第二十一話「ログ」
月曜日の朝、田中はいつもより少しだけ早く起きた。
週末は男が言った通り、「寝かせた」。
考え続けずに、別のことをした。
本屋で立ち読みをした。
近所のカフェでコーヒーを飲んだ。
公園で、桜がすっかり散ったあとの葉桜を見た。
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月曜日の朝、電車の中で、田中はノートを一度開いた。
「佐藤さんに聞くこと」の三つを、もう一度読んだ。
読んで、少し安心した。
読むだけで、頭の中は整理された。
フロアに着いた。
ブースに座った。
応答ランプが点滅した。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
朝一番は強めのクレームだった。
「おい、三回も電話、回されてんだよ!」
怒鳴り声。
息を吸いながら喋っていた。
田中は落ち着いて、状況を聞いた。
「申し訳ございません。もう一度、ご状況、伺ってもよろしいでしょうか」
「さっき、全部、話したろ!」
「はい。ただ、AIの記録では、お客様のご希望が正確に残っていない可能性が、あります」
「……」
「もう一度、お聞かせいただけますか」
顧客は少し黙った。
黙ったあとで、もう一度話し始めた。
さっきより、少し落ち着いていた。
田中はそれを丁寧に聞いた。
メモを取った。
対応を決めた。
通話は二十五分で終わった。
顧客は納得していた。
午前中、田中は他の案件も淡々と処理した。
月曜日の朝はいつも、電話が多いほうだった。
今日もそうだった。
でも、田中は集中できた。
集中できたのは、午後の打ち合わせのことを、頭の別の場所に置いていたからだった。
今の田中は、仕事と打ち合わせを別々に管理できていた。
前の田中なら、できなかったことだった。
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昼休み。
田中は自販機の前に立った。
男はいなかった。
田中はカフェオレを受け取って、ブースに戻った。
戻って、午後の電話を取った。
午後も忙しかった。
でも、五時前に田中は一区切りついた。
五時三十分。
退勤時刻だったが、田中はブースに残っていた。
五時三十五分、IT推進部の佐藤と名乗る男性が、フロアにやってきた。
三十代くらい。
眼鏡をかけていた。
ネクタイはしていなかった。
カジュアルなシャツを着ていた。
「田中さんですか」
「はい」
「佐藤です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
会議室に二人、入った。
会議室は狭かった。
テーブルと椅子が四つあった。
田中はノートとメモを持って、席に着いた。
佐藤はノートPCを開いた。
「さっそくですが、加藤さんからいただいた提案、面白かったです」
「……ありがとうございます」
「バッテリーの件、具体的な数字まで入っていて、すぐに分析できました」
「はい」
「それで、いくつか教えてほしいこと、あるんですけど」
田中は少し身を乗り出した。
男が言っていた通り、「聞く」モードに切り替えた。
「はい」
「田中さんは、いつからこういう記録、取ってましたか」
「……たぶん、三週間ほど前、からです」
「どうして、取り始めたんですか」
田中は少し考えた。
「なんとなく、です」
「なんとなく?」
「……同じ問い合わせが毎日、来るのが気になって」
「ほう」
佐藤はノートPCに何か打った。
「もう一つ、お聞きしたいんですが」
「はい」
「田中さんのブースには、AIがマニュアル外の案件を、多く振っているようですが」
「……はい」
「それ、ご自身では、どうしてだと思いますか」
田中は少し黙った。
「わかりません」
「そうですか」
佐藤はノートPCを、少し田中の方向に向けた。
画面にグラフが表示されていた。
横軸は日付。
縦軸は案件の振り分け先の割合。
田中のブースに振られた案件の割合が、他のオペレーターの三倍ほどあった。
その差はここ三ヶ月で、急に広がっていた。
「これ、AIの判定結果、なんですが」
「はい」
「AIは過去の対応履歴から学習して、振り分けを最適化しています」
「……」
「田中さんは過去、マニュアル外の案件をうまく処理した履歴が、多いんです」
「……」
「だから、AIが『この案件は田中に振れば、うまく処理される』と学習していった」
田中はモニターをじっと見た。
「でも、それ、お客様には無関係な仕組みなんです」
「はい」
「お客様はただ、電話をかけただけ」
「はい」
「AIは効率だけで、振り分けを決めている」
「……」
「だから、田中さんが一人で負荷を抱えている状態になってる」
田中は少し黙った。
黙ったあとで、頭の中で一つ、腑に落ちた感覚があった。
(なんで、僕ばっかりなんだろう)
その疑問の答えの一部が、今、見えた。
答えは、「田中が断らなかった」からだった。
断らなかった田中を、AIが学習していた。
断らない田中に案件を振ることが、AIの最適化だった。
田中は少し息を吐いた。
「佐藤さん」
「はい」
「これ、他のオペレーターにも平均的に、振られるようにできますか」
佐藤は少し目を丸くした。
「……できる、と思います」
「それ、やっていただきたいです」
田中は言った。
言ったあとで、自分の声が少し震えていた気がした。
でも、言えた。
佐藤は少し考えた。
「承知しました。そういう意図でマニュアル改善を進める、ということで」
「はい」
「それと平行で、AIの振り分けロジックも見直します」
「お願いします」
「はい、こちらこそ」
佐藤はノートPCを閉じた。
打ち合わせは三十分で終わった。
短かった。
田中は少し驚いた。
男が言っていた通り、「最初の十分で話、終わるかもしれないし、一時間、話し続けるかもしれない」。
今回は前半だった。
田中は佐藤と、廊下で別れた。
別れたあと、田中は会議室の椅子に、少しの間座っていた。
座りながら、田中は考えた。
(AIは、田中が断らなかったから、田中に振るようになった)
(断らなかったのは、呪いのせい)
(呪いが、AIの判定ロジックに組み込まれていた)
田中の頭の中で、三つの円が重なった。
呪い。
AI。
マニュアル。
全部、繋がっていた。
繋がっていたのが、今、見えた。
駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「呪い / AI / マニュアル、繋がっている」
と書いた。
書いたあとで、少し立ち止まった。
書いた言葉が、田中には少し重すぎた。
重いが、逃げる必要はなかった。
逃げても、呪いはそこにある。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中は考えた。
(呪いがAIに学習された)
(学習された、ということは、解除もできる)
解除はAIで済む話だった。
でも、田中本人の呪いも解除できるかは、わからなかった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
今日は缶ビールを買ってきた。
久しぶりだった。
開けた。
一口飲んだ。
苦い。
苦いが、今日の苦さは悪くなかった。
祝いの苦さだった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(呪いを解除するのは、誰か)
答えはわかっていた。
田中自身だった。
AIは田中が変われば、自動的に学習を更新していく。
田中は自分が変われば、それで済む。
問題は、田中が変わるのが簡単ではないことだった。
でも、今日までに田中は少しずつ変わっていた。
変わっていた、という事実は、もうあった。
だから、これからも変わっていけるかもしれなかった。
眠りに落ちながら、田中はもう一度考えた。
(あの男、知ってたのかな)
(AIと呪いが繋がってる、って)
答えは出なかった。
でも、田中の中で、「知っていたかもしれない」という感覚は残った。
残ったまま、田中は眠った。




