第三十六話「むかし、コンサル」
金曜日の夕方、五時四十分。
田中はフロアを出て、階段を降りていた。
エレベーターは混んでいた。
今日は階段で下に降りることにした。
三階の踊り場で、田中は立ち止まった。
来栖がいた。
缶コーヒーを持って、階段の壁に寄り掛かっていた。
田中を見ていた。
「君さ」
「はい」
田中は答えた。
「階段、珍しい?」
「エレベーター、混んでたので」
「そう」
来栖は缶を口に運んだ。
一口飲んだ。
缶はいつものメーカーだった。
田中は少し躊躇った。
急いでいなかった。
急ぐ必要もなかった。
田中は来栖の反対側の壁に、寄り掛かった。
「大葉産業の件」
来栖は言った。
「はい」
「うまくいったみたいだね」
「……佐藤さんから聞きましたか」
「加藤さんから少し聞いた」
「はい」
来栖は缶を軽く振った。
「カタログ、全体八百種類選んだって?」
「……はい」
「大葉産業だけなら、三週間で済んだのに」
「はい」
「なんで、全体?」
田中は少し考えた。
「……仕組みを作りたくて」
「ふーん」
「大葉産業だけだと、個別対応です」
「うん」
「僕がやりたいのは、もっと先かな、と思って」
来栖は少し笑った。
笑ったというか、息を短く吐いた。
「昔、コンサル、やってた頃にね」
田中は一瞬、息を止めた。
来栖の声は普段と変わらなかった。
でも、「昔、コンサル、やってた」という言葉が、初めて出た。
「似たような改革、関わってた」
「……はい」
「大手のコールセンター、業務改革だった」
「はい」
「同じように、『全体、変えるべき』って思って動いてた」
「……」
「動いたら、壊れた」
来栖は缶をもう一口飲んだ。
缶を軽く振った。
軽く振った音が、静かな階段に響いた。
「一人、壊れた」
「……」
「休職して、退職して、心を病んだらしい」
「……」
「俺の発言が、きっかけだった」
田中は少し黙った。
何と言うべきかが、わからなかった。
「……来栖さんのせい、ですか」
「全部ではないよ」
「はい」
「でも、無関係でもない」
「はい」
「俺の発言が通ったから、改革が進んだ」
「はい」
「進まなければ、その人、壊れなかったかもしれない」
「……」
「で、俺、コンサル、辞めた」
「はい」
「しばらく動けなかった」
「はい」
「で、今、監査部で観察してる」
来栖は缶を口元で止めた。
飲まずに、しばらくそのままだった。
それから、缶を軽く置くような動作で、口から離した。
「動くと、壊す、って思ってたからな」
「はい」
「だから、田中くんのことも、最初は観察だけのつもりだった」
「はい」
「でも、『呪いだね』って言った」
「はい」
「言った瞬間、『動いてしまった』って思った」
「……」
「でも、君は壊れなかった」
「はい」
「むしろ、動いた」
「はい」
「最近、俺、少し思ってる」
来栖は少し黙った。
「動かない、観察だけじゃ、足りないのかもしれない、って」
「……」
「動いて壊すのも問題だけど」
「はい」
「動かないで、誰も変わらないのも問題」
「はい」
「その中間を探してるのが、今の俺なのかもしれない」
田中は少し頷いた。
頷いただけで、言葉は出なかった。
来栖は田中を少し見た。
見てから、缶をもう一口飲んだ。
「あと、ね」
「はい」
「AIの判定ロジック、変わった、って知ってる?」
「……佐藤さんから聞きました」
「前は、『断らない人』に集中する仕組みだった」
「はい」
「君の対応履歴が、『断らない』と学習されて、振られてきてた」
「はい」
「呪いがAIに学習されてた、ってことだ」
「はい」
「今の新しいロジックは、『全員、平均化』に変わった」
「……」
「つまり、君、普通になる」
田中は少し考えた。
「……はい」
「普通の件数に戻る、ってこと?」
「うん」
「でも、君の動きは、もう普通の範囲じゃないだろ」
「……」
「プロジェクト、カタログ変更、倉庫訪問、どれも普通じゃない」
「はい」
「だから、君、普通になっても、動きは止まらない」
「……」
「それ、分かって動いてる?」
田中は少し黙った。
「……まだ、動きながら確かめてます」
「いいね」
来栖は少し笑った。
笑ったというか、目が細くなった。
「田中くん」
「はい」
「俺、これでプロジェクトから正式に抜ける」
「……え?」
「監査の役目、別の部署に回ってる」
「はい」
「必要あれば、また戻ってくるかもしれない」
「はい」
「でも、当分は別の場所にいる」
田中は少し黙った。
「……寂しいです」
言ってから、田中は少し驚いた。
いつの間に、そんな言葉、口から出るようになっていたか。
来栖も少し黙った。
「そうか」
「はい」
「俺も、寂しいかもしれない」
「……」
「でも、それでいい」
「はい」
「距離、取ることで、君が続けるのを見られる」
「はい」
「見てるだけで、十分」
来栖は缶を飲み干した。
空の缶を少し軽く振った。
「じゃあ、またね」
「……はい」
「また会える時に、気になること、訊くよ」
「はい」
「まあ、気になっただけ」
来栖は空の缶を持って、階段を降りていった。
田中は踊り場で、少しの間立っていた。
来栖の足音が、階段の下の方から聞こえた。
遠くなっていく音だった。
田中はその音が消えるまで、動かなかった。
音が消えた。
田中も階段を降り始めた。
一段、一段、ゆっくり降りた。
外に出た。
春の夕方の風が、少し冷たかった。
冷たかったが、今日は暖かくも感じた。
駅までの道を歩いた。
歩きながら、田中はノートを出した。
開いた。
「むかし、コンサル。一人、壊れた」
「AI、判定ロジック、変わった」
「来栖さん、プロジェクト、抜ける」
「寂しい、と言えた」
書いて、少し見ていた。
一つ、田中の中で決まったことがあった。
田中の動きは、もう止まらない。
AIのロジックが変わって、件数が減っても止まらない。
来栖がいなくても止まらない。
動き続けること自体が、田中の目的の一部になっていた。
駅のホームで、電車を待った。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中は少し思った。
(来栖さん、また会えるかな)
会えるかもしれないし、会えないかもしれない。
でも、会えなくても、田中は進む。
会えたら、もっといい。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
苦さは今日は、少しだけ複雑な味がした。
寂しさと、満足と、期待が混じった苦さだった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(来栖さんの呪いは、「動くと、壊す」という思い込み)
(最近、動いて壊さないことが、一度あった)
(それは、僕だった)
自分が来栖の呪いの解除の、一端になれたかもしれない。
そう考えるのは、少し傲慢だった。
でも、少しだけ思ってもよかった。
来栖自身が「動いて、誰も壊さなかった」という事実を、一つ持てたことは、たぶん来栖の中で小さく意味があった。
眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は来栖の「じゃあ、またね」の声を、もう一度聞いた気がした。
「また」は来るかもしれないし、来ないかもしれない。
来なくても、田中は動く。
動き続けることが、田中の第三章の終わりに、見えた景色だった。
景色は、まだ遠い所まで続いていた。
続いているのが見えただけで、田中には十分だった。




