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第四十話「めんどくさい」

二日経った。


金曜日の昼休み。


田中は自販機の前に立った。


いつものカフェオレ。


缶を受け取って振り返った。


来栖がいた。


缶コーヒーのボタンを押していた。


田中は少し息を止めた。


「君さ」


「……はい」


田中は答えた。


久しぶりの来栖の声だった。


約三週間ぶりだった。


「元気?」


「……はい」


「元気じゃないな」


来栖は少し笑った。


笑ったというか、息を短く吐いた。


「水曜日、部長、ダメだった?」


田中は少し驚いた。


「……聞いてたんですか」


「加藤さんから」


「はい」


「そう」


来栖は缶を受け取った。


田中は少しの間、黙っていた。


言いたいことがいくつかあった。


でも、どう切り出していいか、わからなかった。


来栖は缶を口に運んだ。


一口飲んで、缶を軽く振った。


「田中くん、気づいてる?」


「え?」


「俺、『前のほうから君の状況、気になってた』ってこと」


「……」


「でも、距離取るって決めたから、声かけなかった」


「はい」


「この二週間、結構めんどくさかったよ」


田中は少し目を瞬かせた。


「……めんどくさい?」


「うん」


「気になること我慢するの、めんどくさい」


「……」


「いっそ、声かけた方が楽」


「はい」


「で、今日、声かけた」


「……」


「まあ、気になっただけじゃないかもしれない」


来栖は少し笑った。


「『気になった』かもしれない」


田中は少し黙った。


「まあ、気になっただけ」と「気になった」は違った。


「ただ」が抜けただけだった。


でも、抜けた「ただ」の分、重みが増した。


「壊しそうなら、また距離取る」


「はい」


「でも、田中くんの場合、壊れないって、前にわかった」


「はい」


「今回は少し介入してみる」


「……」


「一個だけ、問い置いていくよ」


田中は頷いた。


来栖は缶を少し口元に寄せた。


飲まずにそのまま、動かない時間が一秒ほどあった。


「『前例、作る』と、『前例に、なる』は違う」


「……」


「どっち、やるつもり?」


田中は少し考えた。


「……前例、作るつもりでした」


「うん」


「違うんですか」


「前例、作るは、『自分が通るルート、整備する』意味」


「はい」


「前例に、なるは、『自分が通ったことが、後の人の参考になる』意味」


「……」


「主語が違う」


「……」


「前者は、君が主語。『作る』動作」


「はい」


「後者は、君が目的語。『なる』受動」


「はい」


「君、どっちをやる?」


田中は少し黙った。


「……両方やりたいです」


来栖は少し笑った。


「それ、理想」


「はい」


「でも、順番ある」


「はい」


「最初は、『前例に、なる』しかない」


「……」


「一人目は前例がないから、『自分が通った』事実が、そのまま前例になる」


「はい」


「通る前に整備するの、難しい」


「はい」


「通りながら、整備する」


「はい」


「通り切った後、振り返ったら、ルートできてる」


来栖は缶を飲んだ。


「今、君、入口にいる」


「はい」


「入口で『ルート、整備してくれ』って頼んでも無理」


「はい」


「まず通る」


「はい」


「通り切ったら、ルートできる」


「……」


「それが田中くんの今の動き」


田中は少しの間動かなかった。


(通りながら整備する)


その視点は田中には新しかった。


田中は「通る前に全部整える」方が安全だと思っていた。


でも、最初の人は、整える方法を知らない。


通りながら作るしかなかった。


「まあ、気になっただけ」


来栖は言った。


「じゃ」


そう言い残して、来栖は去ろうとした。


「来栖さん」


田中は呼び止めた。


来栖は振り返った。


「……ありがとうございます」


「うん」


「来てくれて」


来栖は少し笑った。


笑ったというか、目が細くなった。


「まあ、めんどくさかったけど」


「はい」


「でも、壊れるくらいなら、関わった方が、ましかも」


「はい」


「次、また気になったら来るよ」


「はい」


「じゃ」


来栖はそのまま去っていった。


田中は自販機の前で、少しの間立っていた。


(前例に、なる)


