第十八話「戸惑い」
月曜日。
十二時二十五分、田中は休憩室の前に立っていた。
時計を見た。
約束の五分前。
ノートをポケットに入れていた。
メモは昨日の夜、書き直していた。
一週間、考えていたことをひとつの紙にまとめた。
十二時三十分、加藤が廊下から歩いてきた。
「お、早いね」
「……はい」
「座ろう」
休憩室に二人、座った。
テーブルを挟んで、田中がメモを出した。
加藤はメモを受け取った。
読んでいる目の動きが速かった。
元IT部門の慣れだろうか、と田中は思った。
「ふむ」
加藤はメモを置いた。
「書き換え、本気でやるつもり?」
「……はい」
「件数、減らしたい?」
「はい」
「減らして、その時間、何に使いたい?」
田中は少し黙った。
「……もっと書き換えたいです」
加藤は少し笑った。
「そうか」
「はい」
「IT部門の同期に、渡してみるよ、これ」
田中は少し目を丸くした。
「……いいんですか」
「うん」
加藤は缶コーヒーを開けた。
「ただし、条件、一つある」
「はい」
「これ、田中くんが書いた、って言う」
「……」
「俺が持ってきた、じゃ、通らないから」
田中は少し黙った。
「はい」
「月末まで、待って、連絡する」
「ありがとうございます」
「いや、俺も暇、だから」
加藤は少し笑った。
田中も少しだけ笑った。
休憩室を出たあと、田中は自分のブースに戻った。
ブースに座って、応答ランプが点滅するのを見た。
田中は少しの間、動かなかった。
(加藤さん、動いてくれる、って)
実感が追いつかなかった。
長く一人で抱えていたものが、外に出た感じがした。
出ても、まだ田中のものだった。
他人に渡されたわけではなかった。
同じ方向を見てくれる人が、一人増えただけだった。
でも、それだけで、世界は少し違って見えた。
見え方が違うと、自分の動き方も変わるらしい。
田中はヘッドセットをつけた。
午後、田中はまた電話を取り続けた。
今日は怒鳴り声の案件が多かった。
マニュアル外の強い怒り。
「責任者、出せ!」
田中は少し黙った。
以前なら、「責任者に代わります」と即答していた。
でも、今日は少し違った。
「責任者の前に、もう一度状況を、伺ってもいいでしょうか」
「は? 同じことを、何回言わせるんだよ」
「申し訳ございません。でも、もう一度聞かせてください」
田中は粘った。
粘って、顧客の話を聞いていると、実は怒りの原因が、商品ではなく、配送の遅延だったことが、わかった。
配送の状況を確認して対応した。
顧客は最終的に納得した。
通話時間、十八分。
責任者に振っていたら、四十分はかかっていた。
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夕方、田中は帰り支度をしていた。
ふと、鈴木の視線を感じた。
鈴木は田中のほうを見ていた。
目が合った。
鈴木は一瞬、何か言おうとしたが、言わずに視線を外した。
自分のブースで、キーボードを打ち始めた。
田中は少し気になった。
(鈴木さん、何か言いたそうだった?)
でも、声をかけるタイミングは、もうなかった。
鈴木は電話を取っていた。
田中はブースを立った。
通路を歩いた。
途中、先輩とすれ違った。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
先輩は少し立ち止まった。
「田中くん、最近、急ぎのクレーム、代わってくれないこと、多い?」
田中は少し黙った。
「……はい」
「ま、別にいいんだけどさ」
先輩は少し笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「前は代わってくれてたから、ちょっと驚いたよ」
「……申し訳ありません」
「いや、謝ることじゃない」
先輩はそう言って、通路を歩いていった。
田中は立ったまま、先輩の背中を見ていた。
(あ)
田中は気づいた。
先週、「今、手が離せません」と断ったことを、先輩は覚えていた。
一度、断ったあと、田中はもう何度か、断るようになっていた。
意識していなかった。
でも、先輩は意識していた。
(別に、いいんだけどさ)
その言葉は少し引っかかった。
「別に、いいんだけど」は、「少しよくない」に近い意味だった。
田中はそう感じた。
感じたが、今日は気にしないようにした。
気にしすぎると、動けなくなる気がした。
動けなくなるのは、もう嫌だった。
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駅のホーム。
電車を待ちながら、田中はノートを開いた。
「加藤さん / 月曜、十二時半、休憩室」の下に、
「加藤さん、IT部門の同期に渡してくれる / 月末まで」
と書いた。
書いてから、少し見ていた。
その下に、もう一行加えた。
「鈴木さん / 先輩 / 少し戸惑ってる?」
書いて、田中は眉を少し寄せた。
眉を寄せるのは、田中はあまりしない動作だった。
電車が来た。
田中は乗った。
車内で吊革につかまって揺られた。
揺られながら、田中は考えた。
(周りの人が戸惑うのは、当たり前かもしれない)
(僕が変わってるから)
でも、変わったのは田中一人だった。
他のみんなは今まで通りだった。
今まで通りのみんなと、変わった田中の間に、少しずれがあった。
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家に着いた。
ノートをテーブルに置いた。
閉じないで、開いたまま置いた。
今日も、缶ビールは買ってこなかった。
でも、今日は一瞬、買いたい気がした。
買いたい気がしたのは、先輩の「別に、いいんだけど」が耳に残っていたからかもしれない。
残っていたが、結局、買わなかった。
買わなくても、眠れそうだった。
布団に入った。
目を閉じた。
眠るまでに、田中は一つだけ考えた。
(鈴木さんにも、先輩にも、言うべきことあるかもしれない)
(言わないと、ずれは広がるかもしれない)
でも、何をどう言うか、わからなかった。
わからないまま、田中は眠った。
眠りは少しだけ浅かった。
浅い眠りの中で、田中は先輩の「別に、いいんだけど」という声を、何度か聞いた気がした。
気のせいかもしれない。
気のせいでも、朝、目が覚めた時には、その声はまだ耳に残っていた。
「別に、いいんだけど」の「けど」のあとに続く言葉は、先輩も言わなかった。
言わなかった言葉の方が、たぶん本音だった。
本音を言わずに、「けど」で終わらせることは、田中自身もずっとやってきたことだった。
同じやり方をされると、痛いものだ、と田中は少しだけ気づいた。
気づいたことで、田中の中の「はい」の続きも、少しだけ変わるかもしれない。




