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第二十三話「兆し」

水曜日の朝。


田中はモニターを起動して、少し驚いた。


「マニュアル改定、告知」という件名の社内メールが、届いていた。


差出人は業務管理部。


開けた。


「バッテリー関連、お問い合わせ対応マニュアルを更新しました。


変更点:充電ケーブル抜き差しを、一次対応に追加。


IT推進部と共同で、AIの応答も更新済みです。


今後のお問い合わせ件数、モニタリング、お願いします」


田中はメールを三回読んだ。


三週間前にカバンに挟んだメモの内容が、会社の正式なマニュアルに反映されていた。


自分の名前はメールには出ていなかった。


でも、中身は田中の書いたもの、そのままだった。


田中は少しの間、モニターを見ていた。


頷くことも、ため息をつくこともなかった。


ただ見ていた。


見ている間、田中の頭の中で、少しずつ現実感が追いついてきた。


(動いた)


その単語が、田中の頭の中で浮かんだ。


「動いた」のは、何か。


マニュアル。会社。


それとも、田中自身。


たぶん全部だった。


朝一番の電話を取った。


いつも通りだった。


でも、今日は一つ、違いがあった。


十時、田中は気づいた。


いつもなら朝一で来るはずのバッテリーの件が、来ない。


午前中、一度も来なかった。


AIがマニュアル通り、「ケーブル抜き差し」を一次対応として、案内し始めていた。


その多くがAIの一次対応で、解決していた。


田中まで届く件数が減った。


それだけのことだった。


昼休み。


田中は自販機の前に立った。


カフェオレ。


缶を受け取って振り返った。


男がいた。


缶コーヒーをすでに手に持っていた。


「君さ」


「はい」


「バッテリー、減った?」


田中は少し驚いた。


「……はい」


「減った時間、何に使う?」


田中は少し考えた。


「……まだ、決めてないです」


「決めなくてもいいけど、何もしないと、別の仕事で埋まるから」


「はい」


「空きは、放っておくと埋まる」


男は缶を飲んだ。


「空きを意図的に守るのは、別のスキルだから」


「……」


「まあ、気になっただけ」


男は缶を持ったまま去っていった。


田中は自販機の前で、少しの間立っていた。


(空きを、守る)


田中は頭の中で、その言葉を繰り返した。


田中の今までの人生で、「空き」を意識したことはなかった。


空いた時間はすぐに、何か別のことで埋まった。


埋めなきゃいけない気がした。


でも、男は「守れ」と言った。


午後、田中はまた電話を取った。


いつもより件数は少し減っていた。


その少しの減りが、田中の頭の回転に余裕を作った。


田中は対応の合間に、ノートにメモをした。


「次、書き換えたい、マニュアル領域」


「一. 返品・交換の特例対応」


「二. 緊急配送の例外フロー」


「三. 感情ケア案件の対応ガイドライン」


三つ書いた。


書きながら、田中は思った。


(三つも書いちゃった)


全部書き換えるのは、当分先だった。


でも、書き出しておくと、頭の中は軽くなった。


五時過ぎ、加藤が田中のブースに来た。


「お、メール、届いたか」


「……はい」


「見た?」


「はい。ありがとうございます」


「いや、俺は渡しただけ、だよ」


加藤は缶コーヒーを持っていた。


「佐藤さんから連絡、あった?」


「まだ、です」


「じゃ、そろそろあるな」


「はい」


加藤は少し笑った。


「田中くん、どうだ。やってみて」


田中は少し黙った。


「……疲れます」


「そうか」


「でも、面白いかもしれないです」


「ほう」


加藤は缶を飲んだ。


「俺も、昔、そんな感覚あったな」


「……IT部門時代ですか」


「うん」


「どうして、辞めたんですか」


加藤は少し黙った。


「……いろいろ」


それ以上、言わなかった。


缶を置いた。


「ま、また話す」


と言って、ブースに戻った。


田中は加藤の背中を見送った。


「いろいろ」


田中は頭の中で、その言葉を繰り返した。


「いろいろ」は加藤自身の、「お怪我は、されませんでしたか」かもしれなかった。


聞いても話さないなら、聞かないほうがいい。


それは田中が最近、学び始めたことだった。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通った。


会議室に男がいた。


ノートPCを見ていた。


田中は通り過ぎた。


通り過ぎるとき、男の顔が少し疲れて見えた。


疲れているというより、考え込んでいる顔だった。


田中には判別がつかなかった。


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを開いた。


「呪いの起源 / 陸上部 / 中二」の下に、


「マニュアル書き換え、反映。件数、減る」


と書いた。


書いて、少し見た。


三週間前のメモが現実になった。


それが書かれたノートの一行は短かった。


短いが、重かった。


電車が来た。


田中は乗った。


車内で吊革につかまって揺られた。


揺られながら、田中は考えた。


(時間が空いた)


(空きを守る)


(次の書き換えをする)


それは田中の新しいサイクルだった。


前のサイクルは、「電話を取る」→「疲れる」→「寝る」だった。


今のサイクルには、「考える」と「動く」が入っていた。


家に着いた。


ノートをテーブルに置いた。


缶ビールを開けた。


一口飲んだ。


苦い。


苦さはゆっくり、喉を通った。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに、田中は一つだけ考えた。


(加藤さん、なんで辞めたのかな)


考えて、答えは出なかった。


でも、考えること自体が、田中には新しかった。


他人の「いろいろ」に興味を持つこと。


田中は今まで、あまりしていなかった。


自分のことで精一杯だった。


今、少しだけ余裕ができた。


余裕ができた分、他人の「いろいろ」が見えてきた。


加藤さんの「いろいろ」。


そして、もしかしたら、あの男の「いろいろ」も。


眠りに落ちた。


眠りは深かった。


深い眠りの中で、田中は加藤の若い頃を想像した。


IT部門で働いている加藤。


若くて元気だった頃。


その顔は田中には想像できなかった。


想像できなかったが、「辞めた」のには、たぶん理由があった。


理由は来週、明かされるかもしれない。


明かされないかもしれない。


どちらでもよかった。


田中はただ、自分のペースで進めば良かった。


進みながら、他人の「いろいろ」にも耳を傾けられるようになればいい、と思った。


思って、田中は眠った。


眠ったが、明日の朝、目が覚めたときに、その考えはまだ残っているかもしれない。


残っているかもしれない、という予感だけで、田中には十分だった。


眠りの縁で、田中は一つだけ思った。


(加藤さんも、「いろいろ」を抱えながら、ここにいる)


田中も「呪い」を抱えながら、ここにいる。


抱えながら、一緒のフロアにいること自体が、もしかしたら大事、なのかもしれなかった。


大事、という言葉を田中は使わなかった。


使わなかったが、その感覚だけはあった。


あったまま、眠りは深くなった。


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