田中は頭の中で繰り返した。


「前例に、なる」なら、田中は今、既にそうだった。


誰もやってなかった動きを、田中はやっている。


通り切ったら、それが前例になる。


ブースに戻った。


午後の電話を取った。


午後一番、緊急性案件だった。


病院の機器の部品の、緊急配送。


田中は配送業者と工場の両方に内線を入れた。


三十分で手配完了。


顧客はお礼を言って、電話を切った。


田中は通話を終えた。


ヘッドセットを外した。


耳の後ろが痛い。


でも、痛みは軽かった。


(今の動きも前例)


田中は思った。


部長にすぐ承認されなくても、田中は動いている。


動いている事実が前例だった。


夕方、加藤が田中のブースに来た。


「田中くん、どうした今日」


「……え?」


「顔、戻ってた」


「……そうですか」


「うん。水曜日から、ずっと沈んでただろ」


「……はい」


「今、戻ってた」


田中は少し笑った。


「さっき来栖さんに会いました」


「お、本当か」


「はい」


「なんて言ってた?」


「『前例、作る』と『前例に、なる』は違う、って」


加藤は少し目を瞬かせた。


「それ、来栖さんの言葉?」


「はい」


「うん。来栖さんらしい」


加藤は少し笑った。


「田中くん、良かったな」


「はい」


「来栖さん、距離取るって言ってたのに、来てくれた」


「はい」


「それ、田中くんの動きを見てのことだよ」


「……」


「壊れないって確信、あったんだろう」


「はい」


「まあ、頑張れ」


加藤は自分のブースに戻った。


五時半、田中は帰り支度をしていた。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通った。


会議室に来栖がいた。


ノートPCを開いていた。


今日は久しぶりに姿を見た。


田中は通り過ぎるとき、来栖を少し見た。


来栖も田中を少し見た。


目が合った。


来栖は小さく頷いた。


田中も頷き返した。


それだけだった。


それだけで、田中には十分だった。


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを開いた。


「前例、作る / 前例に、なる」


「順番:先に『なる』。通りながら整備」


と書いた。


書いて、少し見ていた。


見て、田中は少し笑った。


笑ったというか、口の端が動いた。


---


その頃、会議室で来栖はノートPCを見ていた。


画面には、「田中くん、水曜日、部長、不調」とメモが書いてあった。


来栖は少し息を吐いた。


(めんどくさいな)


頭の中で思った。


(でも、まあ)


(壊れるくらいなら)


(少しだけ、関与してみるか)


(問いだけ、置いていく)


(それで十分だろ)


来栖はノートPCを閉じた。


缶コーヒーを開けた。


一口飲んだ。


飲み終わった缶をテーブルに置いた。


置いたあとで、来栖は窓の外を見た。


春の夕方の色だった。


あと二、三週間で夏が来る色だった。


(田中くん、通り切れるかな)


通り切れるのは、田中自身の動きで決まる。


来栖はただ問いを置くだけだった。


置いたあとの動きは、田中のものだった。


来栖はもう一口缶を飲んだ。


飲みながら、田所美津子の顔を一瞬思い出した。


思い出したが、今日はそれ以上考えなかった。


(田中くん、壊れなかったな)


(だから、介入してみた)


(介入しても壊れないかもしれない)


それが来栖の今日の収穫だった。


「収穫」という言葉を来栖はあまり使わなかった。


使わなかったが、今日の感覚はそうだった。


来栖は缶を飲み干した。


空の缶をゴミ箱に入れた。


ノートPCをカバンに入れた。


会議室を出た。


帰り道、来栖はスマホのメモを開いた。


「田中くん、今日少し戻った」


「介入継続、可」


と書いた。


書いて保存した。


電車に乗った。


揺られながら、来栖は少し目を閉じた。


目を閉じても、今日は田所の顔はもう浮かばなかった。


代わりに、田中の「ありがとうございます」の声が耳の奥に残っていた。


残っていたが、それは悪い残り方ではなかった。


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