第三十四話「倉庫」
火曜日の朝、九時。
田中はスーツを着て、会社のエントランスに立っていた。
スーツは入社式以来だった。
引き出しの奥から出した。
ズボンの折り目は、少しだけ寝ていた。
加藤が来た。
「おう、田中くん」
「お疲れさまです」
「スーツ、久しぶり?」
「……はい」
加藤は少し笑った。
「俺も、久しぶり。ネクタイの結び方、忘れかけた」
「はい」
営業担当の男性が合流した。
営業部の牧田、という三十代の男性。
「田中さん、初めまして」
「初めまして」
「藤村さんのこと、助けてもらって、ありがとうございます」
「……いえ」
「車、回してあります。行きましょう」
社用車で、大葉産業の倉庫に向かった。
車内で牧田が、藤村の話を聞かせてくれた。
「藤村部長、うちの会社と付き合い、八年」
「はい」
「現場主義の人で、机上の対応、嫌うんですよ」
「はい」
「で、田中さんの対応、聞いて、少し驚いたらしくて」
「……」
「『コールセンターなのに、根本原因、言うオペレーターがいる』って」
田中は少し黙った。
「……そうですか」
「久しぶりに、本社ごと、対応考え直すきっかけになるかも」
一時間、運転して、倉庫に着いた。
大葉産業の本社、工場の隣にある、大きな倉庫。
ピッキング作業が、常時、動いていた。
藤村が倉庫の入口で待っていた。
背広ではなく、作業着を着ていた。
「おう、来たか」
「お疲れさまです」
「現場、見せるよ」
倉庫の中は広かった。
棚が天井まで並んでいた。
ピッキング担当の人が、七、八人、動いていた。
藤村は一人のピッキング担当の前に立った。
「これ、うちの斎藤。十五年、ベテラン」
「よろしくお願いします」
斎藤は六十代の男性だった。
灰色の髪。
背は低いが、肩はがっしりしていた。
「……お世話になってます」
「こちらこそ」
「斎藤、この前の納品ミスのやつ、田中さんたちに、説明してくれるか」
「はい」
斎藤は近くの棚から、二つの部品を取り出した。
同じ型番シリーズの二つ。
違いは末尾、一桁だけだった。
「これ、K-1523とK-1528」
「はい」
「形、ほぼ同じです」
「はい」
「箱の表示も、型番だけしか書いてありません」
「……」
「だから、間違える」
斎藤は少し笑った。
笑った、というより、諦めたような顔だった。
「私も、十五年やってるのに、間違えることあります」
田中は部品を近くで見た。
確かに、形、ほぼ同じだった。
末尾、一桁の違いが、機能の違いを生んでいた。
でも、見た目ではわからなかった。
「この箱の表示、機能の違いを書けたらいいんですけど」
田中は言った。
「そうです」
斎藤は頷いた。
「『高速用』、『低速用』とか書いてあったら、間違えない」
「……なるほど」
田中はメモを取った。
加藤も部品を手に取った。
「これ、カタログの検索で区別、つきますか?」
「カタログ、見るとつきます」
「でも現場、カタログ開く時間ないですよね」
「そうです」
「箱に表示、ないと無理」
「はい」
加藤は頷いた。
「田中くん、カタログの表示変更、提案、できる?」
「……IT推進部、通してなら」
「じゃ、やろう」
田中は斎藤と藤村に、説明した。
「弊社のIT推進部と連携して、カタログの表示を変更させていただきます」
「はい」
「納品先の箱に、機能表示追加の手配もします」
「それ、お願いしたい」
「承知いたしました」
藤村は少し頷いた。
「田中さん」
「はい」
「本社の担当者じゃ、この話、聞いてない」
「はい」
「コールセンターに回って、初めて聞いてもらえた」
「……」
「おかしい話、なんだけどな」
藤村は少し笑った。
「でも、今はどこから動いても、動く方がいい」
「はい」
「頼むよ」
「よろしくお願いいたします」
訪問は二時間で終わった。
車で会社に戻った。
車内で加藤が少し笑った。
「田中くん、現場で堂々としてたな」
「……そうでしたか」
「うん」
「堂々としてなかったかもしれないが、ちゃんと聞いてた」
「……」
「『高速用』『低速用』の提案、斎藤さんから出させたのが良かった」
「はい」
「俺がIT部門の頃、やらなかったやり方だ」
