第三十一話「別の物差し」
火曜日の朝。
田中はブースで電話を取り続けていた。
プロジェクトの本格始動は、来週だった。
それまでの一週間は、いつも通りの仕事だった。
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午前中の三件目は、感情ケア案件だった。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
「……はい」
女性の声だった。
四十代くらい。
落ち着いていたが、疲れていた。
「あの、返品、お願いしたいんですけど」
「はい。ご注文番号をお伺いしてもよろしいでしょうか」
女性は番号を読み上げた。
モニターに情報が表示された。
子ども用の学用品のセット。
三週間前の注文。
「使ってないんです」
「はい」
「子どもが、学校、行けなくなって」
「……」
「もう、当分、必要なくて」
田中は少し間を置いた。
「学校に行けなくなったのは、最近ですか」
「はい。四月に入ってから」
「……」
「新学期で、張り切って買ったんですけど」
「はい」
「三日目で、駄目で」
「……」
女性の声は疲れていた。
怒ってもいない、泣いてもいない。
ただ、疲れている声だった。
田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。
「返品、承ります」
「……ありがとうございます」
「タグ、ついたままでも問題ないですか」
「はい」
「承りました。返品先ラベル、お送りします」
「ありがとうございます」
田中は入力を終えた。
少し間を置いて、
「……あの」
「はい?」
「お子さん、大丈夫ですか」
女性は少し黙った。
「……」
「ごめん、失礼だったら、すみません」
「いえ」
「いえ、大丈夫です」
女性はしばらく黙った。
「……大丈夫ではないんですけど」
「はい」
「誰かに聞いてもらうことが、嬉しいです」
「……」
「最近、みんな、『原因、何?』って訊いてくるんですよ」
「はい」
「『何があったの?』って」
「はい」
「原因、わからないんです」
「はい」
「あったら、対処できるんですけど、ないんです」
「はい」
「『大丈夫?』って訊いてもらえたの、久しぶりです」
田中は少し黙った。
「……お聞きして、よろしかったでしょうか」
「はい」
「私も、特に何かできる訳では、ないんですが」
「それで、いいんです」
「……」
「訊いてくれることだけで、十分」
女性は少し笑った。
「ありがとうございました」
通話はそこで終わった。
田中は通話を終えた。
ヘッドセットを外した。
耳の後ろが少し痛い。
でも、痛みはまた違う種類だった。
(訊いてくれることだけで、十分)
田中は頭の中で、その言葉を繰り返した。
田中の仕事は、AIが処理できない案件の処理だった。
「処理」。
その言葉が、今日の田中には少し違う感じがした。
処理ではなかった。
「訊く」だった。
「聞く」だった。
訊いて、聞くことが、田中の仕事だった。
そして、それはマニュアル化できない領域だった。
マニュアル書き換えても、「訊く」は書き換えられなかった。
「訊く」は個人の判断で行う行為だった。
個人の判断は、マニュアル化できない。
(じゃあ、僕の目的は、何だろう)
田中は少し考えた。
マニュアルを書き換えて、件数を減らす。
その一方で、「訊く」行為はマニュアル化しない。
「訊く」は人間がやることとして残す。
(残すために書き換えているのか)
田中の中で、何かが一つ、繋がった。
マニュアルが少なすぎると、AIで処理できない案件が多くなる。
多くなると、人間は処理業務に追われる。
追われると、「訊く」余裕がなくなる。
マニュアルが多くなれば、AIで処理できる案件が増える。
人間に残るのは、「訊く」必要のある案件だけになる。
(僕がやりたいのは、人間が『訊く』時間を作ること)
田中はノートを出して書いた。
「目的、仮、更新」
「全員で動ける仕組みを作る(30話)」
「人間が『訊く』時間を作る(31話)」
書いて、少し見た。
二つ書いた目的は矛盾しなかった。
同じ方向を向いていた。
「仕組み」を作るのは、「訊く」時間を作るためだった。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
男はいなかった。
田中はカフェオレを持って、ブースに戻った。
戻って、鈴木のブースの前を通った。
鈴木はちょうど、電話を切ったところだった。
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「鈴木さん」
