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第十九話「孤立」

火曜日の朝。


田中はいつもより、少しだけ疲れていた。


眠りが浅かったからだった。


先輩の「別に、いいんだけど」が、まだ耳の奥に残っていた。


朝一番の電話は、臨機応変案件だった。


顧客は怒っていた。


配送の時間指定が守られなかった件。


田中は状況を聞いて、配送業者に内線を入れて対応した。


顧客は最終的には納得した。


通話のあと、田中はモニターを見た。


対応時間、二十三分。


今日は少し長い。


昨日までは平均、十五分くらいだった。


(集中できてないな)


田中は思った。


思って、少し息を吐いた。


十時半、鈴木が田中のブースに顔を出した。


「田中くん、ちょっといい?」


「はい」


口が勝手に動いた。


でも、「はい」と言っても、喉は詰まらなかった。


詰まらない「はい」だった。


鈴木は少し躊躇った。


「最近、田中くん、余裕ある?」


「……え?」


「いや、余裕というより、時間かな」


「……」


「私、今日、夕方、子どもの面談で早退なんだけど」


「はい」


「頼める案件、あるんだけど」


田中は一瞬、黙った。


以前なら即答で「はい」だった。


今日は少し考えた。


頼まれた案件はどのくらい、時間がかかるのか。


自分の今日の予定はどうか。


マニュアル書き換えの方の進捗はどうか。


考えている間、鈴木は田中の顔を見ていた。


「……あ、ごめん、ダメならいいよ」


鈴木は少し早口で言った。


「以前と違って、忙しいよね」


「いえ」


田中は答えた。


「取ります」


口が勝手に動いた。


でも、今日は考えたあとで言った「取ります」だった。


考えた分、少しだけ身体が軽かった。


鈴木は少しほっとした顔で、


「ありがとう。ほんとに助かる」


と言った。


田中は少し頷いた。


鈴木は荷物をまとめて、去っていった。


そのあと、田中は鈴木から回された案件を取った。


返品の手続きだったが、マニュアル外の特例だった。


田中は三十分対応した。


対応しながら、田中は思った。


(これ、マニュアルに載っていれば、AIで終わる案件だ)


でも、載っていない。


載っていないから、AIが振る。


振られた先がたまたま鈴木で、鈴木が忙しかったから、田中に来た。


その経路自体が、マニュアルの不備の結果だった。


田中は対応のあと、モニターにメモを残した。


「マニュアルに追加候補」と書いた。


書いただけで、誰にも送らなかった。


でも、モニターのメモ欄に残したことで、田中の頭の中は少し整理された気がした。


---


昼休み。


田中は自販機の前に立った。


いつものカフェオレ。


缶を受け取って振り返った。


あの男がいた。


缶コーヒーのボタンを押していた。


「君さ」


「はい」


田中は答えた。


「疲れてる?」


田中は少し黙った。


「……少し」


「そう」


男は缶を受け取った。


「それ、普通だよ」


「え?」


「新しいこと始めると、前のことと両方、やることになるから、疲れる」


「……はい」


「しばらく、そうだから」


男は缶を口に運んだ。


一口飲んだ。


「でも、いつか、どっちか片方に絞る日が来る」


「はい」


「それまで、どうするかは、君次第」


男はそれ以上、言わなかった。


缶を持ったまま、去っていった。


田中は少しの間、立っていた。


(新しいことと、前のことと、両方)


田中は今、それをやっていた。


書き換えの準備と、通常のクレーム対応。


それと、鈴木や先輩への配慮。


三つ、同時にやっている。


だから、疲れる。


疲れるのは当たり前だった。


当たり前、と思うと、少し楽になった。


「疲れている自分がおかしい」ではなく、「今はそういう時期」になった。


午後、田中はまた電話を取り続けた。


今日は臨機応変案件が続いた。


田中は一件ずつ丁寧に対応した。


対応時間はいつもより、少し長かった。


でも、それは仕方がない、と思った。


五時半。


田中は帰り支度をしていた。


ふと、モニターのログを見た。


今日、対応件数、十四件。


平均対応時間、十八分。


先週の月曜日と比べて、少し落ちていた。


(まあ、今日はこういう日)


田中は少し自分に言った。


言ったが、ログの下の「月間ランキング」は、まだ一位だった。


少し意外だった。


他の人も対応時間が落ちていたのかもしれない。


通路を歩いた。


監査部のプレートの前を通った。


会議室にあの男がいた。


ノートPCを見ていた。


今日は男の顔が、少し疲れて見えた。


疲れているというより、集中している顔だったかもしれない。


田中には区別がつかなかった。


田中は通り過ぎた。


通り過ぎるとき、男は顔を上げなかった。


---


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを開いた。


「鈴木さん / 先輩 / 少し戸惑ってる?」の下に、


「新しいことと、前のこと、両方。疲れるのは当たり前」


と書いた。


書いて、少し見ていた。


見ているうちに、田中は少しだけ落ち着いた。


家に着いた。


ノートをテーブルに置いた。


今日も缶ビールは買ってこなかった。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに、田中は一つだけ考えた。


(加藤さん、IT部門にいつ、渡すんだろう)


答えは出なかった。


でも、「いつ」が気になる、ということは、田中はもう待つ段階にいた。


待つのは、田中はあまり得意ではなかった。


---


水曜日も、田中は電話を取り続けた。


昼休み、自販機の前で、あの男は見かけなかった。


夕方、ノートを開いたが、書くことが浮かばなかった。


書けないまま、ノートを閉じた。


「いつ連絡が来るか」を、田中は頭の隅で待っていた。


待つのは、田中はあまり得意ではなかった。


木曜日の夕方、田中が退勤する前に、加藤が通りかかった。


加藤は田中のほうを見て、少し頷いた。


頷いただけだった。


言葉はなかった。


田中も会釈を返した。


それだけだった。


田中は意味を考えた。


「渡した」の合図だったのか。


「まだ、だ」の合図だったのか。


わからなかった。


でも、頷いただけでも、田中には意味があった。


加藤さんは忘れていない。


それだけで、田中は少し安心した。


金曜日の朝、田中はまた疲れて起きた。


疲れていたが、今日は朝から前向きだった。


前向き、という言葉を田中は使わなかった。


でも、感覚はそうだった。


ブースに着いてモニターを見ると、一通の社内メールが届いていた。


差出人は知らない名前だった。


件名には、「マニュアル改善提案について」と書いてあった。


田中はそのメールをしばらく見ていた。


見ていただけで、開かなかった。


開く前の一瞬が、田中には長かった。


長い一瞬の中で、田中は深く息を吸った。


吸って、吐いた。


指先がマウスに触れた。


触れた指先は、少しだけ冷たかった。


冷たさは月曜日の朝、メモを持って部長のデスクに行った時と、同じ冷たさだった。


同じ冷たさが今日も、指先にあった。


あったのに、田中はそれが怖くはなかった。


それから、マウスでクリックした。


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