第三十二話「距離」
水曜日。
田中は自販機の前に立っていた。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
来栖がいた。
缶コーヒーのボタンを押していた。
「君さ」
「はい」
田中は答えた。
「プロジェクト、来週から?」
「はい」
「どう?」
「……少しずつ、怖くなくなってきてます」
来栖は少し頷いた。
頷きの動きは、いつもより少しだけ短かった。
「じゃ、あとは大丈夫」
「はい」
「俺、しばらく関わらないから」
「え?」
「監査の仕事、他にもあるから」
「……」
「君のプロジェクト、俺がいなくても、もう回る」
田中は少し目を瞬かせた。
「……」
「困ったら、加藤さん、佐藤さんに聞けばいい」
「はい」
「俺に聞かなくても大丈夫」
来栖は缶を受け取った。
田中は自分の缶を持ったまま、立っていた。
「……なぜですか」
田中は訊いた。
訊いたのは、自分でも驚いた。
普段なら訊かないことだった。
来栖は少し黙った。
缶を軽く振った。
「俺、入り込むと、壊すから」
「……」
「昔、そういうことあって」
「……」
「だから、ここまでにしとく」
来栖は缶を口に運んだ。
一口飲んだ。
「まあ、気になっただけ」
そう言い残して、来栖は去っていった。
通路の監査部のほうへ。
田中は自販機の前で、少しの間立っていた。
(俺、入り込むと、壊すから)
(昔、そういうことあって)
来栖は今まで、「俺」の話をほとんどしてこなかった。
いつも、田中に問いを置くだけだった。
「気になっただけ」で終わらせていた。
でも、今日は少しだけ、自分の話をした。
「壊した」と、過去形で言った。
短かったが、それは来栖の過去だった。
田中はブースに戻った。
午後、電話を取り続けた。
取りながら、田中は考え続けた。
(来栖さん、何を壊したんだろう)
答えは出なかった。
でも、訊かないと決めたことも、覚えていた。
訊かないまま、田中は仕事を続けた。
---
その頃、会議室で来栖はノートPCを開いていた。
画面は空白だった。
何も入力していなかった。
来栖はただ、画面を見ていた。
缶コーヒーが机の上に三本、並んでいた。
一本目は空。
二本目は半分。
三本目はまだ開いていない。
来栖は二本目を口に運んだ。
一口飲んで、缶を置いた。
置いたあとで、少しの間、動かなかった。
(田中くん、頑張ってるな)
(俺の役割は、ここまでだ)
来栖は自分に言い聞かせた。
言い聞かせなくては、ならなかった。
背中を押した瞬間、自分が動いていたことに、来栖は気づいていた。
ただの観察ではなく、動いていた。
動いてしまった。
今回は、誰も壊れなかった。
でも、それはたまたまかもしれなかった。
次はわからない。
壊す前に、距離を取る。
それが来栖の、唯一の学びだった。
来栖は缶をもう一口飲んだ。
飲み終わった缶を置いた。
三本目を、しばらく見ていた。
開けるかどうか、迷った。
迷ったまま、来栖はそれを開けなかった。
---
夕方、五時半。
田中は通路を歩いていた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に来栖がいた。
今日は三本の缶コーヒーが、机に並んでいた。
来栖は田中を見た。
目が合った。
来栖は少しだけ頷いた。
田中も頷き返した。
それだけだった。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎて、少しの間、歩いたあとで、田中はふと止まった。
振り返った。
会議室の窓越しに、来栖が見えた。
来栖はノートPCの画面を見ていた。
今日は何かを打っている顔ではなかった。
ただ、画面を見ているだけの顔だった。
田中はその横顔を、少しの間、見ていた。
横顔は少し疲れていた。
いや、疲れているというより、何かを思い出している顔だった。
田中はその顔を記憶に留めた。
留めたまま、通路を抜けた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「俺、入り込むと、壊すから。昔、そういうことあって」
そう書いた。
来栖の言葉、そのままだった。
書いたあとで、田中は少し見ていた。
「入り込むと、壊す」。
来栖は自分を「危険」だと思っていた。
だから、距離を取ろうとしていた。
田中にはそれが、少し寂しかった。
寂しい、という感覚は、田中はあまり持ったことがなかった。
でも、今日、来栖の距離の取り方は寂しかった。
寂しいけど、田中にできることはなかった。
来栖の判断だった。
田中が「距離、取らないで」と言っても、来栖は距離を取る。
田中はそれを受け入れた。
受け入れることが、田中の今日の動きだった。
電車が来た。
田中は乗った。
揺られながら、田中は思った。
(来栖さん、また自販機で会えるかな)
たぶん、たまには会える。
会えたら、短く話す。
話したあとで、来栖はまた距離を取る。
その繰り返しかもしれない。
繰り返しでもいい。
来栖の中に、「気になる」という動きが残っていれば、それで十分だった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
飲みながら、田中は考えた。
(来栖さんの呪いは、「入り込むと、壊す」という思い込み、かもしれない)
思い込みは、呪いと似ていた。
呪いは、解けることがあった。
でも、解けるのは本人の動きでしかない。
来栖の呪いは、来栖自身が解くしかない。
田中にできることは、何もなかった。
でも、田中は思った。
(来栖さんの呪いが、もし解ける日が来たら)
(その時、僕も一緒にいられたら、いいな)
それが今日の田中の、一番の願いだった。
「願い」という言葉を田中は使わなかった。
使わなかったが、感覚はそうだった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は来栖のあの横顔を、もう一度思い出した。
思い出しても、何もできない。
できないけど、覚えておくことはできる。
田中は眠った。
眠りの中で、田中は来栖の過去を、一瞬、夢で見た気がした。
知らない女性が泣いていた。
来栖がその女性の前で、黙って立っていた。
目が覚めたとき、その夢はほとんど消えていた。
でも、少しだけ残っていた。
残ったまま、田中は木曜日を始めた。




