第三十三話「大口」
金曜日、朝、九時四十分。
田中はブースで電話を取り続けていた。
今週はインシデントの振り返りと、プロジェクトの準備で慌ただしかった。
金曜日の午前中、ようやく少しペースが掴めてきたところだった。
十時五分、モニターに特別な表示が出た。
「法人プライオリティ、振り分け」
赤い文字だった。
田中は初めて見た表示だった。
電話が繋がったあと、田中は丁寧に名乗った。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
「おう、俺だ。大葉産業の藤村だ」
田中はモニターを確認した。
「大葉産業、株式会社、法人契約、取引履歴 / 八年」。
年間取引額が表示されていた。
弊社の法人顧客の中で、上位三社の一つだった。
「藤村様、いつもありがとうございます」
「ありがとう、じゃねえんだよ」
藤村は怒っていた。
「納品のミスが酷い」
「……申し訳ございません」
「三ヶ月、連続だ」
「はい」
「うちの現場、止まるんだよ」
「……」
田中は履歴を開いた。
過去、三回の納品ミスが記録されていた。
どれも弊社の配送センターのピッキングミスだった。
原因は同じ。対応策は毎回、別の担当者が個別に対応していた。
「今回、本社の営業担当、出張中だから、こっちに回された。お前、ちゃんと対応できるのか」
田中は少し息を吸った。
以前の田中なら、「責任者にお繋ぎします」と即答していた。
今日は違った。
「藤村様、まず、状況、ご説明いただけますか」
「……」
「過去の対応記録、拝見しましたが、同じミスの繰り返しとなっています」
「そうだ」
「根本原因、特定をさせてください」
藤村は少し黙った。
「……お前、何やってる担当?」
「コールセンター、オペレーターの田中です」
「コールセンターで、根本原因、言い出すのか」
「……申し訳ございません」
「いや、むしろいいけどな」
藤村は少し笑った。
「今までの担当、みんな、『お詫びに値引き』しか言わなかったから」
「はい」
「状況、話すよ」
田中は藤村の話を聞いた。
納品物は生産設備の部品だった。
同じ型番の部品が複数あり、その区別がピッキング時に間違えられていた。
型番、末尾の一桁だけの違い。
カタログ上は似た数字。
でも、現場では全く違う機能。
「この区別、弊社のカタログではわかりにくいですね」
田中は言った。
「そうだ」
「ピッキング担当の人が間違えるのは、無理もない気がします」
「でも、困るんだよ」
「はい」
「現場で止まる」
「……」
田中は少し考えた。
このミスの根本解決は、カタログの変更だった。
型番表示の方法を変える。
それはコールセンターの仕事ではなかった。
でも、根本解決しないと、このミスはまた起きる。
「藤村様、一つ、ご提案させてください」
「なんだ」
「現場のピッキング担当に、ヒアリングさせていただけませんか」
「……ピッキング、って倉庫か?」
「はい」
「なんで」
「カタログの型番表示がわかりにくい、と私は推測しています」
「はい」
「でも、現場のピッキング担当に聞かないと、本当の原因はわかりません」
「……」
「ヒアリング結果をもとに、カタログの表示変更、提案させてください」
「お前、そこまでやるのか?」
「やります」
田中は言った。
言ったあとで、少し驚いた。
自分が「やります」と即答した。
藤村は少し黙った。
「……田中さん、だっけ」
「はい」
「わかった。現場、受け入れ、段取りする」
「ありがとうございます」
「来週、うちの倉庫、来てくれ」
「はい」
「その時、全部話す」
「よろしくお願いいたします」
通話は三十五分で終わった。
田中は通話を終えた。
ヘッドセットを外した。
少しの間、動かなかった。
(取引先の倉庫、行くって約束した)
田中の業務範囲を超えていた。
営業の仕事だった。
でも、「やります」と言った。
田中は加藤のブースに走った。
加藤は電話を切ったところだった。
「加藤さん」
「おう」
「大葉産業の藤村様、ってご存じですか」
加藤は少し目を丸くした。
「……え? 大葉産業、ってあの、大葉産業か」
「はい」
「年間、一億取引のあの」
「はい、たぶん」
「どうした」
田中は事情を話した。
根本原因を見つけるため、倉庫訪問を提案したこと。
