかった。
立ち止まったら失礼だった。
そのまま給湯室に行った。
水を一杯飲んで、ブースに戻った。
戻る途中、もう一度、監査部の前を通った。
今度はドアが少し開いていた。
中の声が少しだけ漏れていた。
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「……気にしてないわよ」
田所の声だった。
落ち着いていた。
「……」
来栖の声は聞こえなかった。
「……」
「あの時、あなたも怖かったんでしょう?」
田所は言った。
「……」
来栖の声はやっぱり聞こえなかった。
でも、沈黙は長かった。
田中はそれ以上聞かなかった。
聞いたら失礼だった。
ブースに戻った。
ヘッドセットをつけた。
応答ランプが点滅していた。
田中は取った。
午後、田中は淡々と電話を取り続けた。
取りながら田中は思った。
「あの時、あなたも怖かったんでしょう?」
田所のその一言は、来栖の何かを溶かす一言だったかもしれない。
田中にはわからなかった。
でも、来栖の沈黙は長かった。
長い沈黙は、何かが動いている時間だった。
夕方、五時。
田中は通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に来栖がいた。
一人だった。
田所はもう帰っていた。
来栖はノートPCを見ていなかった。
ただデスクの上を見ていた。
何も置かれていないデスクの上。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎる時、来栖は顔を上げなかった。
田中は声もかけなかった。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
今日は何も書かなかった。
書くことが田中のものではなかったから。
電車が来た。
田中は乗った。
揺られながら田中は思った。
(「あの時、あなたも怖かった」)
田所のその問いは、来栖の呪いを初めて他人から言葉にしたものだった。
呪いは言葉にされると少し軽くなる。
田中は「呪いだね」と来栖に言われた時、軽くなった。
来栖も田所に「怖かったんでしょう?」と言われて、少し軽くなったかもしれなかった。
呪いの連鎖だった。
呪いを受け取る側になることで、人は少し救われる。
田中は呪いを受け取って動いた。
来栖も呪いを受け取って動くかもしれない。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
今日の苦さは深かった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに田中は一つだけ考えた。
(来栖さん、今頃どうしているかな)
家に帰って一人だろうか。
一人で何かを考えているだろうか。
田中が考えてもわからないことだった。
でも、考えること自体は田中の選択だった。
田中は今日、考えることを選んだ。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は来栖の長い沈黙をもう一度聞いた気がした。
沈黙の中には何かが動いていた。
動きは田中には見えなかった。
でも、明日の来栖は少し違う来栖かもしれない。
違うかもしれない、と思えることが今日の田中の希望だった。
希望という言葉を田中は使わなかった。
使わなかったが、感覚はそうだった。