「ん?」
田中は少し躊躇った。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「鈴木さんは、なんでこのフロア、続けてるんですか」
鈴木は少し目を瞬かせた。
「続けてるって、辞める人、多いってこと?」
「いえ、そういう意味では」
「じゃ、どういう?」
田中は少し考えた。
「……時短で、Bで、子育てで、でも続けてる理由、何かなって」
鈴木は少し笑った。
「そうだねえ」
缶コーヒーを開けた。
「子どもの学費、って最初、言ったよね」
「はい」
「あれは、半分、本当」
「半分?」
「もう半分は、ここにいると、私、『誰かの役に立ってる』って思えるから、かな」
「……」
「電話、取るだけだけど、誰かが困ってる時、聞いてあげられる」
「はい」
「子育てだけだと、それ、なくなるから」
「はい」
鈴木は少し笑った。
「田中くんは、それ、変わった?」
「……え?」
「前は『はい』ばっかり言ってたけど、最近、『なんで?』って訊くよね」
田中は少し驚いた。
「……そうですか」
「うん」
「訊き方、前は知らなかったんだな、って思う」
「……はい」
「訊けるようになると、聞くことも増える」
「はい」
「ま、頑張ってね」
鈴木はそう言って、キーボードを打ち始めた。
田中は自分のブースに戻った。
(誰かの役に立っている、と思える)
それは「評価」とは別の物差しだった。
会社の評価はBでも、鈴木は別の物差しで、自分を測っていた。
その物差しでは、鈴木はたぶん、Bではなかった。
田中もそうだった。
会社の物差しでは、B。
でも、今朝の女性は田中の「大丈夫?」の一言で、少しだけ楽になった。
その物差しで測れば、田中は「貢献している」ことになる。
貢献は評価されないかもしれない。
されなくても、田中の中に残る。
その残りが、田中の続ける理由になる。
午後、田中はまた電話を取り続けた。
取りながら、田中は少しずつ穏やかになった。
評価はBだった。
でも、別の物差しで測れば、田中の動きは「A」だった。
別の物差しを持っていること自体が、大事だった。
五時半。
田中は帰り支度をしていた。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に来栖がいた。
今日はノートPCを閉じていた。
机の上には、缶コーヒーの空き缶が二本。
まだ、三本目は開いていなかった。
田中は通り過ぎるとき、来栖を少し見た。
来栖は窓の外を見ていた。
ビルの外は夕方の色だった。
春の終わりの色だった。
来栖は田中を見なかった。
田中も声をかけなかった。
でも、田中は通り過ぎるとき、少しだけ違う感覚を持った。
(来栖さんも、別の物差し、持ってるのかな)
監査部という部署は、評価基準で他の人を「測る」部署だった。
でも、来栖自身の物差しは、会社の評価からずれているように見えた。
「まあ、気になっただけ」の頻度が、そう思わせた。
気になる、という物差しは、公式の評価軸にはない物差しだった。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「僕の目的」の下に、
「別の物差しで測る。貢献、自分で認める」
と書いた。
電車が来た。
田中は乗った。
揺られながら、田中は思った。
評価がBであっても、別の物差しでは違う。
その違いを自分で知っていれば、十分だった。
他人に知ってもらう必要はなかった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
苦さは今日、少しだけ甘く感じた。
気のせいかもしれない。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(今朝の女性、『大丈夫?』で喜んでくれた)
それは田中の別の物差しで測った、今日の成果だった。
成果と呼ぶのは、少し大袈裟だった。
でも、小さな貢献ではあった。
小さな貢献が積み重なる。
積み重なるうちに、田中の別の物差しは、少しずつ信頼できるようになる。
その信頼を支えに、田中は動き続ける。
眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は今朝の女性の「ありがとうございました」の声を、もう一度聞いた気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、気がしただけでも、田中には意味があった。




