第二十話「改善」
クリックした。
メールが開いた。
本文は短かった。
「加藤さんから、マニュアル改善のご提案、拝見しました。
非常に的確な分析だと感じました。
一度、お話伺いたいのですが、来週、お時間ございますか。
IT推進部 / 佐藤」
田中はメールを三回読んだ。
読みながら、田中の指は少し震えた。
震えは一瞬だった。
震えが収まったあと、田中はゆっくり息を吐いた。
「的確な分析」
その言葉に、田中の目が止まった。
田中は自分のメモを「分析」と呼ぶことはなかった。
「思いつき」くらいの感覚だった。
でも、IT推進部の佐藤という人は、「分析」と呼んだ。
田中はモニターから一度、目を離した。
ブースの天井を見上げた。
蛍光灯のカバーの虫の死骸は、今日もそこにあった。
田中は少し笑った。
笑ったというか、口の端が一ミリ動いた。
返信を書いた。
「お読みいただき、ありがとうございます。
来週、月曜日、夕方、五時半以降でしたら、お伺いできます。
コールセンター、田中」
短く書いた。
敬語が少し足りない気がしたが、直さなかった。
直すとまた、時間がかかる気がした。
送信を押した。
応答ランプが点滅した。
田中はヘッドセットをつけた。
「お電話ありがとうございます、サポートセンターの田中が承ります」
朝一番は緊急性案件だった。
商品の発送が遅れて、顧客の法事に間に合わない件。
田中は配送業者と工場に、両方、内線を入れた。
結果、翌日の午前中までに、別経路で届ける手配ができた。
顧客はお礼を言って、電話を切った。
午前中、田中は他にも三件対応した。
判断が速かった。
判断が速いことは、田中の中でもう当たり前になっていた。
十一時四十五分。
田中は加藤のブースに行った。
加藤は電話中だった。
田中は少し離れた場所で待った。
加藤が電話を切ったあとで、田中は声をかけた。
「加藤さん」
「おう」
「IT推進部の佐藤さんから、メール来ました」
加藤は少し笑った。
「良かったな」
「はい」
「どう書いてあった?」
「来週、月曜日、打ち合わせを、って」
「じゃ、ちゃんと読んでくれたんだな」
「……はい」
「良かった」
加藤は缶コーヒーを開けた。
「月曜日、うまく話せるといいな」
「はい」
「何、話すか、準備しとけよ」
「……はい」
加藤は缶を飲んだ。
飲みながら、少し考えるような顔をした。
「田中くん」
「はい」
「最初の十分で話、終わるかもしれないし、一時間、話し続けるかもしれない」
「はい」
「どっちでも対応できるように、準備しとくといい」
「はい」
「要点、三つ、メモしとけば、大丈夫」
「わかりました」
加藤はそう言って、ブースに戻った。
田中は自分のブースに戻った。
昼休みまでの残りの時間で、要点三つを整理した。
一つ目、バッテリーの件数と、ケーブル抜き差しの成功率。
二つ目、AIのマニュアル通りの対応では、解決しないケースの傾向。
三つ目、マニュアルの更新によって、減らせる件数の推定。
それぞれ、数字を一つずつ書き加えた。
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昼休み。
田中は自販機の前に立った。
いつものカフェオレ。
缶を受け取って振り返った。
あの男がいた。
缶コーヒーのボタンを押していた。
「君さ」
「はい」
「動いた?」
田中は少し驚いた。
「……どうして」
「顔が違うから」
田中は少し黙った。
「……はい」
「どこと?」
「IT推進部、です」
男は少し目を細めた。
細めたのは、笑ったかもしれない。
でも、笑った顔ではなかった。
別の表情だった。
「ふーん」
男は缶を受け取った。
「月曜日、打ち合わせなら、金曜日の夜まで寝かせとくといい」
「はい」
「考え続けると、詰まるから」
「はい」
「で、本番は、聞くことに集中」
「聞くこと?」
「そう。話すより、聞くほう大事」
男は缶を口に運んだ。
「相手が何に興味、持ってるか、聞けば、話す内容、決まる」
「……」
「まあ、気になっただけ」
そう言い残して、男は缶を持ったまま去っていった。
田中は自販機の前に、少しの間立っていた。
(話すより、聞くほう大事)
田中は頭の中で、その言葉を繰り返した。
田中は今までの人生で、「話す」ことをあまりしてこなかった。
「聞く」ことは仕事で毎日していた。
田中の得意なほうを使え、と男は言った。
少なくとも、田中にはそう聞こえた。
午後、田中は電話を取りながら、頭の中で「聞くこと」の準備をした。
相手が何を聞きたいか。
どういう立場から聞くか。
答えはわからない。
わからないから、「聞く」。
その順番で進める。
五時半。
退勤。
田中は通路を歩いていた。
途中、あの男が向こうから歩いてきた。
すれ違う直前に、田中は少しだけ頭を下げた。
男は田中を見た。
見たが、何も言わなかった。
目だけが合った。
すれ違う瞬間、男の顔が一瞬、止まって見えた。
止まったというか、男の目線が、田中の向こう側を見ているような一秒。
田中は振り返らなかった。
振り返らずに、通り過ぎた。
通り過ぎたあとで、田中はなんとなく感じた。
(今、あの人、何か思い出してた気がする)
思い出していたのが何なのかは、わからない。
わからないが、あの一瞬の目線は、田中の先を見ていなかった。
もっと遠くを見ていた。
遠い場所、もしくは、遠い時間を見ていた気がした。
気のせいかもしれない。
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田中は駅までの道を歩いた。
春の夕方の空気は、もう少しだけ夏に近づいていた。
柔らかい空気。
田中は歩きながら、ノートを出した。
出して、歩きながら書いた。
「佐藤さんに聞くこと」
「一. どういう立場から聞いてるか」
「二. マニュアル更新の決裁権は、誰か」
「三. この提案に期待してること、何か」
書いて、少し見た。
三つ書いたことで、田中の頭は少し軽くなった。
電車に乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中は思い出した。
さっきのあの男の目線。
田中はなぜか、その目線が気になった。
気になる理由は、わからなかった。
家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
テレビはつけなかった。
夕食を食べたあとで、田中はノートをもう一度見た。
佐藤さんに聞くこと、三つ。
これを月曜日まで、頭に入れておく。
あとは男が言っていた通り、「寝かせる」。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(あの人、誰に似てるんだろう)
あの男のあの遠い目線。
田中は思い出そうとしたが、誰にも似ていなかった。
誰にも似ていないのに、田中には妙に見覚えのある目線だった。
見覚えがあるのが、誰なのかは思い出せなかった。
思い出せないまま、田中は眠った。
眠りは深かった。
深い眠りの中で、田中は遠いどこかの誰かの顔を、見た気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、明日、目が覚めたときに、その顔はもう思い出せないかもしれない。
思い出せなくても、あの目線だけは、田中の中に残った。
残ったまま、週末が始まった。