田中は少し黙った。
「加藤さんは、どうやってたんですか」
「俺は、本社から指示出して、現場に押し付けた」
「はい」
「現場の反対、無視して進めた」
「はい」
「で、壊れた」
加藤は窓の外を見ていた。
「田中くんのやり方が、正解だったんだろうな」
「……正解かは、わかりません」
「いや、正解だよ」
「はい」
「俺も、十五年前、これができていれば、今、違う場所にいたかもしれない」
加藤は少し笑った。
「でも、今、ここにいるのも悪くない」
「はい」
「田中くんに会えたし」
田中は少し黙った。
何と返すべきか、わからなかった。
「……ありがとうございます」
とだけ言った。
会社に戻った。
ブースに戻って、田中はメモを整理した。
倉庫で見たもの。
斎藤の言葉。
藤村の要望。
加藤の助言。
全部を一枚の紙にまとめた。
「カタログ表示、変更提案書」
「対象:同一シリーズ、機能違い商品、全般」
「変更点:型番に加えて、機能表示を追加」
「効果:ピッキングミス削減」
田中は紙を佐藤に送った。
メールで。
「本日、大葉産業様、倉庫訪問。以下の提案、検討、お願いします」
送信した。
送信したあとで、田中は少し動かなかった。
動かない間、田中は今日の出来事を、頭の中で反芻した。
倉庫に行った。
スーツを着て行った。
知らない人と話した。
提案をした。
受け入れられた。
全部、一ヶ月前の田中にはできなかったことだった。
でも、今日、やった。
やったのは、田中自身だった。
誰かに言われてではなかった。
自分で決めて動いた。
五時半。
田中は帰り支度をしていた。
加藤が田中のブースに来た。
「お疲れ、田中くん」
「お疲れさまです」
「今日、良かったな」
「はい」
「倉庫、行く前に、『怖い』って言ってただろ」
「はい」
「今、怖い?」
田中は少し考えた。
「……怖いです。でも、違う怖さです」
「違う怖さ?」
「できなかったら、どうしよう、じゃなくて、できたけど、次はもっと大きいことだから、どうしよう、という怖さです」
加藤は少し笑った。
「それ、前進した怖さだ」
「はい」
「俺も、十五年前、それ感じていれば良かったかもな」
加藤はそう言って、ブースに戻った。
田中は通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に来栖がいた。
ノートPCを見ていた。
今日も静かだった。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎるとき、一瞬だけ来栖を見た。
来栖も田中を少しだけ見た。
目が合った。
「……」
二人、何も言わなかった。
でも、田中はスーツ姿で通った。
来栖はスーツ姿を見た。
それだけで、何かが伝わったような感覚があった。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「大葉産業、倉庫訪問。カタログ表示、変更提案、送信」
書いたあとで、田中は少し笑った。
電車が来た。
田中は乗った。
スーツで電車に乗るのは、いつぶりだろう。
入社式以来かもしれない。
田中は少し居心地が悪かった。
でも、嫌ではなかった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
苦さは今日は、祝いの苦さだった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(加藤さん、『田中くんに会えたし』って言った)
それは、加藤が田中に少し救われた、という意味だったかもしれない。
田中は加藤に何もしていなかった。
ただ、一緒に歩いただけだった。
一緒に歩くだけで、誰かが救われることがある。
それは田中には、新しい発見だった。
眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は倉庫の棚の風景をもう一度見た気がした。
斎藤の笑い顔も見た。
気がしただけかもしれない。
でも、気がしただけでも、明日は少しだけ違う日になるかもしれない。




