第二十七話「比較」
水曜日の朝。
「目的が、なかった」。
昨日の自分の言葉が、まだ田中の中に残っていた。
田中はブースに座って、モニターを起動した。
応答ランプがすぐに点滅した。
朝一番から、強めのクレームだった。
「責任者、出せ」
「申し訳ございません。状況、もう一度、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「お前じゃ、話にならん」
「……」
田中は粘ろうとした。
粘った。
でも、今日は客の怒りがやけに重く感じた。
結局、二十分粘った。
粘って、最後は客が諦めるように納得した。
通話が切れた。
田中は通話を終えて、しばらく動かなかった。
耳の後ろが痛かった。
(重いな、今日)
田中は思った。
火曜日の夜から、少し眠りが浅かった。
「目的」という言葉が、頭の中でときどき回っていたからかもしれない。
十時、中村が田中のブースの前を通った。
「おう、田中」
「……おはようございます」
「昨日、面談だった?」
「はい」
「どうだった?」
「……Bでした」
中村は少し笑った。
「俺も、Bだよ」
「……中村さんも?」
「うん」
中村は少しだけ、田中のブースに寄った。
「でも、俺、来月から営業だから、期待してる」
「はい」
「営業で、S、取りたい」
「はい」
「コールセンターだと、B止まりだから」
田中は少し黙った。
「……そういうものですか」
「そう。コールセンター、そういうポジション」
「……」
「まあ、俺は辞めるわけじゃない。部署、変えるだけ」
中村はそう言って、通り過ぎた。
田中は中村の背中を少し見ていた。
中村は「選べない」と言っていた。
営業に「選べない」から異動する、と言っていた。
でも、今日の中村は、異動を「期待」と呼んだ。
少しだけ、違う色だった。
「期待」は目的に近い色だった。
目的があれば、動ける。
目的があれば、評価もSに届くかもしれない。
(僕は、移動できない)
田中は思った。
営業にも、他の部署にも、声はかからない。
田中はずっと、コールセンターにいる。
コールセンターでBを続ける。
(でも、別にいいかな)
そう思ってみた。
思ってみたが、自分の中ですぐに反論が出た。
(本当に、いいのか?)
答えは出なかった。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
加藤がいた。
缶コーヒーのボタンを押していた。
「田中くん」
「はい」
「どうだった、面談」
「……B、でした」
加藤は少し黙った。
「そっか」
「はい」
加藤は缶を受け取った。
缶を軽く振った。
「俺も、ずっとBだったよ」
「……加藤さんも?」
「うん。もう、五年」
「……」
「定年後、再雇用だから、B上限なんだ」
「……」
「Sにしようがなくて」
加藤は少し笑った。
「田中くん、ひどいよな、今回」
「……」
「あれ、俺も見たよ」
「……」
「マニュアル改善、評価対象外、って書いてあっただろ」
「はい」
「あれ、ちょっとひどい書き方だと思った」
田中は少し黙った。
「……でも、仕組みとしてそうなので」
「うん、仕組み、だね」
「はい」
「仕組みだけで評価、決まるなら、俺たちの動きは無意味になる」
「……」
「でも、無意味じゃない、って俺は思ってる」
加藤は缶を口に運んだ。
一口飲んだ。
「仕組みが見てくれる成果と、見てくれない成果がある」
「はい」
「見てくれない成果を、自分で認める必要がある」
「……」
「それ、できる人、少ないんだよな」
加藤は缶を置いた。
「田中くん、できると思う?」
田中は少し黙った。
「……わかりません」
「うん、そうか」
加藤は少し笑った。
「俺も、わからないまま、五年、やってる」
「はい」
「でも、やってることには意味がある、と思ってる」
「はい」
「それで、いいんだ、と最近、思う」
加藤は缶を持ったまま、去ろうとした。
去り際に少しだけ振り返って、
「佐藤さん、今日、メール、来た?」
「……まだ、です」
「じゃ、そろそろ来るかな」
「はい」
加藤はそのまま、通路を歩いていった。
田中は自販機の前に、少しの間立っていた。
(見てくれない成果を、自分で認める)
田中は頭の中で、その言葉を繰り返した。
繰り返すと、その言葉は少しずつ、田中の中に収まった。
収まったが、まだ実感として追いついていなかった。
ブースに戻った。
午後の電話を取った。
取りながら、田中は頭の隅で考え続けた。
三時過ぎ、モニターにメールが届いた。
佐藤からだった。
「次のマニュアル改善、候補、ございますか」
田中はメールを三回読んだ。
三回読んだあとで、田中は少し息を吐いた。
佐藤は待っていた。
田中の次の動きを、待っていた。
佐藤にとって、田中の動きは「意味」があった。
田中は返信を書いた。
「候補、三つあります。整理して、来週お送りします」
送信を押した。
押したあとで、田中は少し驚いた。
「三つあります」と即答できた。
答えが頭の中にあったからだった。
あったのに、気づいていなかっただけだった。
五時半。
田中は帰り支度をしていた。
鈴木がまた、田中のブースの前を通った。
「田中くん、元気ない?」
「……いえ」
「B、気にしなくていいよ」
「はい」
「Bは、頑張ったぐらいの意味だから」
「はい」
鈴木は少し笑った。
笑い方は火曜日より、少しだけ明るかった。
田中は立ち上がった。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に男がいた。
ノートPCを見ていた。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎるとき、男は顔を上げなかった。
でも、田中は一瞬、口を動かした。
「佐藤さんに返信、しました」
声にはならなかった。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「目的が、なかった」の下に、
「加藤さん:見てくれない成果を、自分で認める」
「佐藤さん:次の候補、待っている」
と書いた。
書いた文字を見ながら、田中は少し考えた。
(僕の目的は、何だろう)
答えはまだ出なかった。
でも、少しだけ輪郭が見え始めていた。
(見てくれない成果を、積み続ける)
(次の候補を、用意し続ける)
(動き続ける)
それが「目的」と呼べるか、田中にはわからなかった。
呼べなくてもよかった。
呼べなくても、田中は明日も動く。
動くこと自体が、田中の今の答えだった。
電車が来た。
田中は乗った。
揺られながら、田中は考え続けた。
考え続けることを、疲れると思わなかった。
考え続けることは、最近、田中には少しだけ楽しかった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールは今日は買ってこなかった。
飲みたいと思わなかった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(加藤さんも、Bで五年)
(僕も、たぶんしばらく、Bだろう)
(でも、動く)
眠った。
眠りは昨日より、少しだけ深かった。
深かった気がしただけかもしれない。
でも、気がしただけでも、田中には十分だった。




