第三十話「仕組み」
翌週の月曜日の朝。
田中はフロアに着いた。
ブースに座った。
モニターを起動すると、メールが複数届いていた。
佐藤から三通。
業務管理部から一通。
監査部から一通。
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佐藤のメールは、「設計会議、来週月曜日、十四時、会議室B」の案内だった。
二通目は、「事前の論点整理の依頼」。
三通目は、「現場の運用実態のヒアリング設計」。
業務管理部からのメールは、「マニュアル改善の正式なプロジェクト化のご案内」。
「プロジェクト名:フロア対応、最適化プロジェクト」
「メンバー:田中様、加藤様、佐藤様、他」
「キックオフ、来週月曜日」
監査部からのメールは、差出人が「来栖 慎吾」だった。
田中は初めて、男の名前を知った。
メールの本文は短かった。
「プロジェクト、観察させていただきます。必要な時、声かけます。来栖」
田中は少しの間、名前を見ていた。
「来栖、慎吾」
苗字があった。
漢字も書いてあった。
田中はメールを一つずつ返信した。
返信しながら、頭の別の場所で考えた。
(プロジェクト化、って)
数週間前の田中なら、こんなメールを受け取ることはなかった。
一人でノートにメモを書いて、カバンに挟んでいただけだった。
それが今、「プロジェクト」になっていた。
応答ランプが点滅した。
田中はヘッドセットをつけた。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
朝一番は臨機応変案件だった。
商品の返品期間を、少しだけ過ぎていた件。
田中は特例で対応した。
通話、十分。
通話が終わったあと、田中は佐藤に返信したメールを見直した。
「論点整理、させていただきます。以下の点について、意見まとめます。
一. フロア運用の現状と課題
二. 対応手順の標準化、方向性
三. 評価軸の見直しの必要性」
「三」を書き足したのは、昨日の夜だった。
書きながら、田中は少し迷った。
「評価軸」という言葉は、田中の中でまだ整理できていなかった。
でも、書かなければならなかった。
なぜなら、金曜日のインシデントで、田中が気づいたことがあったからだった。
「個人の対応時間短縮」は、田中の個人評価で「副次効果」扱いだった。
でも、フロア全体でやれば、「集団の対応能力向上」になるはずだった。
集団の評価軸は、今の仕組みにはなかった。
個人の評価軸しかなかった。
だから、書き換えは「評価対象外」だった。
個人の仕事の範囲外だったから。
でも、集団として見れば、貢献していた。
貢献を見えるようにするには、「評価軸」自体を変える必要があった。
田中はこれを書き足したあと、しばらく見ていた。
これは田中の本来の仕事では、全くなかった。
でも、書き換えの延長にある、と田中は感じた。
十時、加藤が田中のブースに来た。
「田中くん」
「はい」
「今朝のメール、見た?」
「はい」
「プロジェクト化、だってよ」
「はい」
加藤は少し笑った。
「俺、こんなところに名前載るの、十年ぶりだよ」
「……」
「IT部門、辞めた時以来だ」
「はい」
「まあ、乗ろうか」
田中は頷いた。
加藤も頷いた。
二人で少しの間、立っていた。
何も言わなかった。
何も言わないまま、加藤は自分のブースに戻った。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
来栖がいた。
(来栖、さん)
田中は頭の中で、初めて名前で呼んだ。
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「君さ」
「はい」
田中は答えた。
「プロジェクト化、どう?」
「……はい」
「どう、というのは、気持ちのこと」
田中は少し考えた。
「……怖いです」
来栖は少し目を細めた。
細めたのは、笑ったかもしれない。
「そうか」
「はい」
「何が怖い?」
田中は考えた。
「……期待されている気がします」
「うん」
「期待されると、応えなきゃって思います」
「そう」
「でも、応えられなかったら、って怖い」
来栖は缶コーヒーを飲んだ。
一口飲んで、缶を軽く振った。
「応えるためにやらなくて、いいよ」
「え?」
「自分の目的のためにやればいい」
「……」
「期待は相手のものだから、相手が勝手にするもの」
「はい」
「応えてくれたら、嬉しいって思うだけ」
「……」
「応えられなかった時、怒るのは、期待押し付けてるだけだから、気にしなくていい」
来栖は缶をもう一口飲んだ。
「ま、それだけ」
そう言い残して、来栖は去っていった。
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田中は自販機の前で、少しの間立っていた。
(期待は、相手のもの)
(応えるためにやらない)
その視点は、田中には新しかった。
田中は今までの人生で、ずっと「期待に応える」ために動いてきた。
応えることが目的だった。
だから、応えられないと怖かった。
応えられないと、困るのは田中自身だった。
でも、来栖の言い方だと、期待は相手のもの。
田中のものではない。
田中の動きは、田中の目的で決める。
目的はまだはっきりしないが、方向は見え始めていた。
午後、田中は電話を取り続けた。
取りながら、頭の別の場所で考え続けた。
(僕の目的は、何だろう)
ノートの五つの候補を思い出した。
件数を減らす。
時間を作る。
評価を上げる。
呪いを解く。
目的がない。
どれにも、「ために」の続きがなかった。
でも、金曜日のインシデントで、少し見えた方向があった。
「全員で動ける仕組みを作る」
これは田中の好きな方向だった。
好き、という言葉を田中はあまり使わなかった。
でも、今日、使ってみた。
「好き」。
収まりがよかった。
(僕の目的は、「全員で動ける仕組みを作る」で、いいか)
まだ完全に「これ」と決まったわけではなかった。
でも、仮の目的としては十分だった。
仮で動ける。
動きながら、固めていけばいい。
五時半。
田中は帰り支度をしていた。
通路を歩いた。
業務管理部のドアの前を通った。
ドアが開いていた。
中に数人いた。
田中は少し立ち止まった。
立ち止まったが、声をかけようとは思わなかった。
ただ、ドアの中を少しだけ見た。
中の人は、誰も田中を見なかった。
田中はそのまま通り過ぎた。
通り過ぎながら、少し思った。
(来週、あそこに入る)
プロジェクトメンバーとして、業務管理部のドアをくぐる日が来る。
田中は少しだけ身体が震えた。
震えは怖さではなかった。
別の感覚だった。
名前をつけるなら、「期待」に近い何かだった。
自分自身の期待だった。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「プロジェクト化 / 三部門、合流」
「僕の目的 = 全員で動ける仕組みを作る(仮)」
と書いた。
書いて、少し見た。
「仮」と書いたのが、田中には大事だった。
「仮」なら、後から変えられる。
「本物」だと、守らなければならなくなる。
電車が来た。
田中は乗った。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(「来栖」という名前、初めて見た)
来栖、慎吾。
名前がある人は、存在する。
存在する人には、過去がある。
過去があると、田中には少し思えた。
でも、過去を訊いても、来栖は答えない気がした。
答えないなら、訊かない。
それでいい。
布団の中で、田中はもう一度、口の中で言ってみた。
「来栖、慎吾」
声にはならなかった。
ならなかったが、その名前は、田中の口の中に、しばらく残っていた。
残ったまま、田中は眠った。




