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第三十九話「前例」

翌週、水曜日。


田中は部長との面談に向かっていた。


提案書を一枚、手に持っていた。


「業務改善担当、ポジション新設のご提案」


提案書は四日かけて書いた。


加藤と佐藤に先に見せた内容だった。


二人とも、「いい提案」と言ってくれた。


加藤は、「俺が部長だったら、乗る」とまで言ってくれた。


でも、部長は加藤ではなかった。


佐々木部長。


田中が二ヶ月前、面談を受けた本社の部長。


田中は部長室の前で立ち止まった。


心臓が少し速かった。


息を吸って吐いた。


ドアをノックした。


「どうぞ」


田中は入った。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです、田中さん」


佐々木部長はデスクから目を上げた。


田中の顔を見た。


見てから、少しの間、田中の名前を思い出そうとしている顔をした。


「コールセンターの田中さんですね」


「はい」


「今日、何のご用件でしたか」


「メール差し上げた提案についてです」


「ああ、はい、読みました」


部長は紙をデスクから取った。


提案書だった。


「興味深い内容でした」


「ありがとうございます」


「『業務改善担当』というポジションを新設したい、と」


「はい」


「田中さんがその最初の担当になる、と」


「はい」


「なるほど」


部長は提案書をデスクに置いた。


「ただ、いくつか懸念があります」


「はい」


「一つ目、前例がありません」


「……」


「コールセンターのオペレーターから改善担当に移るのは、前例がない」


「はい」


「二つ目、効果が不明です」


「……」


「マニュアル改善の実績はありますが、それが他の領域にも波及するか、わからない」


「はい」


「三つ目、人事制度上の整合性が取れない」


「はい」


「今のオペレーター職の給与テーブルと、改善担当のテーブルは違う」


「はい」


「三点クリアするのは、正直難しい」


田中は少し黙った。


予想していた反応だった。


でも、実際に聞くと重かった。


「田中さんの意欲は買います」


「はい」


「ただ、今の組織で受け皿がない」


「はい」


「もう少し温めていただければ」


「はい」


「将来的には検討できるかもしれません」


「……はい」


「以上です」


面談は二十分で終わった。


部長は忙しそうだった。


田中は頭を下げて部屋を出た。


廊下を歩いた。


エレベーターに乗った。


コールセンターの階で降りた。


ブースに戻った。


応答ランプが点滅していた。


田中は取らなかった。


しばらくモニターを見ていた。


見ていたが、内容は頭に入らなかった。


(前例がない)


(効果が不明)


(人事制度上の整合性)


三つの懸念。


どれも反論できる内容ではあった。


でも、「今、受け皿がない」は事実だった。


事実に田中は勝てなかった。


応答ランプは点滅し続けていた。


田中はヘッドセットを取った。


つけた。


「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」


臨機応変案件だった。


マニュアル外。


田中は落ち着いて対応した。


対応できた。


でも、心は浮かないままだった。


通話が終わったあと、田中はふと思った。


(また、「はい」しか言えないのかな)


部長の前で、田中は「はい」ばかり言っていた。


「前例、作ればいいじゃないですか」とは言えなかった。


「効果、実証させてください」とは言えなかった。


「人事制度そのものが古いのではないですか」とは言えなかった。


田中は全部言えなかった。


言えないのは、田中の「呪い」がまだ残っているからだった。


呪いは消えていなかった。


弱くなっていたが、消えてはいなかった。


昼休み。


田中は自販機の前に立った。


カフェオレ。


缶を受け取った。


振り返った。


来栖はいなかった。


加藤はブースで電話中だった。


フロアにはいつものオペレーターが、それぞれのブースで動いていた。


田中一人だけ、立っていた。


(どうしよう)


田中は思った。


答えは出なかった。


答えが出ない時は、ノートに書くのが田中のやり方だった。


でも、今日は書きたくなかった。


書いても進まない気がした。


ブースに戻って、田中は電話を取り続けた。


取り続けたが、頭の中はずっと「前例がない」で埋まっていた。


夕方、加藤が田中のブースに来た。


「どうだった、部長」


「……ダメでした」


「ダメって?」


「前例ない、って」


加藤は少し笑った。


笑ったというか、溜息に近かった。


「そうか」


「はい」


「まあ、一回じゃ難しいよな」


「はい」


「気にするな」


「……」


「でも、気にするのは田中くんの選択だから、止めない」


加藤はそう言って、自分のブースに戻った。


田中は自分のブースで、少しの間動かなかった。


(気にするな)


と言われても、気にはなった。


でも、「気にするのは田中くんの選択」と加藤は言った。


選択なら、田中は今日、気にすることを選んでいた。


選んだのは田中自身だった。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通った。


会議室は空いていた。


田中は少しプレートを見ていた。


見てから通り過ぎた。


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを開いた。


書こうとした。


が、何を書くか決まらなかった。


書かずにノートを閉じた。


閉じたあとで、田中は少し笑った。


笑ったというか、口の端が動いた。


(書かない日があってもいい)


以前の田中は、「書かないと気が済まない」タイプではなかった。


最近、書く習慣がついただけだった。


だから、書かない日もありだった。


電車が来た。


田中は乗った。


車内で吊革につかまって揺られた。


揺られながら、田中は少し思い出した。


中学生の頃の顧問の先生。


顔はもう思い出せない。


でも、「辞めます」と言えなかった瞬間は覚えていた。


今日、佐々木部長の前で、「前例、作りましょう」と言えなかった。


似ていた。


似ているが、違う部分もあった。


中学生の時は、「嫌だ」と言えなかった。


今日は、「はい」と言えなかった。


いや、「はい」は言ったかもしれない。


でも、言ったのは、「また次、挑戦します」の「はい」ではなかった。


「受け止めました」の「はい」だった。


受け止めるだけでは、前に進まない。


進むには、「また次」の「はい」を言わないとならない。


(言えなかったな、今日)


田中は少し後悔した。


後悔は呪いとは違う感覚だった。


後悔は、「また次」を作るエネルギーだった。


家に着いた。


ノートをテーブルに置いた。


缶ビールを開けた。


一口飲んだ。


苦い。


苦さは今日は少しだけ強かった。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに田中は一つだけ考えた。


(また次、挑戦します)


口の中で小さく練習した。


声にはならなかった。


でも、形だけ動いた。


動いた口は詰まらなかった。


詰まらないまま、田中は眠った。


眠りは今夜は少し浅かった。


浅い眠りの中で、田中は中学生の顧問の先生の、「もう少し、頑張ろう」をもう一度聞いた気がした。


気のせいかもしれない。


でも、気のせいでも、明日は少しだけ違う日になるかもしれない。


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