第二十二話「むかし、もう一度」
火曜日。
朝、田中は電車の中で、少しだけぼんやりしていた。
昨日の佐藤との打ち合わせの内容が、まだ頭のどこかに残っていた。
残っているのは悪くなかった。
でも、寝かせておいたほうがいい気がした。
フロアに着いた。
朝一番の電話は、感情ケア案件だった。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
「……あの」
女性の声だった。
三十代くらい。
でも、疲れている。
怒ってはいなかった。
ただ、長い沈黙を抱えた声だった。
「返品、したいんですけど」
「はい。ご注文番号をお伺いしてもよろしいでしょうか」
女性は番号を読み上げた。
モニターに情報が表示された。
子ども用の服。
一ヶ月前の注文。
「一ヶ月、お使いいただいたあとの返品、ということでしょうか」
「……いえ」
「はい?」
「使ってないです」
「……」
「タグ、つけたままで」
田中は少し黙った。
「事情、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「……娘、流産しました」
「……」
「注文したあとに」
「……お悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
女性の声が少しだけ震えた。
田中はその沈黙を、知っている気がした。
詰まらない自分の沈黙とは、違う。
違うが、何かは、似ていた。
「商品、発送済みですよね」
「はい」
「うちまで送り返す必要、ありますか」
「お客様のご希望次第です」
「どういうこと」
「破棄のお手続きでも、ご対応できます」
「……いいんですか」
「はい」
女性はしばらく黙った。
「助かります」
「はい」
「……実は、先月も別のサイトでキャンセルしたんです」
「……」
「二回目で、また電話するの、つらくて」
「はい」
「でも、機械だと理由書く欄があって」
「はい」
「書けなくて、人に回してもらいました」
「……」
田中は膝の上で拳を少しだけ強く握った。
「今日、機械でも途中で切られました」
「申し訳ございません」
「いえ、たぶん、説明がうまくいかなかったから」
「……」
「でも、田中さん、すぐわかってくれて」
「はい」
「よかった」
通話は静かに終わった。
田中は通話を終えた。
ヘッドセットを外した。
耳の後ろが少し痛い。
でも、痛みは違う感じだった。
田中は少しの間、モニターを見ていた。
返品、というより、破棄の手続きが残っていた。
システムには「破棄」の選択肢があった。
田中は今まで、その選択肢を見ていなかった。
見ていたかもしれないが、意識していなかった。
意識していなかったのは、使うことがなかったからだった。
(前にも、誰か、いた)
ふと、田中は思い出した。
最初の日のクレーマー女性。
子どものプレゼントの商品。
あれも返品ではなく、何か別のことだった。
田中はその時、「お怪我は、されませんでしたか」と言った。
意味はわかっていなかった。
でも、言葉は勝手に出た。
あれから、何週間経ったんだろう。
田中は数えた。
四週間か、五週間。
その短い期間で、田中はかなり違う場所に来ていた気がした。
午前中、田中は他の電話も対応した。
佐藤の手配で、少しずつ田中に振られる案件が減り始めていた。
一日十八件が、今日は十四件だった。
四件、減っていた。
四件分の時間が生まれていた。
(時間は、生まれない、って、あの人、言ってたな)
(でも、今、生まれてる)
田中は少し思った。
いや、「生まれた」のはたまたま、AIの設定変更の結果だった。
田中が作った時間ではなかった。
でも、田中の動きが、その変更を引き起こした。
遠いところで繋がっていた。
昼休み。
田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
男はいなかった。
田中はブースに戻った。
戻って、モニターを見た。
今朝の女性の対応ログが残っていた。
「破棄処理」と表示されていた。
田中はその文字を少し見ていた。
---
ふと、田中は中学生の頃を思い出した。
中学二年生。
陸上部に入っていた。
田中は足が速いほうではなかった。
でも、辞めなかった。
辞めようと思ったのに、辞めなかった。
顧問の先生に、「辞めます」と言いに行った。
先生は「もう少し頑張ろう」と言った。
田中は「はい」と答えた。
答えたあとで、田中は少しの間、立ったままだった。
口は動いたが、もう一度「辞めます」とは、言えなかった。
喉が詰まった。
結局、田中は卒業まで、陸上部に残った。
残っただけで、記録はほとんど伸びなかった。
いい思い出ではなかった。
でも、悪い思い出でもなかった。
ただ、「辞められなかった」ということだけが残った。
(あれも、「呪い」だったんだな)
田中は思った。
思ったが、ショックはなかった。
ただ、過去の自分が、今の自分と繋がっていた、という気づきだった。
午後、田中はまた電話を取り続けた。
午後は静かだった。
電話の件数はいつもより、少なかった。
五時半、退勤。
田中は通路を歩いていた。
監査部のプレートの前を通った。
会議室に男がいた。
今日は一人で、ノートPCを見ていた。
田中は通り過ぎるとき、男を少しだけ見た。
男は顔を上げて、田中を見た。
目が合った。
男は何も言わなかった。
田中も何も言わなかった。
でも、田中は一瞬、口を動かした。
「AI、呪い、繋がってました」
声にはならなかった。
男は気づかなかった。
気づかなかったが、男の目線は田中の口の動きを、少しだけ追った気がした。
気のせいかもしれない。
田中は通り過ぎた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
昨日の「呪い / AI / マニュアル、繋がっている」の下に、
「呪いの起源 / 陸上部 / 中二」
と書いた。
書いて、少し見ていた。
見て、田中は小さく笑った。
「一つ思い出すと、次も出てくる」
田中の記憶の引き出しは、長い間、開かなかった引き出しだった。
今、少しずつ開き始めていた。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中は思った。
(全部、思い出さなくてもいいか)
(思い出すものが、今の自分に必要な分だけ出てくれば、それでいい)
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
缶ビールを今日も買ってきた。
開けて、一口飲んだ。
苦い。
苦いが、今日の苦さはゆっくり喉を通った。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は陸上部の顧問の先生の顔を思い出した。
思い出したが、顔はぼんやりしていた。
名前も思い出せなかった。
でも、「辞めます」と言えなかった、その瞬間の感覚だけは覚えていた。
覚えていた、というより、今でも、その感覚は続いていた。
続いていたが、少しずつ弱くなっていた。
弱くなった感覚は、また戻ってくるかもしれない。
でも、戻ってきても、前ほど強くはない気がした。
弱まったまま、戻らないかもしれない。
そう思えること自体が、田中には意味があった。
眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は中学生の自分を見た気がした。
若い田中は走っていた。
記録は伸びていなかった。
でも、走っていた。
走り続けていた。
目が覚めたとき、その夢はもう、ぼんやりしていた。
ぼんやりしているが、完全には消えなかった。
残ったまま、田中は水曜日を始めた。




