第二十八話「インシデント」
金曜日の朝、九時十五分。
田中はブースで、応答ランプが点滅するのを見ていた。
朝から電話が少し多かった。
十件、立て続けに来ていた。
九時半、田中はモニターの隅に異常を見た。
「AI判定、正常率 / 三十二パーセント」
普段は九十パーセント台だった。
今、三十二。
AIがほとんどの電話を、人間に振っていた。
隣のブースから、先輩が顔を出した。
「田中くん、これ、何?」
「……システム障害、かもしれません」
「電話、止まらないよ」
「はい」
田中はすぐに、加藤のブースに走った。
加藤は電話中だった。
田中は待った。
加藤が電話を切った。
「加藤さん、AI、異常です」
「見てる」
加藤はすでにモニターで、状況を確認していた。
「IT推進部に連絡した」
「はい」
「当面、人間で回す」
「はい」
フロア全体に、アナウンスが流れた。
「AIシステム、一時障害、発生中。全オペレーター、受電、継続、お願いします」
コールセンター部長からの声だった。
田中は自分のブースに戻った。
ヘッドセットをつけた。
応答ランプが三つ、点滅していた。
一つ目を取った。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
「もしもし、さっき、機械の電話、途中で切られたんだけど」
「申し訳ございません。ただいま、システム障害中です」
「は?」
「人間で対応させていただきます」
田中は状況を聞いて対応した。
通話、十分で終わった。
二つ目を取った。
同じような内容だった。
「AIが途中で切れた」
「申し訳ございません」
田中は対応した。
十時、十一時、十二時。
田中は電話を取り続けた。
昼休みも取れなかった。
フロア全員が、同じ状況だった。
鈴木も、中村も、加藤も、先輩も、休まず電話を取っていた。
十二時半、田中はふと気づいた。
フロアに人が一人、増えていた。
あの男だった。
いつもの男がフロアの中央に立っていた。
男はノートPCを閉じていた。
手にはメモ帳があった。
男はフロア全体の状況を観察していた。
観察しているだけではなかった。
男は一人ずつ、オペレーターのブースを回っていた。
加藤のブースの前で、少しだけ止まった。
加藤と二言、三言、話した。
それから、田中のブースの方向に歩いてきた。
男は田中のブースの横で、立ち止まった。
田中は電話中だった。
男は黙って立っていた。
田中は電話を続けた。
顧客の名前、注文番号、問題内容。
丁寧に聞き取った。
対応を決めた。
通話、八分で終わった。
田中は通話を終えた。
男を見た。
「……」
「対応、いつもこんな感じ?」
男は訊いた。
いつもの「君さ」ではなかった。
もっと、業務的なトーンだった。
「……はい」
「通話時間、短いね」
「はい」
「他の人、倍、かかってる」
「……」
「やり方、変えてるの?」
田中は少し考えた。
「状況、最初に聞くようにしてます」
「ふーん」
「確認、先に取ると、後が早いので」
男は少し頷いた。
「それ、他の人に広げられる?」
「……たぶん」
「今、やれる?」
「え?」
「今日、緊急事態だから、広げるタイミング、今しかない」
田中は少し黙った。
フロア全体のオペレーターに、やり方を広げる。
田中はそんなこと、したことなかった。
リーダーでもなかった。
でも、男は「今、やれる?」と訊いていた。
「……加藤さんに相談させてください」
田中は言った。
「いいね」
男は少し笑った。
笑ったというか、目が少し細くなった。
「じゃ、五分で戻ってきて」
男はそのまま去った。
田中は加藤のブースに走った。
加藤は今、電話を切ったところだった。
「加藤さん」
「おう」
「あの、全員に対応手順を共有したいんですけど」
「え?」
「状況、先に聞くやつ」
加藤は少し目を丸くした。
「お前、それ、自分から?」
「……男の人に言われました」
「男?」
「監査部の人です」
加藤は一瞬、黙った。
「……あの人、来てる?」
「はい」
加藤は少し笑った。
「面白いな」
「はい」
「やろう。俺も手伝うよ」
「ありがとうございます」
加藤と田中は、フロアに簡易のアナウンスを回した。
「対応手順、変更。状況、最初に聞き取り。その後、マニュアル照会」
鈴木、中村、先輩、他のオペレーター、全員が聞いた。
誰も反対しなかった。
みんな、疲れていた。
疲れていたから、「楽になる」なら、何でも受け入れた。
田中は自分のブースに戻った。
電話を取った。
取りながら、フロアの音を少しだけ意識した。
他のオペレーターの声も変わっていた。
「まず、状況、伺ってもよろしいでしょうか」
同じパターンの声が、フロア全体に響いた。
響いている感じがした。
二時頃、IT推進部から連絡が入った。
AIシステム、復旧開始。
三時頃、AI判定、正常率、六十パーセントに回復。
四時頃、九十パーセントまで戻った。
五時、電話の数がようやく減り始めた。
田中はヘッドセットを外した。
耳の後ろが痛かった。
でも、今日の痛みは達成感に近かった。
田中はフロアを見渡した。
他のオペレーターもヘッドセットを外し始めていた。
誰も、何も言わなかった。
でも、空気は少しだけ変わっていた。
ふと、田中は男を探した。
男はいなかった。
いつの間にか、フロアから去っていた。
フロアの中央には、誰もいなかった。
加藤が田中のブースに来た。
「田中くん、お疲れ」
「お疲れさまです」
「今日、お前、すげえな」
「……いえ」
「フロア、全員、動かしたぞ」
「……加藤さんのおかげです」
「違うよ」
加藤は少し笑った。
「俺は手伝っただけ」
「……」
「お前、変わったな」
田中は少し黙った。
「……変わったでしょうか」
「変わった」
加藤はそう言って、自分のブースに戻った。
田中は座ったまま、モニターを見た。
対応件数、今日、四十二件。
平均対応時間、七分。
どちらも、普段の三倍の動きだった。
でも、疲労は不思議と軽かった。
達成感が疲労を打ち消していた。
五時半。
田中は帰り支度をしていた。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に男がいた。
ノートPCを開いていた。
今日のノートを書いているらしかった。
田中が通り過ぎる時、男が顔を上げた。
目が合った。
男は少しだけ頷いた。
田中も頷き返した。
それだけだった。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
昨日の「佐藤さん:次の候補、待っている」の下に、
「今日、インシデント。フロア全員、動いた」
と書いた。
書いて、少しの間、見ていた。
田中は少し笑った。
笑ったというか、口の端が動いた。
「変わったな」と加藤は言った。
田中は自分では、まだわからなかった。
でも、他の人が見れば、変わっているらしかった。
電車が来た。
田中は乗った。
吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中は今日、男が言った「今、やれる?」を思い出した。
あの問いに、田中は「はい」と答えた。
呪いの「はい」ではなかった。
選んだ「はい」だった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを今日は買ってきた。
開けて、一口飲んだ。
苦い。
苦さは今日の疲労と、よく合った。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(目的、少しだけ見えたかもしれない)
(全員で、動くこと)
(一人で動くより、楽で、意味がある)
思って、田中は眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は今日のフロア全体の動きを、夢でもう一度見た気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、気がしただけでも、田中には十分だった。




