第四十二話「加藤さんの、最後」
三週間があっという間に経っていた。
加藤の定年再雇用の最終日。
金曜日の朝。
田中は朝、フロアに着いた時、加藤のブースを一度見た。
加藤はもう来ていた。
いつものように缶コーヒーを開けて、モニターを見ていた。
最終日だけど、特別な様子はなかった。
田中は自分のブースに座った。
モニターを起動した。
応答ランプが点滅を始めた。
田中はヘッドセットをつけた。
朝一番、感情ケア案件だった。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
「……あの」
女性の声だった。
五十代くらい。
疲れていた。
「父の介護用のベッド、注文していたのですが」
「はい」
「昨日、父が亡くなりまして」
「……お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
「キャンセル手続き、承ります」
「はい」
田中は淡々と処理した。
「送り返しでなく、破棄処理でご対応できます」
「……よろしいんでしょうか」
「はい」
「助かります」
通話は八分で終わった。
女性は落ち着いて電話を切った。
田中は通話を終えた。
一年前の高齢の女性の、服の話を思い出した。
同じ破棄処理だった。
でも、あの時の田中は何と答えるか迷っていた。
今は迷わず、「破棄、対応できます」と即答できた。
対応が速いのは、経験の積み重ねだった。
積み重ねたのは田中だけではなかった。
鈴木、中村、加藤、先輩。
フロア全体の積み重ねだった。
十時、休憩。
田中は加藤のブースに行った。
加藤は書類を整理していた。
「加藤さん」
「おう」
「今日、最後ですね」
「うん」
「これ、どうぞ」
田中は小さな紙袋を差し出した。
中にコーヒー豆の袋が入っていた。
加藤の好きなブランドだった。
田中が一度聞いたことがあった。
「ほう」
加藤は袋を受け取った。
「よく覚えてたな」
「はい」
「ありがとう」
「いえ」
加藤は袋をデスクに置いた。
「田中くん」
「はい」
「座れ」
加藤は隣の椅子を示した。
田中は座った。
「俺、退職したあと、どうするか決めた」
「はい」
「しばらく、何もしない」
「……」
「疲れた」
加藤は少し笑った。
「でも、悪い疲れじゃない」
「はい」
「最後の一年、面白かった」
「はい」
「田中くんに会えたから」
田中は少し黙った。
「……僕からも同じです」
「うん?」
「加藤さんがいなかったら、マニュアル書き換え進まなかった」
「そうかな」
「はい」
「一人でやるの、無理でした」
加藤は少し笑った。
「それ、田中くん、認められるの、強みだよ」
「……」
「『一人でできた』って言う人、多いから」
「はい」
「田中くん、『一人じゃ無理』って言える」
「はい」
「それ、次の世代に伝えて」
田中は少し黙った。
「次の世代?」
「うん」
「これから、若いオペレーター、入ってくるだろ」
「はい」
「その子たちに、『一人じゃ無理』『頼っていい』って教えて」
「……はい」
「それが田中くんの非公式ポジションの仕事になるかもしれない」
「はい」
「『仕組みを作る』って、結局そういうことだから」
田中は頷いた。
加藤は缶コーヒーを飲んだ。
「加藤さん」
「ん?」
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「うん」
「加藤さんの昔、壊した人って、今どうしているかご存じですか」
加藤は少し黙った。
「……知らない」
「はい」
「辞めたあと、連絡取ってない」
「はい」
「会社辞めた時、俺、とても会いに行ける状態じゃなかった」
「……」
「今だったら、会いに行けるかもしれない」
「はい」
「でも、会っても何を言うかわからない」
加藤は少し笑った。
「だから、会いに行かない」
田中は頷いた。
加藤の選択だった。
田中が口を出すことではなかった。
「加藤さん、退職後、時間できたら、コーヒー一緒に飲みませんか」
「お、いいな」
「はい」
「連絡するよ」
「はい」
加藤はデスクの上のコーヒー豆の袋を、少し動かした。
「田中くんがくれたこれ、最初の一袋として使わせてもらう」
「はい」
「『田中くんにもらったコーヒー』って覚えておく」
「……はい」
十五分の休憩が終わった。
田中はブースに戻った。
午後、田中は電話を取り続けた。
取りながら、ときどき加藤の方向を見た。
加藤は最後まで、普段通りに電話を取っていた。
五時半、加藤が立ち上がった。
フロアの他のオペレーターも立ち上がった。
誰が言い出したわけでもない。
でも、自然に加藤のブースの方向に集まっていた。
鈴木、中村、先輩、他のオペレーター、そして田中。
加藤のデスクの周りに、七、八人立っていた。
「加藤さん、お疲れさまでした」
鈴木が先に言った。
「お疲れさまでした」
他の声が重なった。
加藤は少し笑った。
「ありがとう」
「加藤さんのおかげで助かったこと、たくさんあります」
鈴木が続けた。
「うん」
「また、いつかコーヒー飲みましょう」
「うん、そのつもり」
加藤はカバンを持って立ち上がった。
デスクには何も残っていなかった。
加藤の荷物はカバン一つだった。
「じゃ」
加藤はフロアを出ようとした。
田中は少し声をかけた。
「加藤さん」
加藤は振り返った。
「コーヒー豆、忘れてます」
加藤は少し笑った。
「おっと」
戻って、コーヒー豆の袋をカバンに入れた。
「ありがとう」
「はい」
「じゃ、また」
「はい、また」
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加藤はフロアを出ていった。
フロアは静かになった。
AIの音声が隣のブースから漏れているのが、いつもよりはっきり聞こえた。
田中は自分のブースに戻った。
座った。
しばらく動かなかった。
加藤のブースのモニターは、もう暗くなっていた。
(また、会おう)
加藤はそう言った。
連絡、取ろうと田中は思った。
五時四十分、田中は帰り支度をした。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に来栖がいた。
ノートPCを閉じて、何かの書類を読んでいた。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎるとき、来栖は少し顔を上げた。
目が合った。
来栖は小さく頷いた。
「加藤さん、退職だって?」
「はい」
「寂しいね」
「はい」
来栖はそれ以上言わなかった。
田中も頷いた。
そのまま通路を歩いて、フロアを出た。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「加藤さん、退職。最終日。コーヒー豆、渡した」
「また連絡する約束」
書いて、少しの間見ていた。
電車が来た。
田中は乗った。
揺られながら、田中は思った。
加藤が言った。
「一人じゃ無理、って次の世代に伝えて」
田中は「伝える」ことをほとんどやってこなかった。
でも、加藤はそれを田中の仕事にした。
自然に、しれっと渡した。
田中は渡された事実を受け取った。
受け取ったこと自体が、加藤への最後の応えだった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
今日の苦さは別れの苦さだった。
でも、悪い苦さではなかった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに田中は一つだけ考えた。
(加藤さん、また会える)
(いつになるかわからない)
(でも、会えるはず)
眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は加藤の「また連絡する」の声をもう一度聞いた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいでも、明日は加藤がいない日が始まる。
始まる日は、田中の新しい日でもあった。