加藤は少し黙った。
「……田中くん」
「はい」
「それ、営業案件、だ」
「はい」
「オペレーターが勝手に決められる話じゃない」
「はい」
「でも、君、『やります』って答えた」
「……すみません」
加藤は少し笑った。
「いや、いいよ」
「……え?」
「むしろ、面白い」
加藤は缶コーヒーを開けた。
「営業部長に、俺が繋ぐ」
「……」
「田中くんの提案、そのまま上げる」
「いいんですか」
「大葉産業、一億案件だから、営業部長、絶対動く」
加藤は少し頷いた。
「ただし、田中くんが倉庫、行く時は、営業、同行だ」
「はい」
「一人じゃ無理だ」
「はい」
田中は自分のブースに戻った。
戻って、少しの間、動かなかった。
(一人じゃ無理、か)
それは加藤の判断だった。
加藤はIT部門で、一人で進めて失敗していた。
同じ失敗を、田中にさせたくない気持ちがあったのかもしれない。
田中はノートを出した。
「大葉産業、藤村様、倉庫訪問、来週」
「営業部長、加藤さん経由で繋ぐ」
「根本原因:カタログ、型番表示、わかりにくい(仮説)」
書いて、少し見た。
書いた文字は、先週までの田中のノートとは別物だった。
業務範囲を超えた動きが、書かれていた。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
来栖はいなかった。
最近、来栖と会う回数が減っていた。
会えないのは寂しかった。
でも、それは来栖が「距離を取る」と決めたからだった。
田中には何もできなかった。
午後、田中は電話を取り続けた。
三時過ぎ、加藤が田中のブースに来た。
「田中くん、営業部長、OK」
「……え?」
「来週火曜日、倉庫訪問、アレンジする」
「はい」
「営業担当、加藤さんも、田中くんも、同行」
「……加藤さんも?」
「うん、俺も行く」
「……」
「田中くん一人じゃ、心配だ」
加藤は少し笑った。
「俺、元IT部門だから、根本原因の話、得意なんだ」
「はい」
「一緒に聞こう」
「ありがとうございます」
田中は頭を下げた。
頭を下げる動きが、自然にできた。
少し前の田中なら、「すみません」しか言えなかった。
今は「ありがとうございます」が出た。
五時半。
田中は帰り支度をしていた。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に来栖がいた。
今日もノートPCを見ていた。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎるとき、一瞬だけ口を動かした。
「来週、倉庫、行きます」
声にはならなかった。
来栖は気づかなかった。
気づかなかったが、田中は言ったこと自体で良かった。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「大葉産業、藤村様、倉庫訪問」
「来週、火曜日」
「加藤さん、営業担当、同行」
書いて、少しの間、見ていた。
書いた文字は、田中が今までに書いたどの文字よりも、遠い場所を指していた。
倉庫は田中の会社の建物ではない。
外部の場所だった。
そこへ田中が行く。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中は思った。
(三ヶ月前の僕なら、絶対断っていた)
(今は、「やります」と言っている)
その違いが、田中の「変化」の全部だった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(僕、本当に倉庫、行くのかな)
「やります」と言った。
でも、実感が追いついていなかった。
実感は後から追いついてくるものだった。
先に言葉を出した。
言葉を出したあとで、実感が追いかける。
その順番で、田中は動いていた。
以前は逆だった。
実感が先で、言葉は出なかった。
今は言葉が先。
それが田中の新しいやり方だった。
眠った。
眠りの中で、田中は大葉産業の倉庫の風景を、想像した気がした。
倉庫は田中が、一度も見たことのない場所だった。
想像だから、曖昧だった。
曖昧でも、田中はそこに向かって動き始めていた。
動くことが、田中の今の目的に近かった。




