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第四十三話「広がり」

二週間経った。


加藤は退職した。


フロアには新しい顔が二人入ってきた。


一人は若い男性。二十三歳、新卒、入社三年目で異動。


もう一人は中途採用の女性、三十歳。


月曜日の朝、鈴木が田中のブースに顔を出した。


「田中くん、新しい子のOJT、お願いできる?」


以前の田中なら、考えもせず「はい」だった。


今日は少し考えた。


「……OJTって、どのくらいの期間ですか」


「二週間くらい」


「はい」


「無理なら、中村くんでもいいんだけど」


「中村さん、来週異動じゃないですか」


「そう、そう、だから田中くんにお願いしたくて」


田中は頷いた。


「承ります」


「ありがとう」


鈴木は新人二人を田中に紹介した。


若い男性は小林。


女性は宮本。


二人とも落ち着いた顔をしていた。


少し緊張していた。


「田中くんがOJT担当です」


「よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


田中は少し息を吸った。


OJT担当は田中には初めてだった。


何から話せばいいか、わからなかった。


でも、加藤の言葉を思い出した。


「一人じゃ無理、って次の世代に伝えて」


---


田中は二人を休憩室に連れていった。


三人でテーブルに座った。


「最初に、一つだけお話します」


「はい」


「このフロア、一人で全部抱える場所じゃないです」


「……はい」


「困った時、隣の人に聞いて大丈夫」


「はい」


「聞いても答えがわからないことありますが、『わからない』って答えもOKです」


「はい」


「マニュアル、絶対正しいとは限らないので、疑っていいです」


田中は少し笑った。


小林は少し目を瞬かせた。


「……マニュアル、疑っていいんですか」


「はい」


「他の会社は絶対マニュアル通りでした」


「うちも基本はそうです」


「はい」


「でも、マニュアル外のケースが実は多い」


「はい」


「その時、どう判断するかが大事」


「……」


「判断、迷ったら聞いてください」


宮本は少し頷いた。


「田中さんとは、どう相談するのがいいですか」


「ブース、近いので、直接声かけてください」


「はい」


「メールでもいいです」


「はい」


「緊急なら内線」


「はい」


三人で少しの間、話した。


田中は自分が「説明する」側になっているのに、少し戸惑った。


戸惑いながら話を続けた。


話しながら、田中は少しずつ慣れた。


午前中、田中は二人の隣で、電話対応を見守った。


小林は緊張していた。


マニュアル通りに答えようとしていた。


でも、顧客の質問がマニュアル外で、詰まった。


「お客様、少々お待ちください」


小林は保留を押した。


田中の方を見た。


田中は小林のモニターを見た。


案件、確認した。


「返品期間過ぎてるけど、特例対応でいけます」


田中は小さく言った。


「特例?」


「はい。弊社負担で、引き取り処理」


「……マニュアル、見ても書いてないです」


「書いてないです。でもできます」


「……」


「私が責任持ちます」


小林は頷いた。


保留を解除した。


「お客様、申し訳ございません。特例で、引き取り対応させていただきます」


顧客は、「そうですか、ありがとう」と言って電話を切った。


通話が終わった。


小林は少し息を吐いた。


田中は少し笑った。


「大丈夫でした」


「……ありがとうございます」


「慣れたら、自分で判断できるようになります」


「はい」


「でも、最初は聞いてください」


「はい」


午前中、田中は二人の電話を五件フォローした。


そのたびに、田中は「判断の理由」を説明した。


説明しながら、田中は自分の判断の基準を言葉にした。


言葉にしてみると、意外に整理されていた。


(僕、こうやって判断してたのか)


田中は思った。


無意識だった判断が、言葉で見えた。


見えたものは、仕組み化できた。


昼休み。


田中は自販機の前に立った。


来栖がいた。


缶コーヒーのボタンを押していた。


「君さ」


「はい」


「OJT担当だって?」


「……はい」


「慣れた?」


「……少しずつ」


来栖は少し頷いた。


「教えるのが一番学ぶ、と言うよね」


「はい」


「教えながら、自分の判断、言語化できる」


「はい」


「言語化できたら、仕組み化できる」


「はい」


「それ、まさに田中くんがやりたいことだろ」


「はい」


来栖は少し笑った。


「OJT、思わぬ仕組み化の種」


「……なるほど」


「まあ、気になっただけ」


来栖は缶を持ったまま、去っていった。


田中はブースに戻った。


戻って、午後、小林と宮本のフォローを続けた。


午後、複雑案件が小林のブースに振られた。


法人の複数部署に跨る契約変更。


マニュアル外。


田中は小林の隣で、流れを説明した。


「まず、全部署の情報を整理」


「はい」


「整理できたら、各部署に確認取る」


「はい」


「確認取れたら、統合してお客様に提示」


「はい」


「時間、一時間かかります。お客様に先に伝えて」


「はい」


小林は田中の指示通りに進めた。


通話、五十分で終わった。


小林は少し息を吐いた。


「……できました」


「はい」


「田中さん、見ててくれたおかげです」


田中は少し笑った。


「次、一人でできるようになります」


「はい」


夕方、退勤前。


田中は自分のブースで、今日のメモを書いた。


「OJT一日目」


「小林、宮本、緊張気味」


「特例処理の概念、教えた」


「判断理由の言語化、意識した」


「これ、仕組み化の一歩」


書いて、田中は少し頷いた。


OJTは田中にとって、新しい動きだった。


でも、動いてみたら、田中の仕事と繋がっていた。


「教える」と「仕組み化」は、同じ方向だった。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通った。


会議室に来栖がいた。


今日はノートPCを開いて、何か書いていた。


田中は通り過ぎた。


通り過ぎるとき、来栖は顔を少し上げた。


目が合った。


来栖は少し頷いた。


田中も頷き返した。


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを開いた。


「OJT、始まった」


「教えながら、自分の判断、言語化」


「来栖『教える=学ぶ、言語化=仕組み化』」


書いたあとで、田中は少し笑った。


来栖の問いが、今日も田中の中で動いていた。


電車が来た。


田中は乗った。


家に着いた。


ノートをテーブルに置いた。


缶ビールを開けた。


一口飲んだ。


苦い。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに田中は一つだけ考えた。


(次の世代に伝える)


加藤の言葉だった。


田中は今日、それを始めた。


始めたこと自体が、田中の新しい動きの一歩だった。


目を閉じたまま、田中は小林の少し緊張した顔を思い出した。


少し前の田中に似ていた。


「はい」ばかり言っていた頃の自分。


田中は今、その「自分」の隣にいて、教える側になっていた。


教えることで、田中は自分の過去と少し繋がっていた。


繋がりは悪くなかった。


繋がりのまま、田中は呼吸を整えた。


整えた呼吸が、少しずつ深くなった。


深くなった呼吸の先で、意識が静かに薄れていった。


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