第二十六話「目的、なんでしたっけ?」
火曜日。
田中はいつもの時間に、フロアに着いた。
昨日の面談の余韻は、まだ頭の隅にあった。
消えてはいなかった。
朝一番の電話は緊急性案件だった。
「至急、配送の手配、できますか」
病院の職員の声だった。
介護用の器具を、至急、届けて欲しい。
田中は配送業者にすぐに内線を入れた。
手配、完了。
通話時間、五分。
顧客はお礼を言って、電話を切った。
田中は通話を終えて、少し息を吐いた。
速く対応できた。
速く対応できても、「B」だった。
(どうでもいい)
ふと、田中は思った。
思って、少し驚いた。
自分の頭の中に、「どうでもいい」という言葉が出てきたのは、珍しかった。
田中はモニターを見た。
応答ランプがまた点滅している。
田中はヘッドセットを取った。
取って、つけた。
つけたが、手の動きが少し鈍かった。
鈍かったのに気づいた。
鈍いと気づいたのは、初めてだった。
午前中、田中は電話を淡々と取った。
対応時間は変わらなかった。
判断も変わらなかった。
でも、内面の温度が少し下がっていた。
下がっていたのに、田中は気づいていた。
気づいていたが、止めなかった。
止め方を知らなかった。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
男がいた。
缶コーヒーのボタンを押していた。
「君さ」
「はい」
田中は答えた。
いつもの「はい」だった。
でも、今日は少しだけ疲れた「はい」だった。
男は缶を受け取った。
田中をちらりと見た。
「何か、あった?」
田中は少し黙った。
言うかどうか、迷った。
迷ったが、すぐに口を動かした。
「……昨日、評価面談でした」
「ふーん」
「B、でした」
男は缶を軽く振った。
「それ、何のため?」
田中は少し黙った。
「……評価、ですか」
「違う」
「え?」
「マニュアル、書き換える目的、なんでしたっけ?」
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田中は少しの間、動かなかった。
男は缶を口に運んだ。
一口飲んだ。
「最初、話してた時、目的、何だったっけ?」
田中は必死に思い出そうとした。
最初、この男と自販機で話した時。
確か、リコールの案件の話だった。
「呪いだね」と言われた日。
でも、その時、田中は「目的」を話しただろうか。
話していなかった気がする。
そもそも、「目的」を田中は言語化していなかった。
「……」
「思い出せない?」
「……はい」
「それ、少し問題」
男は少し笑った。
笑ったというか、息を短く吐いた。
「目的、持たずに動いてたら、評価で決まるよ」
「……」
「B、なら、Bに収まる」
「はい」
「S、狙うなら、目的、持ってないと無理」
「……」
「まあ、気になっただけ」
男は缶を持ったまま去っていった。
田中は自販機の前で、少しの間立っていた。
(目的)
田中は頭の中で、その言葉を繰り返した。
目的が何だったかを、思い出せない。
書き換えたいと思った。
思ったことは覚えている。
でも、なぜ?
件数を減らすため?
時間を作るため?
では、時間を作って、何をするため?
田中は答えにたどり着けなかった。
たどり着けないまま、ブースに戻った。
午後、田中は電話を取り続けた。
取りながら、頭の別の場所で考え続けた。
電話の合間に、田中はノートを出した。
「目的、なんでしたっけ?」
と書いた。
書いて、しばらく空白を見た。
書いた言葉の下に、田中はいくつか候補を書いた。
「件数を減らす / ために?」
「時間を作る / ために?」
「評価を上げる / ために?」
「呪いを解く / ために?」
四つ書いた。
書いたが、どれも「ために」の後が続かなかった。
件数を減らして、どうしたい?
時間を作って、何をする?
評価を上げて、何を得る?
呪いを解いて、どうなる?
田中はどれにも、答えが出なかった。
答えが出ないのに、動いてきた。
動いてきたから、成果は出た。
マニュアルは書き換わった。
件数は減った。
時間はできた。
でも、目的はなかった。
(僕、何のために動いてたんだろう)
田中は思った。
ふと、一つ気づいた。
田中は「呪い」を解くために動いていたのかもしれない。
でも、「呪いを解く」は目的ではなく、「結果」だった。
目的はもっと先にあるはずだった。
その先が、田中には見えなかった。
五時半。
田中は帰り支度をしていた。
ふと、鈴木が田中のブースに顔を出した。
「田中くん、昨日、面談だった?」
「はい」
「どうだった?」
「……Bでした」
鈴木は少し黙った。
「そっか」
「はい」
「私も、Bだよ」
「……」
「鈴木さんも?」
「うん。時短だと、どうしても上には行けないのよね」
「……」
「でも、まあ、そういうもん」
鈴木は少し笑った。
笑ったが、目は少し疲れていた。
田中は少し黙った。
「鈴木さん」
「ん?」
「鈴木さんの目的、って何ですか」
鈴木は少し驚いた顔で、田中を見た。
「え?」
「仕事の目的」
鈴木は少し考えた。
「……子どもの学費、かな」
「はい」
「それくらいしか、考えてないよ」
「……」
「田中くんは?」
「……わかりません」
鈴木は少し笑った。
「わからないのがいちばん、困るね」
「はい」
鈴木は自分のブースに戻った。
田中は立ち上がった。
フロアを出た。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に男がいた。
ノートPCを見ていた。
田中は男を少し見た。
(あの人の目的は、何なんだろう)
思ったが、訊かなかった。
訊いても、答えてくれない気がした。
答えてくれなくてもいい。
田中は通り過ぎた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートをもう一度開いた。
四つの候補の下に、五つ目を書いた。
「目的が、なかった」
書いて、少し見ていた。
「目的が、なかった」は否定的ではなかった。
ただ、事実だった。
事実として受け入れるところから、始めなければならなかった。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(目的がないのが、ダメなわけじゃない)
(ないなら、ないで、作ればいい)
(でも、作り方が、わからない)
答えは出なかった。
出ないが、田中は明日も仕事に行く。
行って、電話を取る。
取りながら、考え続ける。
それ以外の選択肢は、今の田中にはなかった。
なかったが、その「ない」は不安ではなかった。
明日がある、こと自体がまだ、少しだけ意味を持っていた。
意味、という言葉を田中は使わなかった。
使わなかったが、感覚としてはそうだった。
感覚のまま、田中は眠った。
眠りは今日は、少しだけ重かった。
重さは不快ではなかった。
ただ、重かっただけだった。




