第四十八話「目的、見つかった?」
一年が経った。
季節はまた、春だった。
桜はもう散っていた。
散った花びらが、駅前のアスファルトに少し残っていた。
二〇三四年、四月。
田中はいつもの時間に、フロアに着いた。
ブースの配置は少し変わっていた。
隣は鈴木ではなく、小林になっていた。
鈴木はリーダーポジションに昇格していた。
中村は営業に異動したあと、今も営業にいた。
加藤は退職後、ときどき田中とコーヒーを飲んでいた。
先月も一度会った。
元気だった。
田中はブースに座って、モニターを起動した。
応答ランプが点滅した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
午前中の電話は、淡々と進んだ。
最近、田中はブースに座っている時間が少し減った。
業務改善の会議が週三回あった。
小林のOJTの後もときどき、小林のブースに寄る時間があった。
それ以外の時間は、電話を取っていた。
田中の肩書は、今も「オペレーター」のままだった。
部長に提案した「業務改善担当」のポジションは、まだ新設されていない。
でも、田中の動きは事実上、それに近くなっていた。
佐藤は相変わらず田中と連携していた。
カタログ変更は八百種類、完了した。
次は「返品・交換、特例対応」のマニュアル化を進めていた。
田所美津子は、業務管理部でパートタイム勤務を続けていた。
田中は月に二回、田所と打ち合わせをしていた。
田所は落ち着いていた。
来栖慎吾は監査部を離れた。
半年前、別の部署に異動していた。
田中の会社の中にはまだいた。
でも、同じフロアではなかった。
ときどき廊下ですれ違うくらいだった。
水曜日の午後、三時。
田中は自販機の前に立っていた。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
来栖がいた。
缶コーヒーのボタンを押していた。
久しぶりだった。
二ヶ月ぶりくらいだった。
「君さ」
「はい」
田中は答えた。
「元気?」
「はい」
「最近、どう」
「……マニュアル、順調です」
「うん」
「田所さんと連携して、進めてます」
「そう」
来栖は缶を受け取った。
缶を軽く振った。
少しの間、沈黙だった。
来栖は缶を口に運んだ。
一口飲んだ。
飲み終わったあと、缶を口元から離した。
離した缶を少し見ていた。
「田中くん」
「はい」
「目的、見つかった?」
田中は少し黙った。
一年前、来栖は自販機で同じ問いを置いていた。
「目的、なんでしたっけ?」
あの時、田中は答えられなかった。
今日は違った。
「……はい」
田中は答えた。
「見つかった?」
「はい」
「ほう」
「全員で動ける仕組みを作ること、です」
「うん」
「人が『訊く』時間を守ること、です」
「うん」
来栖は少し頷いた。
「いいね」
「はい」
来栖は缶をもう一口飲んだ。
「ま、お互いさま」
田中は少し首を傾げた。
「……?」
「俺も田中くんに『ヒント』を置いた気がしてたけど」
「はい」
「実は、田中くんも俺にヒント、置いてくれてた」
「……」
「『動いても壊れないこと、ある』って」
「……」
「それ、十年以上見えなかった事実だった」
「はい」
「だから、ま、お互いさま」
田中は少しの間動けなかった。
来栖が「お互いさま」と言った。
対等の関係だった、と言った。
「じゃ」
来栖は言った。
缶を飲み干した。
空の缶をゴミ箱に入れた。
「仕事、戻る」
「はい」
「また、どっかで会おう」
「はい」
来栖はそのまま通路を歩いていった。
田中は自販機の前で、少しの間立っていた。
(目的、見つかったかな)
田中は自分に問うた。
見つかった、と来栖に答えた。
でも、「見つかった」の意味は、少し前の田中が想像していたものと違った。
「見つかった目的を、達成した」わけではなかった。
まだ達成はしていない。
でも、「見つかった」と答えることはできた。
「見つかった」は「達成した」と同じではなかった。
「見つかった」は「方向が定まった」という意味だった。
方向が定まったあとの動きは、長い。
長いが歩ける。
それが田中の今の実感だった。
(あの人、いつから「ありがとう」って言わなくなったんだろう)
田中はふと思った。
来栖は一年前は、田中の「ありがとうございます」に「うん」と答えていた。
最近は「ま、お互いさま」だった。
「お互いさま」は「ありがとう」の応答より、さらに対等だった。
来栖の仮面はもう落ちていた。
「まあ、気になっただけ」を使わない日が増えていた。
田中はブースに戻った。
応答ランプが点滅していた。
田中はヘッドセットを取った。
つけた。
ランプを押した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
朝一番以来、今日、三百回目のセリフだった。
一年続けたセリフ。
いや、一年ではない。
入社以来、六年続けたセリフだった。
三百回目の「お電話ありがとうございます」は、田中の声で出た。
六年前、新人の頃の田中の声とは少し違っていた。
同じ言葉でも、音が違った。
三百回目のセリフは、もう自分のものだった。
「……あの」
顧客の声だった。
女性。
「返品、お願いしたいんですが」
「はい」
「事情、聞いてもらえますか」
「はい」
「聞いてもらえるって聞いて、電話しました」
「……はい」
「AIに話しても、うまく言えなくて」
「はい」
「人のオペレーターにお願いしたくて」
田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。
「承ります」
田中は言った。
「ありがとうございます」
「いえ」
女性は話し始めた。
短い話でも、長い話でもなかった。
ただ、少し時間のかかる話だった。
田中は聞いた。
聞くだけだった。
途中、相槌を打った。
打ちながら、田中の「はい」はもう呪いではなかった。
選んだ「はい」だった。
通話は三十分で終わった。
最後に女性は、「ありがとうございました」と言った。
田中も、「ありがとうございました」と答えた。
通話を終えた。
ヘッドセットを外した。
耳の後ろが少し痛かった。
痛みは一年前と同じだった。
でも、感じ方は違った。
田中はモニターを見た。
応答ランプがまた点滅していた。
田中は立ち上がらずに、しばらく画面を見ていた。
(これが僕の目的)
田中は思った。
「人が『訊く』時間を守ること」
今、取った電話は、その目的の一部だった。
次の電話もたぶんそうだった。
田中は立ち上がった。
ヘッドセットをもう一度つけた。
応答ランプを押した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
三百一回目のセリフだった。
まだ続く。
明日も続く。
続くこと自体が、田中の目的に含まれていた。
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夕方、五時半。
田中は帰り支度をしていた。
小林が田中のブースに顔を出した。
「田中さん、今日、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
「来週、OJT二周期目に入ります」
「はい」
「田中さん、ご指導、よろしくお願いします」
「はい」
「あの、一つお聞きしても」
「どうぞ」
「田中さん、なんでこんなに丁寧に教えてくださるんですか」
田中は少し黙った。
「……一人じゃ無理だからです」
「はい?」
「この仕事、一人で抱えると潰れる」
「はい」
「だから、早いうちに『一人じゃ無理』を伝えたい」
「……」
「それ、僕が教わったことです」
小林は少し頷いた。
「ありがとうございます」
「いえ」
小林は自分のブースに戻った。
田中はカバンを持って、フロアを出た。
通路を歩いた。
監査部のプレートは、もうなかった。
半年前、部署再編で別の階に移っていた。
今は、別の部署のプレートがそこにあった。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎながら、来栖のことを少し思い出した。
今日の「ま、お互いさま」。
その一言が、田中の中でまだ響いていた。
駅までの道を歩いた。
春の夕方の空気は柔らかかった。
風が少し吹いていた。
田中はその風を少し感じながら歩いた。
ホームで電車を待った。
ホームの端の自動販売機は、今日も誰も使っていなかった。
田中も使わなかった。
ただ、そこにあることを知っていた。
電車が来た。
田中は乗った。
吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中はノートをカバンから出した。
一年前の四月から書いていたノート。
もう半分以上埋まっていた。
最初のページを開いた。
「呪いだね」
「やる必要、ある?」
「目的、なんでしたっけ?」
「まあ、それでいいか」
来栖の問いが一つずつ並んでいた。
田中はそれを見ながら、少し笑った。
笑ったというか、口の端が動いた。
最後のページを開いた。
田中は今日の日付を書いた。
その下に、短く書いた。
「目的、見つかった」
「全員で動ける仕組みを作る」
「人が『訊く』時間を守る」
「続ける」
書いて、ノートを閉じた。
閉じたノートをカバンに入れた。
電車は揺れた。
田中は窓の外を見た。
窓の向こうで、マンションの明かりが一つ、また一つとついていった。
どの明かりの向こうにも、誰かが住んでいた。
田中はもう、「考えてもわからない」とは思わなかった。
考えてもわからないことはあった。
でも、考えること自体に意味があった。
家に着いた。
鍵を開けた。
電気をつけた。
テーブルにノートを置いた。
今日は、缶ビールを買ってこなかった。
最近、ビールを飲む頻度は減っていた。
飲みたい時だけ飲む。
それも選択だった。
夕食を食べた。
食器を片付けた。
風呂に入った。
出た。
布団を敷いた。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(来栖さん、元気だろうか)
別のフロアに行った来栖。
ときどきすれ違う来栖。
「ま、お互いさま」と言った来栖。
田中は来栖の顔を思い出した。
思い出した顔は、少し笑っていた。
笑っていたのは、たぶん田中の記憶の中だけだった。
現実の来栖は、もう少し真面目な顔をしていた。
でも、どちらでもよかった。
来栖の仮面はもう落ちていた。
田中の呪いはもう弱っていた。
二人とも完全に解けたわけではない。
でも、「まあ、それでいいか」。
眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は久しぶりに夢を見た気がした。
夢の中で、誰かがヘッドセットをつけていた。
それは田中のようにも見えたし、小林のようにも見えた。
誰でもよかった。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
声は田中の声だった。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの小林が承ります」
声は小林の声だった。
二つの声が重なっていた。
重なったまま、フロアは続いていった。
続いていった先は、朝だった。
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朝、目が覚めた。
いつもの時間だった。
田中は布団から起き上がった。
窓のカーテンを少し開けた。
春の朝の光が、部屋に入ってきた。
田中は水を一杯飲んだ。
着替えた。
カバンを持った。
家を出た。
駅までの道を歩いた。
電車に乗った。
揺られた。
降りた。
会社のビルに入った。
エレベーターに乗った。
フロアに着いた。
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ブースに座った。
モニターを起動した。
ヘッドセットをつけた。
応答ランプが点滅した。
田中は押した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
三百二回目のセリフだった。
まだ続く。
続くことが、田中の目的だった。
ヘッドセットの向こうで、誰かが息を吸った。
田中はその音をなんとなく聞いた。
怒っているのか、疲れているのか、悲しんでいるのか、わからなかった。
わからないまま、田中は答えた。
「お話、伺います」
それが田中の仕事だった。
それを田中は自分で選んでやっていた。
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選んでやっているのを、自分でわかっていること。
それが田中の「自由」だった。
自由は派手なものではなかった。
ただ、「選んでいる」と自分で知っていること、だった。
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(完)




