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第四十四話「田所さん」

水曜日の午後、一時半。


田中は業務管理部の会議室に呼ばれていた。


「オペレーター、マニュアル改善、意見交換会」。


業務管理部と、IT推進部と、現場のオペレーター合同の会議。


二週間に一度開催の運びになっていた。


田中は会議室のドアを開けた。


中には業務管理部の担当者が二人と、佐藤がもう座っていた。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです」


田中は席に座った。


「今日、一人、新しいメンバー、参加いただきます」


業務管理部の担当者が言った。


「田所さん、入ってください」


ドアが開いた。


年配の女性が入ってきた。


六十代に近い年齢だった。


グレーのブラウスに、ベージュのカーディガン。


落ち着いた顔。


少しゆっくり歩く女性。


「田所美津子です。よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


田中も挨拶した。


田所という名前を、田中は少しどこかで聞いた気がした。


でも、どこで聞いたかは思い出せなかった。


「田所さん、元うちのコールセンター、ベテランだったんです」


業務管理部の担当者が説明した。


「二十五年勤務されてて」


「はい」


「少しお休みされてたんですが、今月復帰です」


「はい」


「今は、フロアのご経験を踏まえ、マニュアル改善の助言、という立場です」


「はい」


田所は田中の方を少し見た。


「田中さん、ですね」


「はい」


「お話、伺っています」


「……そうなんですか」


「マニュアル書き換え、主導されていると」


「……はい」


「頼もしいですね」


田所は少し笑った。


落ち着いた笑顔だった。


---


会議が始まった。


議題はカタログ変更の進捗と、次の改善領域の選定。


田中は自分のノートをもとに、「次の候補、三つ」を説明した。


「返品・交換の特例対応」


「緊急配送の例外フロー」


「感情ケア案件の対応ガイドライン」


田所は三つ目に少し反応した。


「感情ケアのガイドライン、ですか」


「はい」


「どういう内容を想定されてますか」


田中は少し考えた。


「ガイドラインというより、『手放す許可』みたいなものです」


「手放す?」


「はい」


「オペレーターが『聞くしかできない』時、『聞くだけでいい』と明示的に書く」


「……」


「多くのオペレーターが、『解決しなきゃ』と思って疲弊するので」


田所は少し頷いた。


「それ、大事です」


「はい」


「私、現役の頃、その『解決しなきゃ』で潰れかけました」


田中は少し目を瞬かせた。


「……潰れかけた?」


「はい」


「二十年前、業務改革があって」


「……」


「その時、私、潰れて、しばらく休んでいました」


田中は少しの間動かなかった。


加藤の話を思い出した。


来栖の話を思い出した。


「一人壊れた」。


「……」


田中は何と言うべきかわからなかった。


言葉にしない方がいい気もした。


田所は少し笑った。


「今は大丈夫です」


「はい」


「でも、その経験から言うと、『聞くだけでいい』というガイドライン、ほしいですね」


「はい」


「それ、田中さんの提案、応援します」


---


会議は一時間で終わった。


田中は席を立った。


業務管理部の担当者と佐藤は先に会議室を出た。


田所は少しゆっくり立ち上がった。


田中は田所を待った。


「田所さん」


「はい」


「私、コールセンターのオペレーターの田中です」


「はい」


「先ほどのお話、一つお聞きしてもいいですか」


「どうぞ」


田中は少し息を吸った。


「二十年前、業務改革に関わっていたコンサルの人」


「はい」


「来栖慎吾さん、ってご存じですか」


田所は一瞬、目を瞬かせた。


それから少し笑った。


「ご存じです」


「……そうですか」


「田中さん、どうして来栖さんのお名前を?」


「……うちの監査部にいらっしゃいます」


田所は少し頷いた。


「ああ、そうでしたか」


「はい」


「元気ですか」


「……元気だと思います」


「そうですか」


田所は少しゆっくり頷いた。


「会いたいかもしれない」


「……」


「来栖さんに会ったら、田所が『会いたい』って言ってた、と伝えてもらえます?」


田中は少し息を吸った。


「……お伝えします」


「ありがとうございます」


田所はゆっくり会議室を出ていった。


田中は会議室に一人残った。


---


(「会いたい」)


田所はそう言った。


「責める」でも、「恨む」でも、「謝罪を受けたい」でもなかった。


「会いたい」だった。


田中はその言葉を、来栖にどう伝えるか考えた。


考えながら会議室を出た。


廊下を歩きながら、田中は少し息を吐いた。


「会いたい」の意味は、田中にはわからなかった。


来栖の過去と向き合うためかもしれない。


田所自身の過去と向き合うためかもしれない。


あるいは、単純に久しぶりに会いたいだけかもしれない。


ブースに戻って、田中は少しの間動かなかった。


今日聞いたことは、田中の中で重かった。


でも、重いが軽くもあった。


田所は元気そうだった。


「もう気にしていない」というような雰囲気だった。


(来栖さん、知ってもいいことか)


田中は少し迷った。


迷ったが、迷う必要はなかった。


田所が「伝えてもらえますか」と頼んだ。


依頼は依頼だった。


田中の役目は伝えることだった。


夕方、五時半。


田中は通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通った。


会議室に来栖がいた。


今日もノートPCを見ていた。


田中は少し立ち止まった。


今伝えるか、迷った。


迷って、結局、今日は伝えなかった。


明日の朝、伝えることにした。


今日は田中も整理する時間が必要だった。


通路を抜けた。


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを開いた。


「田所美津子さんに会った」


「二十年前、業務改革で潰れた元オペレーター」


「今は復帰、パートタイム、相談役」


「来栖さんに、『会いたい』と伝えてほしい、と」


書いた言葉を、田中は少しの間見ていた。


電車が来た。


田中は乗った。


家に着いた。


ノートをテーブルに置いた。


今日は缶ビールを買ってこなかった。


飲みたい気分ではなかった。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに田中は一つだけ考えた。


(明日、来栖さんにどう伝えるか)


田中はいくつか言い方を、頭の中で練習した。


「来栖さん、昨日、田所さんにお会いしました」


「『会いたい』と仰っていました」


短い二文になった。


それで十分な気がした。


眠った。


眠りは浅かった。


浅い眠りの中で、田中は田所の「元気ですか」の声をもう一度聞いた気がした。


声は柔らかかった。


怒りも悲しみも混じっていなかった。


ただ、静かな問いだった。


静かな問いが、田中の耳に残ったまま、朝が来た。


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