第二十四話「俺の言葉」
木曜日。
田中は一日、電話を取り続けた。
バッテリーの件は、一日二件しか来なかった。
一週間前は六件あった。
三分の一に減っていた。
空いた時間は、田中は「返品・交換の特例対応」のメモに使った。
ノートPCで過去のログを引っ張り出して、傾向を整理した。
どのパターンでAIが処理しきれなかったのか。
どのパターンで顧客が納得したのか。
整理しながら、田中は気づいた。
(これ、楽しい)
楽しい、という言葉を田中は今まで、仕事の中で使ったことがなかった。
電話を取るのも、クレームを受けるのも、「仕方がない」ことだった。
でも、整理作業は違った。
「やりたくてやっている」感覚があった。
夕方、四時頃、強めのクレームが入った。
「責任者、出せ!」
今週、三回目の怒鳴り声だった。
田中は落ち着いて対応した。
粘って、状況を聞いて、配送業者と交渉した。
通話、二十五分。
納得して、電話が切れた。
電話が切れたあとで、田中はモニターを見た。
対応ログに、「クレーム解決率、今月、九十パーセント超」と表示されていた。
フロアの平均は七十パーセントだった。
田中は一人だけ、数字が違っていた。
(なんで、僕だけ、解決率、高いんだろう)
田中は少し考えた。
答えはたぶん、「粘る」ことだった。
責任者にすぐに振らずに、もう一度、聞く。
その少しの粘りが、顧客の気持ちをゆるませるらしい。
でも、これもマニュアル化、できるのかもしれない。
田中はノートに書き足した。
「クレーム対応、初動五分の聞き取りガイドライン」
書いて、少し見た。
見ているうちに、田中は少し笑った。
前は気にしないふりをしていたクレームの対応が、今、「資料化」できる領域になっていた。
五時過ぎ、加藤がまた、田中のブースに通りかかった。
田中は加藤の姿を見て、立ち上がった。
「加藤さん」
「お、どうした」
「あの、少し、時間、ありますか」
「うん、いいよ」
二人、休憩室に入った。
田中は少し息を吸った。
「この前、『いろいろ』って言われてたこと、もう少し聞いてもいいですか」
加藤は少し黙った。
缶コーヒーを開けた。
「どこから話すかな」
「……」
「IT部門にいた頃、システムの大きな入れ替えを任されたんだ」
「はい」
「現場の反対を押し切って進めた」
「はい」
「現場の人が、一人、潰れた」
「……」
「俺のせいではなかったけど、無関係でもなかった」
「はい」
加藤は缶を口に運んだ。
「そのあと、俺はしばらく動けなかった」
「はい」
「辞めようと思ったけど、会社は辞めさせてくれなくて」
「はい」
「結局、別の部署に移って、最後は再雇用でコールセンター」
「はい」
「今は、まあ、楽にやってる」
加藤は少し笑った。
「田中くんの話を聞いて、少し懐かしかったよ」
「……懐かしい?」
「うん」
「昔の俺みたいだった」
「……」
「昔の俺は、現場の反対を無視して進めた」
加藤は缶を置いた。
「田中くんは、現場の声を聞きながら進めてる」
「……」
「それ、全然、違う」
田中は少し黙った。
「ありがとうございます」
「いや、違うこと気づいてるのは、田中くん自身だよ」
「はい」
「ま、また話せばいい」
加藤は休憩室を出ていった。
田中はしばらく座っていた。
加藤の話は、田中の中で少しずつ収まっていった。
加藤も「呪い」を持っていたのかもしれない。
加藤の呪いは、田中の呪いと違った。
でも、どちらも過去の出来事から来ていた。
田中は立ち上がった。
フロアに戻った。
ヘッドセットを片付けた。
退勤の準備をした。
通路を歩いた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に男がいた。
今日はノートPCを閉じていた。
机の上には、空の缶コーヒーが三本、並んでいた。
田中は通り過ぎた。
通り過ぎるときに、田中は一瞬振り返った。
振り返って、男の顔をもう一度見た。
男は窓の外を見ていた。
ビルの外は夕方の色だった。
男は何もしていなかった。
ただ座って、外を見ていた。
田中はそのまま通路を抜けた。
通り過ぎたあとで、田中は少し思った。
(あの人、疲れてるな)
そう思ったのは初めてだった。
今までは、「忙しそう」「集中してる」、くらいしかわからなかった。
でも、今日は「疲れてる」と感じた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「加藤さん、昔、IT部門で現場潰した / 呪い」
書いたあとで、田中はしばらく見ていた。
田中は電車に乗った。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを開けた。
一口飲んだ。
苦い。
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その頃、会議室で来栖はまだ座っていた。
窓の外はすっかり、夜になっていた。
蛍光灯の光だけが、会議室の中を照らしていた。
来栖は缶コーヒーの四本目を開けた。
一口飲んだ。
缶をテーブルに置いた。
机の上にノートPCが、閉じたままで置かれていた。
画面には表示されていなかったが、来栖の頭の中には、今日、見た田中の顔が浮かんでいた。
田中は今日、加藤と長く話していた。
監視カメラのログから、来栖はそれを知っていた。
内容まではわからないが、田中の顔は真剣だった。
来栖は缶を軽く振った。
「……俺の言葉、覚えてたんだ」
口に出した。
声は会議室の壁に吸い込まれて、消えた。
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何週間も前、来栖は田中と自販機の前で話した。
短いやり取りだった。
「やる必要、ある?」
「書き換えたい、って思う人に言うといいよ」
「時間は、生まれない、作るしかない」
「話すより、聞くほう大事」
ほんの数回の言葉。
覚えているとは思わなかった。
でも、田中は覚えていた。
覚えていただけでなく、動いていた。
マニュアル更新。
AIの振り分け変更。
加藤との連携。
一ヶ月前にはなかった動きだった。
来栖は缶を口に運んだ。
飲み終わらないうちに、缶を離した。
離したあとで、少しの間、動かなかった。
(俺は、昔、直接やろうとして失敗した)
(だから、今回は問いだけ置いてみた)
(置いただけのつもりだった)
(でも、田中はその問いを拾った)
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来栖は缶をテーブルに置いた。
「そう、か」
口に出して言った。
声はやはり、壁に吸い込まれた。
「いいか」の中には、いくつか別の意味が混じっていた。
「拾ってくれて、良かった」
「でも、負担、かけてないか、少し心配」
「あの頃の田所さんには、できなかったこと」
「今、田中くんにできているかもしれない」
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来栖は会議室の蛍光灯を見上げた。
蛍光灯のカバーに、小さな黒い点があった。
虫の死骸だった。
来栖は少し笑った。
笑ったが、笑い声にはならなかった。
(田中くんのブースの天井にも、あるんだよな、これ)
(気づいてるのかな)
来栖は缶をもう一度、口に運んだ。
飲み終わった。
缶をゴミ箱に入れた。
四本目の缶だった。
ノートPCをカバンに入れた。
会議室を出た。
廊下を歩いた。
田中はもう、帰っていた。
フロアは静まり返っていた。
AIの音声だけが、隣のブースからかすかに漏れていた。
来栖はフロアを通り過ぎた。
通り過ぎるときに、田中のブースを一瞬見た。
モニターは暗くなっていた。
デスクに田中のノートはなかった。
持ち帰っていた。
来栖は少し笑った。
笑ったが、笑い声にはならなかった。
来栖は会社を出た。
駅までの道を歩いた。
夜の空気が柔らかかった。
春の夜の匂いがした。
来栖は駅のホームで、電車を待ちながら、スマホを出した。
メモアプリを開いた。
今日の日付の下に、一行書いた。
「田中、動いた。加藤経由でIT推進部まで」
書いて、少しの間、見ていた。
その下に、もう一行書き足した。
「俺の言葉、覚えてたんだ」
書いて、保存した。
電車が来た。
来栖は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、来栖は目を閉じた。
目を閉じると、何年も前の田所美津子の顔が浮かんだ。
浮かんだが、それ以上は考えなかった。
今夜は考えないことにした。
「そう、か」
来栖はもう一度、小さく呟いた。
声にはならなかった。
でも、自分の口が動いたことは、わかった。
動いた口は詰まらなかった。




