表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/21

第十八話「戸惑い」

月曜日。


十二時二十五分、田中は休憩室の前に立っていた。


時計を見た。


約束の五分前。


ノートをポケットに入れていた。


メモは昨日の夜、書き直していた。


一週間、考えていたことをひとつの紙にまとめた。


十二時三十分、加藤が廊下から歩いてきた。


「お、早いね」


「……はい」


「座ろう」


休憩室に二人、座った。


テーブルを挟んで、田中がメモを出した。


加藤はメモを受け取った。


読んでいる目の動きが速かった。


元IT部門の慣れだろうか、と田中は思った。


「ふむ」


加藤はメモを置いた。


「書き換え、本気でやるつもり?」


「……はい」


「件数、減らしたい?」


「はい」


「減らして、その時間、何に使いたい?」


田中は少し黙った。


「……もっと書き換えたいです」


加藤は少し笑った。


「そうか」


「はい」


「IT部門の同期に、渡してみるよ、これ」


田中は少し目を丸くした。


「……いいんですか」


「うん」


加藤は缶コーヒーを開けた。


「ただし、条件、一つある」


「はい」


「これ、田中くんが書いた、って言う」


「……」


「俺が持ってきた、じゃ、通らないから」


田中は少し黙った。


「はい」


「月末まで、待って、連絡する」


「ありがとうございます」


「いや、俺も暇、だから」


加藤は少し笑った。


田中も少しだけ笑った。


休憩室を出たあと、田中は自分のブースに戻った。


ブースに座って、応答ランプが点滅するのを見た。


田中は少しの間、動かなかった。


(加藤さん、動いてくれる、って)


実感が追いつかなかった。


長く一人で抱えていたものが、外に出た感じがした。


出ても、まだ田中のものだった。


他人に渡されたわけではなかった。


同じ方向を見てくれる人が、一人増えただけだった。


でも、それだけで、世界は少し違って見えた。


見え方が違うと、自分の動き方も変わるらしい。


田中はヘッドセットをつけた。


午後、田中はまた電話を取り続けた。


今日は怒鳴り声の案件が多かった。


マニュアル外の強い怒り。


「責任者、出せ!」


田中は少し黙った。


以前なら、「責任者に代わります」と即答していた。


でも、今日は少し違った。


「責任者の前に、もう一度状況を、伺ってもいいでしょうか」


「は? 同じことを、何回言わせるんだよ」


「申し訳ございません。でも、もう一度聞かせてください」


田中は粘った。


粘って、顧客の話を聞いていると、実は怒りの原因が、商品ではなく、配送の遅延だったことが、わかった。


配送の状況を確認して対応した。


顧客は最終的に納得した。


通話時間、十八分。


責任者に振っていたら、四十分はかかっていた。


---


夕方、田中は帰り支度をしていた。


ふと、鈴木の視線を感じた。


鈴木は田中のほうを見ていた。


目が合った。


鈴木は一瞬、何か言おうとしたが、言わずに視線を外した。


自分のブースで、キーボードを打ち始めた。


田中は少し気になった。


(鈴木さん、何か言いたそうだった?)


でも、声をかけるタイミングは、もうなかった。


鈴木は電話を取っていた。


田中はブースを立った。


通路を歩いた。


途中、先輩とすれ違った。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


先輩は少し立ち止まった。


「田中くん、最近、急ぎのクレーム、代わってくれないこと、多い?」


田中は少し黙った。


「……はい」


「ま、別にいいんだけどさ」


先輩は少し笑った。


笑ったが、目は笑っていなかった。


「前は代わってくれてたから、ちょっと驚いたよ」


「……申し訳ありません」


「いや、謝ることじゃない」


先輩はそう言って、通路を歩いていった。


田中は立ったまま、先輩の背中を見ていた。


(あ)


田中は気づいた。


先週、「今、手が離せません」と断ったことを、先輩は覚えていた。


一度、断ったあと、田中はもう何度か、断るようになっていた。


意識していなかった。


でも、先輩は意識していた。


(別に、いいんだけどさ)


その言葉は少し引っかかった。


「別に、いいんだけど」は、「少しよくない」に近い意味だった。


田中はそう感じた。


感じたが、今日は気にしないようにした。


気にしすぎると、動けなくなる気がした。


動けなくなるのは、もう嫌だった。


---


駅のホーム。


電車を待ちながら、田中はノートを開いた。


「加藤さん / 月曜、十二時半、休憩室」の下に、


「加藤さん、IT部門の同期に渡してくれる / 月末まで」


と書いた。


書いてから、少し見ていた。


その下に、もう一行加えた。


「鈴木さん / 先輩 / 少し戸惑ってる?」


書いて、田中は眉を少し寄せた。


眉を寄せるのは、田中はあまりしない動作だった。


電車が来た。


田中は乗った。


車内で吊革につかまって揺られた。


揺られながら、田中は考えた。


(周りの人が戸惑うのは、当たり前かもしれない)


(僕が変わってるから)


でも、変わったのは田中一人だった。


他のみんなは今まで通りだった。


今まで通りのみんなと、変わった田中の間に、少しずれがあった。


---


家に着いた。


ノートをテーブルに置いた。


閉じないで、開いたまま置いた。


今日も、缶ビールは買ってこなかった。


でも、今日は一瞬、買いたい気がした。


買いたい気がしたのは、先輩の「別に、いいんだけど」が耳に残っていたからかもしれない。


残っていたが、結局、買わなかった。


買わなくても、眠れそうだった。


布団に入った。


目を閉じた。


眠るまでに、田中は一つだけ考えた。


(鈴木さんにも、先輩にも、言うべきことあるかもしれない)


(言わないと、ずれは広がるかもしれない)


でも、何をどう言うか、わからなかった。


わからないまま、田中は眠った。


眠りは少しだけ浅かった。


浅い眠りの中で、田中は先輩の「別に、いいんだけど」という声を、何度か聞いた気がした。


気のせいかもしれない。


気のせいでも、朝、目が覚めた時には、その声はまだ耳に残っていた。


「別に、いいんだけど」の「けど」のあとに続く言葉は、先輩も言わなかった。


言わなかった言葉の方が、たぶん本音だった。


本音を言わずに、「けど」で終わらせることは、田中自身もずっとやってきたことだった。


同じやり方をされると、痛いものだ、と田中は少しだけ気づいた。


気づいたことで、田中の中の「はい」の続きも、少しだけ変わるかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